第3話 3

 その夜は、崩れた壁のそばで休んだ。サーデグが持っていた革袋の水を分けてもらい、数口飲んだだけで、わたしは夢も見ずに深く深く眠った。

 翌朝はウードの音で目覚めた。

 ウードは知っていた。西の楽師が演奏しているのを何度も聞いたことがあるから。けれど、サーデグが弾くウードの音はそれまで聞いたことがないほど澄んでいた。弦を押さえる左手はなめらかに動き、リーシャで弾かれているというより、ウードは自ら歌っているようだった。サーデグは、いちど耳にしたなら忘れられない音を奏でた。

「おはようございます。うるさかったかでしょう、すみません」

 サーデグが手を止めて、聞き入っていたわたしを見つめた。青い瞳、まるで水をたたえた泉のよう。朝日の中でサーデグを見ると、ほかの人たちより肌が白かった。銀の髪はずいぶん長いらしい。頭の後ろにゆるりと髷をつくり、簪で留めてあった。男の人にしては、どこか頼りないように感じられる線の細さだ。ゆったとした木綿のズボンとシャツの上からでも、父やゾランに比べて体の厚みが半分くらいしかないように見えた。だからといって、まったく女性的かといえば、違うとしか言えない。

「からだ、痛いところはありませんか? 何か食べられますか?」

 何くれとなく尋ね、サーデグはかたわらの袋から干した葡萄やイチジク、乾酪(チーズ)や固く焼いた麺麭ぱんを出して並べてくれたが、わたしは首をよこにふった。

サーデグは麺麭を差し出したまま、困ったように眉をよせて小首をかしげた。

「だいじょうぶ、食べられるものです。わたしはサーデグ、見てのとおりの楽師です。あなたを傷つけたりしません。一緒にいたのは、ゾラン。わたしの護衛です」

 青く真っすぐな瞳でわたしに語りかけて来る。見た目は父よりも年上のようなのに、声はまるで少年のようだ。

 昨日となんら変わらない、壊され崩れ焼かれた町並み。数日前まであれほどたくさんいたオアシスの兵士を一人も見ていない。今も、叫び声は遠くに近くに聞こえる。煙がくすぶり、空に白く漂う。戦は終わったのだろうか。

 父や兄はどうしているのだろう。母や乳母は大丈夫だろうか。そう思うだけで、じっとしていられなくなる。やにわに立ち上がって走り出そうとしたわたしは、振り返りざまゾランにぶつかった。

「もう起きたのか」

 ゾランはひょいとわたしを抱き上げて、サーデグのところへと戻る。

「ぶっそうだから、一人で歩くなよ」

 ゾランはわたしを下ろすと、柘榴を押し付けて腰を下ろした。

「どうでしたか」

「駄目だな。王宮もさんざん壊されていた。火までつけやがって。誰が片付けて造り直すと思っていやがるんだか」

 がりっと柘榴にかぶりつくと、ゾランは一度口を閉ざした。わたしは目の前が暗くなった。体が一気に冷たくなっていく。王宮が焼けた……母さまは無事なの。すぐにでも、王宮へ戻りたい。父には、決して戻るなと言われたけれど、そんなの守れるはずがない。

「おまえの探している楽師たち一行は、とっくにここを後にしていたようだぞ。前のときにも楽師たちにあてがわれていたあたりに行って見たが、もぬけの殻だった」

「そうですか。それならそれで構わないのですが」

 そう言ったあと、短い沈黙があってから二人は、そわそわと落ち着きのないわたしを見た。

「ジャマールという楽師を知りませんか。楽師と踊り子とで十人ほどの一団です。こちらのオアシスにいたはずなのですが」

 聞き覚えのある名前を耳にして、一瞬意識が切り替わる。ジャマール、王宮でよく演奏していた人たちかな。髭をたくわえて、お腹が突き出ていて、いつも陽気な歌を歌っていた。

「……」

 答えようとしたわたしは、口を開けたまま体が止まった。声が出ない。空咳をしてみたり、なんども唾を飲み込んでみたりしたけれど、声は出なかった。

「声が出ないのか」

 声が出ない。無理に出そうとすると、まるで喉がふさがったようにかすれた息が出るだけだ。

 喉に手を当てたまま、呆然とするわたしにゾランが声をかけた。

「短い間に大変な目にあったからだろう。いくさでそういう奴を何回も見た。気持ちが静まれば治る」

 わたしは強く首を左右に振って今度こそ駆けだした。

 王宮へ行かなきゃ。行って、父さまと母さまを見つけないと。見つけられたら、きっと声だって出るはず。

 根拠のない思いこみだけで、わたしは走った。月琴の包みを胸に抱えたまま、できるだけ早く。倒れている人はなるべく見ないようにした。半分壊れた家並み、焼けた柱や黒焦げの壁。王宮への道は、馬の蹄で割られているところもあった。

「待てよ、おいっ。すばしっこい奴だな!」

 背後から、ゾランが追いかけてくるのが分かった。歩幅はゾランの方が大きいけれど、小回りならわたしのほうが利く。

 門から王宮へと続く大路に出たわたしは足を止めた。

 王宮の入り口のところに組まれた櫓の上で、何かが揺れていた。

 櫓の下に集まっている一群からは、泣き喚く声やとぎれとぎれの祈りの声がしている。

 何がぶら下がっているんだろう。わたしは息を荒くしたまま、一歩二歩と群衆の背後へと近寄った。

 ひとつ、ふたつ、みっつ……それよりもたくさん、つり下がったそれは……。

「きゃああああっ」

 信じられないくらいの悲鳴が自分の口から発せられた。

 父さま、母さま、兄さまたちが。

 駆け寄る群衆が見張りの兵士たちから押し返されている。下せ、返せ、と叫ぶ声がする。

「潘王、潘王!」

 泣き叫ぶ声と兵士ともみ合う人々の熱が王宮前に渦巻いた。

 うそ、うそ、となんども口の中で繰り返した。いつしか息をするのも忘れて立ち尽くした。

「おいっ」

 肩を掴まれて、わたしは息を吐いた。振り返ると、ゾランがいた。

「見るな、こどもが見るものじゃない」

 ゾランはわたしを胸に抱きかかえて、来た道を戻った。父や母や兄たちが遠ざかる。ゾランの日に焼けた肩はとめどないわたしの涙で濡れた。

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