伝令
※ ※ ※
まだ、ドキドキする。
涼子はパジャマの上から胸を押さえた。水玉模様のお気に入りだ。お風呂に入って温まった体に、じんわりと汗がにじんでいる。
風が心地いい。
パジャマのボタンは胸元まで外している。その下は素肌だ。中学に上がって、自分の胸の重さを意識し始めた頃から、そうするようになった。母親は嫌な顔をするけれど、家にいる時くらいは、ゆったりとした気分でいたい。
外を眺めると細い月が綺麗に出ていた。
窓を開け放していたが、涼子は覗かれる心配はしていなかった。造成したばかりの住宅地は、まだ半分も埋まっていない。視線が合うとすれば斜め向かいの家の二階くらいだろう。それも今は電灯が消えている。
一瞬、月が何かに隠された。
鳥……。気づいた時には、それはもう目の前にまで来ていた。
「うわっ」
思わず涼子は腕で目を隠した。バタバタと羽ばたく音と、風圧。黒い大きな鳥は減速すると、窓枠に足をかけて止まった。
「うう、おっと。勢いがつきすぎたわ」
ひ、ひぃ。
悲鳴が声にならない。
鳥がしゃべった。あり得ない。それも人の声だ。片方しかない目が、人間がするように涼子を見ている。
「大声は出さんでくれ。わしは神三郎殿の使いだ。怪しい者ではない……いや、そうでもないか。自分で言っておいて何だが、実に怪しい。小便をチビらんだけでも上等だ」
「神三郎さん?」
涼子は恐怖を無理やり呼吸と一緒に呑み込んだ。名前を聞いた途端に、あの探偵の顔が頭に浮かぶ。
「涼子、涼子。何があったの」
母親の声に、涼子はハッとした。
慌ててドアに向かい、顔だけ出す。いけない。階段の下で母親が心配そうに涼子を見上げている。
「ごめん。窓から鳩が入って来そうになったの。追い出して、すぐに閉めたから大丈夫。もう寝るわ。おやすみなさい」
返事も待たずに、涼子はドアを閉めた。カギは最初からついていない。その代わり、開けないでと書いた木札をドアノブに掛けてある。
涼子は唾を呑み込んでから、窓枠に止まっているカラスに向き合った。
「神三郎さんの使いなのね」
トクン。心臓が鳴る。
言ってから涼子は突然に気づいた。あの人のことを下の名前で呼んでいる。気恥ずかしくなって、自然に顎が下を向いた。
「それで、あの。九十九さんは何て言ってました」
「待て、
式神と名乗るカラスはクイっと首を回した。そういう仕草はまさしく鳥だ。
「何か飲みますか。その、お茶でも……」
「途中でバケツに溜まった雨水を飲んだ。少しボウフラがわいていたが、あれはあれで栄養がある。だが、疲れた老人をもてなそうという気持ちは悪くないぞ。それなら、もう少し近づいてはくれんか」
「は、はい」
「視線はそのままで良い。手は横に。そうだな。少しかがんでくれ。肩を上げて。うん、良いぞ。もう少しだけ前へ。そう、それで良い」
涼子は訳のわからないままに、その不思議な鳥の言うとおりにした。自分の顎がちょうどカラスの頭の上の高さになる。これだと顔が見えないけれど、いいんだろうか。
「ふふふ。良い眺めだ。乳首が見えそうで見えぬのがまた良い。そうだ。胸を少し揺らせてはもらえんか。少しで良いのだ。それならわしも、老骨に鞭打って飛んできた甲斐がある」
「嫌!」
涼子は短く叫ぶと、拾い上げたクッションで胸を押さえながら、逃げるように後ずさった。そのまま自分のベッドに座り込む。
「涼子、どうしたの」
また母親だ。後半の口調が強い。今度は少し怪しんでいる。
「別に、大丈夫。また鳩よ。戻ってきたの。カーテンを閉めたから、もう来ないわ。本当にもう寝るから」
無理に明るい声を作って答えてから、涼子はカラスを睨んだ。
「どういうつもり」
「どうもこうも。ただ、美しいものを愛でているだけだ。そういう感覚は人間も同じであろう」
「本当に九十九さんの使いなの」
「当然だ。お主は、他に式神を使う者を知っているのか」
涼子は返答に詰まった。
確かにそうだ。そう信じたからこそ、こんな常識外れな状況だって受け入れている。普通ならパニックになって泣き叫んでいるところだ。
「まあ式神と言っても、わしにはこの目玉しかないがな。体は向こうにある。仕方がないから、この下等動物の体を借りているわけだ。見かけは悪いが、慣れればそう不便なものでもないぞ。何よりも飛べるのがいい。尻の穴が緩いのが欠点だが、それもさっさと出してしまえば問題ない」
「そんなことしたら、すぐに追い出します」
「わかったわかった。鳥の糞など綺麗なものだが、理解できんのなら仕方がない。あれは、塗ると肌にいいのだぞ」
「そんなことは、どうでもいいです。カラスさん。それより教えてください。あなたは九十九さんの何を食べたんですか」
涼子はそこが、どうしても気になった。紫苑は神三郎の右腕を食べたと言った。何かを犠牲にしなければ、式神はこちらには来れないらしい。
「神三郎殿に片目がないのは知っておるだろう。わしが喰ったのはそれだ。だからこうして従っておる」
「あの人の、目を……」
ズキンと胸が痛んだ。そんなに色々な物を失って、神三郎はどうして平気な顔でいられるのだろう。
「まるで悪者を見るような顔をしておるな。だが、わしもそれだけの働きはしているのだぞ。紫苑様と違い、わしの本体は向こうにある。意識はひとつだから、神三郎殿に呼ばれる度に昏倒してしまうのだ。妻はもう、遠の昔に死んでしまったが、孫には今でもよく文句を言われる」
「あなたに、孫がいるんですか」
「お主は、わしらを何だと思っているのだ。わしらもお主らとそう変わりはない。確かに喰うのはわしらで、喰われるのは人だ。だがその代わり、自分の肉体を与えた人間は鬼神に対して精神的に優位に立つのだ。
その時に人と交わした契約を、鬼神は絶対に破れない。弱い人間は騙されて自分の小さな欲望と命とを交換してしまうが、強い人間はそうはしない。結局、欲望に負けて人を喰ってしまった鬼神は奴隷として使われることになる。それが式神だ」
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