堕落した猿

犬腹 高下

 小学生の頃は、サッカー選手になりたかった。休み時間や放課後にサッカーをするのは楽しかったし、周りの友達も大体がスポーツ選手になりたがっていたから、それに倣ったのだ。あの頃のぼくらはみんな壮大な夢を抱いていて、小学校の卒業文集の「将来の夢」のページは非現実的な夢で溢れていた。

 しかし、そんな中で、「サラリーマン」と書いた子がいた。 

 当時の僕たちは彼の将来の夢を「つまらない」「夢がない」とからかったけれど、今思えば彼の方こそ僕たちのおめでたい且つ、ありきたりな夢を笑っていたことだろう。あの時、彼こそが、彼だけが至極現実的に自分の未来を見据えていたのだ。

 当時の自分が放ったその“つまらない”大人にすらなれなかった僕は、ぐるぐると激しく左右に半回転し続ける視界と五秒おきに迫り上がってくる嘔吐感に耐えながら、これは身の程を知らずに現実から目を背け続けた自分への罰なのだと、混濁する頭で考えていた。

 口の中にすっぱい味と過剰に分泌された唾液が広がっている。額やこめかみ、手のひらがぬめぬめと濡れている。多分汗だろうと考えている間にも胃の中身が押し上げられてきて、大量の錠剤を飲み下したため熱を持ち痛む喉を鳴らして飲み込んだ。酷い味がする。

 誰かに何かを言っておきたいような気がして、ぬめる手で床に転がっている携帯電話を引っ掴んだものの、思い当たる人物など一人もいないことに気がつく。それでも僕は縋り付くようにそのかすり傷だらけの携帯電話を握りしめていた。

 薄手のカーテンを貫通した月の明かりだけが頼りだった薄暗い部屋に、液晶画面の眩い光が灯る。吐き気が増した。まぶたが光を拒絶するようにびくびくと痙攣する。激しい頭痛の中、必死に眼球を動かして確認できたのは、倒れたエレキギターと散乱した税金の督促状だけで、僕は自分の嗚咽だか笑い声だか判別のつかない声を耳にし、目を閉じた。


「兄ちゃん、自殺未遂したんだって? 最近の若い奴はどうしてこう、打たれ弱いのかね」

 隣のベッドに沈んでいる禿頭の老人が山賊のような笑い声をあげた。その声は四つのベッドが所狭しと詰め込まれている病室に反響し、まだゆるく痛む頭をぐらぐらと揺さぶった。

 老人という奴はどうしてこうも無神経なのだろうと、蛍光灯の光を反射している禿頭を引っ叩きたい気持ちを抑え込みながら考える。

「うるせえな、関係ないだろ。色々あるんだよ」

「色々!」

 老人はとびきり面白いものでも見たかのように大口を開けて笑う。人の神経を逆撫でするのがえらく上手いジジイだな、と少し関心してしまった。

「っていうか、なんで知ってるんだよ」

 老人が何の事だと言いたげな顔をするので「俺が、未遂したって」と声を潜めて補足してやる。すると、黄ばんだ歯を見せて言った。

「ここの看護師はな、口が軽いんだよ。お前みてぇなのは、暇な入院患者達の格好のネタってわけだ」

「プライバシーとか、ねえのか。ここは」

「あるわけねえだろ。恨むんだったら死にぞこなった自分を恨むんだな」

 一理ある、と唇を噛んだ。息を吐きながら眉間を揉む。好奇の目に晒されるのも嫌だったが、それだけではない。

 今朝方、胃洗浄を終え体調が落ち着いた僕に、容体を説明してくれた中年の医師の言葉を思い出す。

「私たちはね、患者の命を救うのが仕事なんですよ。義務といってもいい。例え患者が生きることを望んでいなくてもね」

 でっぷりと脂肪の乗った腹をボールペンの先で掻きながら、非常に面倒くさそうに言った。一重の腫れぼったい目から侮蔑の意を感じたのは僕の思い込みではないはずだ。

「くそっ。タイミングが悪かったんだ。いつもは家賃の支払いが遅れたって何も言ってこないのにあの日に限って、大家の奴が……」

 僕が文字通り頭を抱えて独りごつと、見た目の割に聴力は衰えていらしい老人が

「そりゃ感謝しなきゃなんねえな。そん人が見つけてくんなかったら、今頃は暑さにやられて腐っちまってたよ」

 そっちの方が、いくらかマシだった。電気もガスも止められて家賃も滞納していたのに、医療費までかかるはめになった。数ヶ月前に辞めたバイト先の社保を抜けてから保険証を作っていなかったから、入院費に保険が適用されないのではないかと気が気でない。

 売店で下着の替えを買った際、財布には千円札が二枚と小銭がいくらかしか入っていなかったし、銀行口座はとっくにマイナスだ。

 自分の置かれている状況を考えると、焦燥感と絶望感がまとわりついてきてただでさえ悪い頭の回転がさらに鈍いものになる。無意識のうちに呼吸は浅くなって、身体が縮こまる。全身を巡る血液が腐って血管を詰まらせていく気がする。

「それにしてもお前、若いのに誰も見舞いに来ねえんだな。嫌われ者か?」

「じいさん、黙って寝てろよ。血圧が上がってぽっくりいきたくねえだろ」

「死にたがってた奴とは思えないほど威勢が良いなぁ、兄ちゃん」

 老人が口を閉じてくれる気配は微塵も無い。僕は長いため息を吐いて嫌悪感と拒否感を露わにしたのだが、そんなこと気にも留めずに彼は喋り続ける。

「俺も見舞い人なんていやしねえんだ。暇人どうし仲良くしようや」

「あんたも嫌われ者なんじゃねえか」

「馬鹿言うな、俺には最愛の嫁さんがいたんだよ。五年前に逝っちまったけどな」

 なるほど、壁に貼ってある写真は亡くなった奥さんのようだ。とすると、老女と一緒に写っている青年は息子だろうか。湧いてきた疑問を投げかけようとすると、老人の方が先に口を開いた。

「お前はいねえのか、世話焼いてくれる女」

「……いたけど、去年の冬にふられた」

 老人は豪快に笑い出した。僕は痛みの増した頭に刺激を与えないよう、そろそろとシーツをかぶって丸くなった。


 当初はすぐに退院できるという話だったのだが、市販薬の過剰摂取を頻繁に行っていた僕の胃はひどい有様らしく、暫くの間入院することとなった。金銭面の不安から僕はそれを拒否しようとしたのだが、中年の医師によりあっさりと却下された。

「いくらあなたがご自身の体を虐げたいと思っていらしても、私たちは患者を治療する義務がありますからね」

 心療内科への紹介状が必要であれば言ってくれとして医者は会話を切り上げ、僕が意見する余地は与えられなかった。

 一旦、今後の問題について頭を悩ませるのはやめにして、ただぼうっと、ベッドの上に佇むことにした。夢を見たり壁を見たり天井を見たりするだけで一日を無意味に消費していく僕を、隣のベッドの老人、杉山さんは日夜飽きることなく揶揄った。

 入院して四日も経つと、あんなにやかましいと思っていた杉山さんとも自然と話をするようになった。娯楽のない空間で黙っていることに耐えきれなくなったためであり、また、頭痛や体の痺れ、全身を覆うようなぞわぞわとした不快感などの離脱症状、それと薬を渇望する気持ちから気をそらすためでもあった。

 同室にはもう一人の入院患者である岩崎くんという中学生の男の子がいて、杉山さん曰く彼はこの病院に長く入院している大ベテランなのだそうだ。

 それを聞いたとき僕はやはり無神経なジジイだと呆れてしまったが、当の岩崎くんは大人びた顔に微笑を浮かべ「僕は皆よりも大先輩だから、なんでも聞いてね」と言ってのけたのだった。最近の中学生は随分と肝が座っているなと感動したが、しかしそれは彼が長年の病院生活で身につけた術なのだろう。窓の外、夏の鋭い日差しとはまるで別の世界の生き物のような生白い肌を見ていると、そう思わざるを得ない。


「兄ちゃん、仕事は何してるの?」

 ある昼下がり、暇な入院患者三人でUNOをしている時に岩崎くんがある意味当然であろう疑問を口にした。

「フリーターだったけど、無職になった」

「え、仕事してないの? どうやって生活してたの?」

「日雇いやったりしたけど、まぁ、金が尽きたから借金」

 杉山さんはカードを持つ手を震わせながら笑った。きっと、人の不幸が何よりも好きなのだろう。無垢な中学生は驚きと不安が入り混じったような顔をしている。なかなかに屈辱的であった。しかし、中学生の頃の自分が彼の立場であったらもっと露骨に軽蔑の眼差しを向けていただろうから、やはり彼は普通の中坊より思いやりのある子供なのだろう。

「大人って大変なんだね」

「安心しな。坊主は真面目で要領も良いし、おまけに勤勉だ。こうはならねえよ」

 赤色の七のカードを出して、杉山さんが「UNO」と宣言する。

「別に僕、真面目なんかじゃないよ」

 頬を薄く朱に染めて、照れ隠しなのか眉を寄せた岩崎くんが黄色の七のカードを出して一抜けした。ここに来てから初めて彼の子供らしい一面を目にした気がする。

「返す言葉もございませんわ」

 確かに、岩崎くんはいつも夏目漱石だとか芥川だとかの本をせっせと読んでいる。僕のような堕落した人間になるとは到底思えなかった。せっかく彼に向けられたスポットライがぶれないように反論を飲み込んで当たり障りのないことを言い、カードの山から一枚抜き取る。緑の三が手札に増えた。杉山さんが黄色の六を出してあがった。


 金の問題から目を背ければ、病院での生活も悪くないなと思い始めた一週間目の昼。検査のため杉山さんの姿がない病室はいつもよりしんみりとしていて、僕のベッドがギッギッと小さく揺れる音がやけに響いていた。薬を欲する身体が勝手に貧乏ゆすりをするせいだ。コデインを含む白い錠剤がジャラジャラと擦れ合わさる音が耳の奥で蘇る。

 幻聴と戦っていると、先ほどまで静かに読書に耽っていた岩崎くんが僕の元へとやってきて、ベッドの端にちょこんと腰かけた。

「どうかしたか?」

「ううん。ただ、暇だなあと思って。今日は親が来ないんだ。兄ちゃんも、今日も誰もお見舞いに来ないんでしょ」

 僕の元へ見舞客が訪れないことは同室の二人も看護師たちもよく知っていて、もはやその点において気を使う者など誰ひとりとしていないのである。

「珍しく俺と同じだな」

「まぁ、なんてことないけどね。むしろ毎日来られたって話すこともないしさ」

「ほとんど毎日来てくれてるもんな」

「うん。小学生の頃なんか本当に毎日来てたんだよ」

 それはそうだろう。子を持ったことも持つ予定もないが、愛する我が子が日々病室に閉じ込められて病気と闘っているとなれば、可能な限り足を運ぶに決まっている。

「まぁ、さすがに飽きてきたのかもね」

「そんなわけないだろ」

 咄嗟にそんな言葉が出た。

 彼は一瞬驚いた顔をしたのち、「冗談だよ」と心底可笑しいというふうに破顔した。物静かな印象を受ける整った顔立ちをしているが、笑うとそれらが崩れて子供らしい顔になる。

 軽口に対して真面目腐った返しをしたことへの恥ずかしさと、彼の笑顔を見ることのできた嬉しさがまぜこぜになり、僕は子供の髪をぐしゃぐしゃに撫でてやった。


 考えてもみれば、入院前は他愛もない話をする間柄の人間などいなかったのだ。歳は違えど、いや、だからこそ気負わずに言葉を交わす相手ができて、僕はどうにも喜びを覚えているらしいのだ。以前はあんなにも他者との関わりを恐れ、嫌悪していたというのに。

 とはいえ、長年愛飲していた薬への依存がそう簡単に落ち着くわけもない。僕はある朝、最寄りのドラッグストアへ行くために病棟の裏口へと向かっていた。悪さを働く時こそ堂々とするべきだと今までの行いで知り尽くしているため、鉢合わせた看護師にはにこやかに挨拶をした。さて裏口の扉が見えたぞというところで、低く太い声が廊下に反響する。

「喫煙所はそちらではありませんよ」

 肩が大袈裟に跳ねて、背に嫌な汗が滲む。渋々振り返ると、そこにはやはり中年の医師が立っていて、僕は脱獄に失敗した受刑者のような心地になった。

「あぁ、いや、違いますよ。同室の岩崎くんが、裏口を出たところに咲いている百日紅が綺麗だって言うんで、見に」

 嘘ではない。実際に裏口の場所を教えてくれたのは岩崎くんだし、百日紅の話も本当だ。ただ、僕は花になんて全く興味がない。

 彼の名を聞くと、医師は僕に向けていた鋭い視線を柔らげて「そうですか、彼が」と少々砕けた声音で言った。

 岩崎くんは入院生活が長いとのことだから、医師にとっては数多い入院患者の中でも特別な存在なのかもしれない。

 医師の心が再び硬化しないうちにと、岩崎くんについて一言二言交わし、裏口の扉に背を向け病室に戻るふりをした。柱の影に隠れて医師が去ったのを確認し、引き返して今度こそ外界へと通じる扉を開ける。桃色の花がそこかしこに咲いていたがそれを鑑賞する余裕もなく、歩行者信号を急ぎ足で渡った。


 なけなしの金で買った咳止め錠二箱を入院着のポケットに忍ばせ、急く気持ちを抑えて廊下を歩く。病室に戻り、新聞紙を広げたままいびきをかいている杉山さんを一瞥した僕はベッドサイドに置いてあったペットボトルの水を掴んだ。早くどこか人目の気にならない所に行って、錠剤を身体に入れたかったのだ。しかし、

「あ、兄ちゃんどこに行ってたの? 教えて欲しい漢字があるんだけど」という岩崎くんの一声によって、僕の計画は未遂に終わった。

 仕方なく岩崎くんのベッド脇のパイプ椅子に腰掛けると、彼は読み途中の本を開いて僕に見せ、「これ」と、ある単語を指差した。

 彼が指したのは「微恙」という言葉だったので、確か軽い病気とか気分が優れない状態を指す単語であることを教えてやる。

「しかし、難しい本を読んでるんだな」

 ほとんど活字に触れたことのない僕は、感心して言った。

「難しくないよ。森鴎外の本だから、言葉遣いが少し古いだけで」

「へぇ。名前くらいしか知らねえや」

「舞姫って話、知らない? 高校の授業で習うって母さんは言ってたけど」

「俺は高校もまともに行ってなかったからな」

 口にしてから失言だったかと焦ったが、岩崎くんはむしろ興味津々といった様子で「学校に行かないで、何してたの?」と問う。

「音楽、好きでさ。ギター弾き始めて、バンド組んでたんだ」

 こんなことを人に話すのも、思い返すのも久しかったため、耳のあたりが熱くなってきた。中学を卒業する頃にはサッカーに対する熱も興味も失っており、次に飛びついたのは音楽だった。きっかけは例に倣ってビートルズのCDだ。

「すごい。不良だね」

 興奮した様子でそう言うので、噴き出してしまった。当時から勉強や集団生活が苦手だった僕は学校にはほとんど行かず、スタジオやライブハウス、バンドメンバーの家に集まって過ごしていた。無垢な中学生から見れば不良なのだろうか。

 のぼせたように心酔するバンドや曲について語り、曲を作っては練り、音を合わせて、少人数の客に披露していたあの頃。僕はそれがずっと続くものだと思いこんでいた。これからもっと多くの人に聴いてもらえるのだと、根拠もなく信じていた。

「不良じゃないけど、バカだったんだよ。底無しのな」

「じゃあ兄ちゃんは、バンドマンになるんだ」

 僕の自嘲など耳に届かぬらしい少年は、嘲りや蔑みなんてこれっぽっちも含まれていない眼差しを僕に向ける。

 なれるわけねえだろ、と言おうとしたのに、口から出たのは「なろうとしたけど、ダメだった」という正直な言葉だった。

「頑張ったつもりだったけど、全然ダメ。箸にも棒にもかかんなくて、皆辞めてった」

 音楽をやるには金がかかる。楽器のメンテ代、レコーディング代スタジオ代、それからステージ代。金がないと心に余裕がなくなり、希望がないと人も関係も荒む。未来を語り合い笑い合ったメンバーとの会話はなくなり、次々と辞めていった。大人になれない僕だけが、未練がましく曲を作り続けた。それは情熱なんかではなくて、ただの意地だったのだと思う。どんなバイトも続かず、どこにいっても上手くやれない僕が唯一続けていることで、唯一出来ることだったからだ。僕はもう、それだけだった。

「そっか。でも歌手なら一人でも目指せるね」

「ポジティブだなぁ、君……」

 思わず、笑みが溢れる。岩崎くんが卑屈になったり人にあたったりしているところを、僕は見たことがない。長い闘病生活で痛い思いや辛い思いを沢山しただろうし、僕のような人間には想像もつかない葛藤をしただろう。他人を羨んだり、自分の運命を呪ったことだってあったかもしれない。

「ねえ、僕の夢も聞いてもらっていいかな」

 岩崎くんが僕を手招く。

「父さんにも母さんにも、先生にも言ったことないから、内緒だよ」と前置きをし、寄せた僕の耳に手を添えて「小説家」と囁いた。

 もしも命を、体を譲れるものならば、僕は彼に自分の全てを譲るのに。

 生きるための能力が欠け、努力もできず、頭も悪い。ぐずぐずと無駄に時間を浪費し命を腐らせていく僕に、生きる価値などありはしない。それに比べて彼は真っ直ぐで、愛されていて、こんなにも立派な夢を持っている。神というやつは、とんでもなく悪趣味で残酷だ。

「絶対なれるよ」と小声で言うと、岩崎くんは照れた顔をしたが、それをごまかすように「兄ちゃんも頑張ってね。歌手」と笑った。

老人のいびきはいつの間にか止んでいた。


 翌日から暫く、岩崎くんの体調が優れない日が続いた。入れ替わり立ち替わりでご両親が看病をしに来て、看護師たちだけでなくあの中年の医師も何度もやってきた。岩崎くんは顔色が悪く一日中ぐったりとしていたが、一切弱音を吐かずに気丈に振る舞っていた。

 数日後には、彼は別の病室(きっと個室だ)に移ってしまった。杉山さんは「たまにあるんだ。すぐに戻ってくるさ」と落ち着かない僕に、そしてきっと自分にも言い聞かせるように話したが、その望みは叶わず、僕が入院して二週間目の朝に、岩崎くんは亡くなった。夏の終わりが顔を見せ始めた、八月下旬のことだった。

 彼は、僕と杉山さんにだけは病状の悪化を隠すようにと言い張ったんだそうだ。面会も頑として許可しなかったという。僕はそれを、彼がこの世から去った翌日に知った。


 岩崎くんが使っていたベッドには、今はバイク事故で足を折った男が収容されている。空いていた隣のベッドにもアル中と噂の男が配置され、淡々と時は流れていく。

「兄ちゃんは、いつになったら退院すんだ」

「今週末だってさ。やっとだよ」

「そうか」

 今や、病室の中に岩崎くんがいた証なんて一つも残ってはいない。だが、杉山さんの憎まれ口が減ったことが、彼を失ったことの何よりの証明だった。

 居心地の悪さを感じ、咳止め薬の瓶二つを手に、裏口へと向かう。途中、空の瓶の方はゴミ箱に捨てた。

 誰に見つかることもなく扉を開けたところで、悲鳴をあげそうになった。出てすぐ左の壁にもたれて座り込んでいる人影があり、それがよりにもよってあの医師だったせいだ。

 彼もすぐに僕に気づいたようで、充血した目で僕の顔と手元の瓶に目をやった。もう隠そうなどという気力もない僕は瓶を手にしたまま静かに扉を閉める。むわっとした熱気が僕たちを包む。

「不公平だとは思わんかね」

 誰のことを言っているのかはすぐにわかった。アルコールの香りが鼻をつく。

「命ってもんをドブに捨てたがってる奴はごまんといるんだ。アル中にシャブ中にギャンブル中毒、借金中毒……。破滅するために生きてるみてえな奴らが腐る程いる」

 百日紅の花が、酒臭い男と薬物依存の男を取り囲むようにして咲いていた。僕は「はぁ」と相槌を打つ。

「一方でそれ以上に、救えない命がある。綺麗な命だよ。苦しいだろうに希望を捨てず、辛い闘病生活にも絶えて、必死に生きようとしている命だ。今の医療では救ってやることのできない命だ。悔しくなるよ、本当に」

 僕は、気分が悪くなってきた。蒸し暑い気温と喉の渇き、酒の匂い、真っ当な人間によるもっともらしい演説、それら。

 息を小さく吐き出して踵を返そうとした時、しゃがんでいた医師が突然立ち上がった。呆気に取られる僕に詰め寄って、低く、しかし激しい怒りの滲む声でまくし立てる。

「やりたいんだろ、やりに来たんだろう。飲めよ。もう一度、担ぎ込まれた時みたいにカフェイン剤も致死量用意して、満足いくまで飲みゃあいい」

 興奮が収まらないのであろう医師が、僕の胸ぐらを掴んだ。手が、腕が、ぶるぶる震えているのが伝わってくる。伝染したみたいに僕の手のひらも小刻みに震え始める。

「どうしてあの子なんだ、どうしてあんたみたいなのや俺みたいのじゃなくて……」

 後半の言葉はもうほとんど耳に届かないほどに小さかった。僕はそれを聞いた途端、今まで堰き止めていた感情の濁流が堤防をぶち破って氾濫し、目から溢れて頬を濡らした。

「ああ、俺だって、変われるもんなら変わってやりたかったね」

 震える声で言葉を吐き出す。と同時に、脳味噌が沸騰しそうなほどの怒りが噴き出した。

「何であんたは俺みたいなクズを助けてんだ。何で、ああいう子を死なせんだよ。僕を殺してあの子を救えよ、この、ヤブ医者!」

 勢いに任せると、口からは思った以上の酷い暴言が飛び出す。医者は赤ら顔をさらに赤く染め上げて僕の頬を思い切り打った。僕も拳を握って奴の右の脇腹を殴りつける。僕は患者のくせに「俺を殺せよ」と叫び、彼は医者なのに「殺してやる」と応えた。

 無様な殴り合いだったと思う。高校生の方がもっと迫力のある喧嘩をするだろう。なんせ、酒浸りの中年と薬中の掴み合いなのだ。

 やがて騒ぎを聞きつけた職員たちが仲裁に入るまで、僕たちは百日紅の前で不格好な揉み合いを続けていた。

 手当てと叱咤を受けて病室に戻ると、杉山さんが豆粒みたいな目を丸くして僕を見、それから暫くの間ニヤニヤしていた。


「飛び降りる気か?」

 退院当日の早朝、なんだか落ち着かず部屋を抜け出した僕は、屋上のフェンス越しにひっそりと静まっている街を見下ろしていた。

「四階からじゃ確実じゃねえっすよ」

 言いながら振り返ると、にやけた面の杉山さんがいて、煙草を一本差し出してきた。

「顔、結局治んなかったな」

 火種をよこしながら老人が言う。医者に殴られたところが青痣となって残っているのだ。

「あのおっさん、手加減ってもんを知らねえんだから。恥ずかしくて外も歩けねえや」

「いい顔になったんじゃねえか」

 二つの煙がもくもくと天に登っていく。久しぶりに吸い込んだそれは予想したよりも重たくて、少しむせた。

「退院したら、どうすんだ」

「とりあえず国民健康保険に加入しねえと。そんで、まぁ、バイト探すよ。大家にも頭下げねえとなぁ」

 杉山さんの軽快な笑い声が朝焼けに吸い込まれていく。彼は二本目の煙草に火をつけながら「腐るなよ」と言った。

「説教も助言もできるような人生送っちゃいねえがよ、若い奴が死ぬところは、あんまり見たくねえからよ」

 煙草を挟んでいる指には無数の皺が刻まれていて、薄い皮膚には血管が浮き出ていて、ひどくか弱い。しかし、僕の目にはそれがとても美しく、力強く見えた。

「楽器をさ、もう売っちゃおうと思ってたんだよ。でも、やめた」

 だから、もう少し頑張ってみようと思う。そう続けると、杉山さんは「そうかよ」と口角を上げて、短くなった煙草を地面に落とした。それから、入院着のポケットからセブンスターを取り出して僕に握らせる。

「やるよ」と言い、返事も待たずに館内へと繋がる扉へとさっさと歩いていく。僕はその小さくて猫背気味の頼りない背中に「たまに見舞い来るよ」と声をかけた。

「馬鹿、来るな。もう二度と戻ってくるなよ」

 杉山さんは、朝焼けを背に浴びながら細い腕を上げ、手をひらひらと振った。そして、扉を閉めた。


 荷物を持って世話になった看護師に頭を下げて回っていると、あの中年医師の姿が見えた。彼の顔にも引っ掻き傷がくっきりと残っていた。

「お世話になりました」

 あまり気持ちのこもっていない言葉を投げると、相変わらずの仏頂面でのしのしと歩いてきて、彼もまたポケットから一本のペンを取り出し僕に押し付けた。

「岩崎くんが使っていたものだ。お気に入りのペンだけど、あとはあんたに託すとよ」

 僕はその、何の変哲もない黒いボールペンを力なく握る。少年が僕だけに打ち明けてくれた夢が、僕の恥ずかしい話を真剣に聞いてくれた彼の姿が、鮮明に思い出される。

「さ、早く帰んな。ここを出たらあんたはまた自由だ。何をやってもな」

 酒やけであろう嗄れた声が僕を早く追い出さんとする。僕はふと思い立って、鞄の中から未開封の瓶をひとつ手に取り、医師に渡してやった。

「咳や痰によく効くらしいですよ。喉が悪いってんなら、是非」

 僕は、この医師も笑うことができるのだということを、この時初めて知った。


 正面玄関ではなく、裏口を通って病院を出る。もうそろそろ夏も終わるというのに、熱光線が剥き出しの肌に突き刺さり、立ち込めた熱気が僕を包んだ。道路では車が音を立てて行き交っていて少し目眩がしたが、ゆっくりと息を吸って吐いて、一歩を踏み出す。

 三百円で買ったサンダルで地面を踏みしめ自宅へと帰っていく僕を、百日紅の花だけが見送っていた。

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