第2話 2

 昨日の昼、父が部屋を訪れた。ふだんと違い、鎧に身を包み、髪を結い上げていた。わたしが父に駆けよろうとするのを、母が止めた。

「……分かっております」

 膝を折り頭を下げた母に、父は無言でうなずいた。

「わたくしも残ります」

 いつものように、一部の隙なく化粧をし盛装した母は昂然と顔をあげた。小柄な母が、いつにないほど大きく見えた。母は生まれた時から仕えてきた乳母一人を残し、侍女たちは数日前にすでに王宮から下がらせていた。

「わ、わたしも」

 すがりついたわたしを母は冷徹な瞳で見下ろし、赤い唇をかすかに動かした。

「おまえは、だめ」

 母は腰の曲がった乳母に命じて以前から用意していたのだろう、隣の部屋から服を持ってこさせた。

 膝がふるえた。やっぱり母はわたしを嫌っている。

 一人で勝手に楽師たちの部屋へ遊びに行くから。母の目を盗んで月琴を弾いたり歌を歌ったりするから。歳の離れた兄たちのように、賢くもなく従順でもないから。大好きな父をひとりじめするから。

「い、いや。ここにいる、母さまと父さまといる。もう歌わない月琴も弾かない、静かにしているから、だから」

 母はわたしの言葉など聞こえないように、錦の衣を脱がせ、粗末な男児の服を着せた。西にはよくある、ひざ下まである上衣と同色のズボンだった。どちらもだぶつくくらい、わたしの体には大きかった。いきなり男の子の格好をさせられ、わたしは泣きそうになった。うつむくわたしの髪に母の指がふれたかと思うと、ふっと頭が軽くなった。

 顔をあげると、母の右手には短剣が、左手にはひと束の髪が握られていた。

 母は眉一つ動かさず、切った髪を乳母に渡した。

 わなわなとふるえる指で頭をさわると、髪は肩にも届かないほど切られていた。

「うっあ……」

 父が泣きじゃくるわたしを抱きしめた。

「これを持って」

 父はわたしの背中に、いつも弾かせてくれた月琴を背負わせた。

「ルー、おまえが持つんだ」

 父はわたしの涙を拭って、耳元で小さくささやいた。

 生きろ、わたしの歌姫……と。


 喧騒は続いた。頭上を絶え間なく過ぎる雷のような轟きに怯え、体を折り曲げたまま奥へ奥へと溝を進んだ。誰にも見つかりませんようにと祈りながらじっとして父から言われたことを必死に思い返していた。

 もしも一人きりになってしまったら、むやみに動かないこと。時期を見計らって人に紛れて門を過ぎること、それから東のオアシスを目指すこと。きっと人々はそこへ逃れていくから。そこには、東の国からの大使が住んでいる。大使を頼るんだ……けっして戻ってきてはならない……。


 時期を見計らって、っていつなんだろう。東のオアシスまでは遠いのだろうか。母が持たせてくれた食べ物も水も、メイに取られてしまったのに、行けるのだろうか。たった一人で。

 流れる水は少ないけれど、体がどんどん冷えてくる。長い間耐え続けて、わたしはいつしか気を失うようにして眠っていた。


 どれくらい寝ていたのか、まぶしい明りに目がくらんだ。頭上で外した蓋を持った男がにやっと笑っていた。頭に布を巻き、腰には反った剣を吊るしている。西の兵士だ。

 立ち上がって逃げようにも、ずっと同じ姿勢でいたためか手足がこわばって動かない。あっという間に溝から引きずり出されたわたしが目にしたのは、地面に転がる屍だった。男も女も、老人も子どもも、数えきれないほどの死体が無造作に道にあった。頭を割られた女と目が合った。ちぎれた腕や足が転がっている。焦げ臭さと血の匂いがたちこめ、吐き気がこみ上げてきて、思わず口を押えた。

 男は口早になにか叫んだが訛りがきつく、わたしには分からなかった。男は這って逃げようとするわたしを押さえつけ、履いていた下衣に手を差し込み、体をまさぐった。

 下卑た笑い顔と汗臭さと、体を容赦なくはい回る指先に戦慄した。

 殺される! 

 その時はまだ、殺される以上の恐怖があることをわたしは知らなかったのだ。

 いつの間にか、男はふたりに増えていた。腕を押さえつけられ、服がはぎ取られ……無理やり足を広げられる痛みに悲鳴をあげた。悲鳴と、わたしにのしかかろうとした男が横ざまに蹴り飛ばされたのは同時だった。

「こども相手とは、いい趣味だな」

 長い黒髪をかきあげ、厚い胸板をさらした男性がわたしたちを見下ろしていた。

 わたしの腕を押さえていた男が、中腰の態勢からやにわに黒髪の男性の懐へ飛び込んだ。手に短剣を握っているのが見えた。

 しかし、短剣はどうしたことか地面にたたきつけられ、西の兵士は後ろ手に組み伏せられていた。

 あまりの早業に唖然としているわたしの肩に手を乗せ、麻の外套マントをかけてくれた人がいた。

「こっちに」

 金というより銀色に近い髪と青い瞳の人が、わたしを抱えるようにして争う二人から離れた。

 闘いはあっという間に決着がついた。黒髪の男性は、腰に下げた大剣を使うことなく兵士二人を叩きのめした。わたしを襲った二人組は、何か捨て台詞を残して去っていった。

「ゾラン、そこの布包みを持ってきて」

 わたしの肩に手を置く人が、思いがけないほどの高い声で黒髪の人に声をかけた。

「ああ? ちょっとまて、サーデグ。探していたのは、その子か」

「いいから」

 サーデグと呼ばれた人は、脱がされたわたし服も持っていて、思うように体を動かせないわたしを手伝って着せてくれた。

「あなたは……」

 上衣を着せかけていた青い目の人は手を止めて、まじまじとわたしの顔を見た。

「……っ?」

 あまりに真剣なまなざしに、わたしの喉が小さく鳴ると、慌てたように頬の緊張を解いてゾラン、とまた黒髪の人を呼んだ。

 ゾランは諦めたようにため息をつくと、布包みを拾い上げてわたしたちのところへきた。

「これは、あなたの? ジャマールという人を知らない?」

 包みがほどけかけていた。父から渡された月琴をわたしはサーデグから奪うようにしてもぎ取り胸に抱きしめた。

 そのとたん、足から力が抜けてしまった。

「おっと」

 倒れそうになったわたしの体を、たくましいゾランの腕が支えた。

「ともかく、連れて行きましょう。置いて行けない」

「聞いていた話と違うぞ」

 そう言いながらも、ゾランはわたしを抱き上げていた。

「代金なら、追加してお渡ししますから」

「ああ、別口でお願いするね」

 すっと首を傾け、ゾランはサーデグに軽く口づけた。サーデグが顔を少し赤くして、ゾランの額をぴしゃりと叩いた。

「いいから、少しは休めるところに移りましょう……!」

 そんなこと言ってもな、とゾランは悪びれることなく首を巡らせた。

 そのとき、わたしは見た。焼け焦げ崩れた街並みと、多くの死体。それから縄で繋がれて歩かされている女や子どもたち。悲鳴やうめき声はそこかしこから聞こえた 真っ赤に染まる空をカラスたちが群れて飛ぶ。

「略奪の三日間は、きょうで終わりです」

 夕焼けに照らされたサーデグが目を伏せた。


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