5 八咫烏

偵察

 神三郎はドアではなく、窓の方に向かった。

 窓枠の外側で黒い鞠のような塊がモゾモゾと動いている。首を伸ばすとそれは鳥の形になった。艶やかな羽根に太いクチバシ。町でもよく見かける鳥。カラスだ。


 窓を開けると、カラスはバタバタと羽ばたきながら事務所に入ってきた。羽根を撒き散らしながら、テーブルの真ん中に堂々と止まる。

 コツン。足が銀色の灰皿に当たる。ひっくり返さなくて良かった。事務所を汚すと紫苑の機嫌が悪くなる。


「お帰り。ご苦労様」


「ずいぶんと遅かったではないか。今まで、どこで油を売っておったのだ」


「相変わらず、姫様は手厳しいですな」

 そのカラスは、まるで世間話でもするように喋った。鸚鵡おうむのような不完全な発音ではない。普通の人間の男性。それも老人の声に近い。


「わかっていますぞ。年寄りを働かせておきながら、自分はケーキを食べていたのでしょう。隠しても無駄です。あたりに甘い匂いがプンプンしていますからな」


「もう全部食うてしもうた。お主の分はないぞ」


「お気遣いは無用です。カラスはカラスらしく、ゴミ置場の残飯でもあさっておりますから、ご心配なく」


「嫌味な爺いじゃ」


「これは失礼。さてと、神三郎殿」


 その黒い鳥は頭を神三郎に向けた。右目がない。あるべきはずの場所には、ぽっかりと穴があいている。


「見つけましたぞ。あの娘に取り憑いた鬼神は、ここから五里ほど離れた山にある廃屋にいます。神三郎殿から受けた傷に苦しんでおりますから、恐らく二、三日はろくに動けぬでしょう」


「人を襲うことは?」


「ないでしょうな。あの状態なら、逆に人間に襲われても不思議はありません」


「つまり、神三郎様は巫術を込めた弾丸を使うたということじゃな」


 紫苑が神三郎を見た。一瞬、向こうの世界で見た紫苑の顔がだぶる。

 今の紫苑は妖艶な美女ではない。小柄な美少女だ。ただ、面影は確かにあった。変化と言っても、全く別の存在になるわけではない。


「ああ。あの程度の鬼神になら、巫術あれが毒のように効く。そのままにしておけば、当たった場所から腐ってくるはずだ」


八咫烏やたがらす、弾丸はまだ、そやつの体に残っていたか」

 紫苑は、灰皿をコツコツと蹴って遊んでいる鳥をそう呼んだ。八咫烏は古代の神話に出てくる名前だ。日本の国では、初代の天皇を導いた霊鳥だと伝えられている。


「残念ながら、とっくにえぐり出しておりました。暗がりでしたが、間違いはありません。血に濡れた弾丸が床に転がっておりましたからな。それには確かに神三郎殿の霊気が感じられました。だからこそ、二、三日は動けぬと言ったのです。体の中に残っておれば、とっくに体が腐っておったでしょう」


「ふむ。ならば、その間に行けば良いわけだ。殺すだけなら造作もないが、取り憑かれた人間を取り戻すのなら涼子も連れて行った方が良い。人は闇の中ではろくに目も見えぬ。神三郎様、勝負は明日。それでどうじゃ」


「ああ、それで行こう。五里というと、二十キロか。場所はどこだ」


釈迦堂山しゃかどうやまですから、駅で言えば榊新田さかきしんでんですな。駅からだと坂道を三十分は歩きます。近くにバス停はありません」


「なるほど。それなら車の方がいいな。どうせ医者も必要だ。佑子に頼もう。

 八咫烏。少し休んでからでいいから、涼子くんの家に使いを頼めるかい。そこに、さっき本人に書いてもらった住所がある。明日の朝九時。家の近くに車をまわすから、外出の支度をして待っているように言ってくれ。くれぐれも、彼女を驚かせないようにしてくれよ」


「神三郎様、ちょっと待つのじゃ」

 紫苑が口を挟んだ。


「このエロガラスをわざわざ行かせずとも、電話をすれば良いではないか。こんな化け物に部屋を覗かれたら涼子も迷惑であろう」


 神三郎は首を振った。

「今、涼子くんの家族は近所で起きた殺人事件でピリピリしているはずだ。夜に聞いたこともない男から電話がかかってきたら、必ず警戒するよ。人間は元々臆病なんだ。外出なんか許してくれなくなる。彼女の心配事が増えるだけだ」


「ふうん、そういうものかの」

 紫苑は今ひとつ納得していないような表情だった。


「姫様、お気遣いは無用です。老人をいたわることを知らない冷血漢とはいえ、この人界では神三郎殿はわしの主人ですからな。式神として、老骨に鞭打って働きましょう」


「別に、お主のことなど気遣ってはおらぬわ。さっさと行ってしまえ。見ているだけでイライラする」


「それは残念。もう少し姫様のご尊顔を拝していたかったのですが、ご機嫌を損ねたとあればやむを得ません。早々に退散いたしましょう」


 八咫烏は翼を広げて飛び立つと、開けてあった窓からまた出て行った。テーブル上に黒い羽根が一本、舞うように落ちて止まった。


 紫苑は鼻を鳴らした。

「無礼な爺いじゃ。あんな者に、神三郎様の目玉をくれてやる価値などあったのか」


「八咫烏は役に立ってくれているよ。情報がなければ、僕らは身動きが取れない。目玉のひとつくらい安いものさ」


「神三郎様……」

 紫苑は一度、ためらうように言葉を切った。そして顔を上げ、その大きな黒い瞳に神三郎を映す。


「もう、これから先は小指の先ほども失ってはならぬぞ。力が必要なら、妾がなんとでもする。最後の血の一滴まで使うて働く。もちろん言えた義理ではないことはわかっておる。妾は神三郎様の腕を喰ろうた鬼じゃ。でも妾は神三郎様の全てが愛おしいのじゃ。自分の命を軽く考えるのではない」


「わかっているさ」


「わかっておらぬ。神三郎様は、わかっておらぬ……」


 神三郎の胸に紫苑が体を投げ出した。受け止めるように残った右手で抱く。

 紫苑の体は半分しかなかったが、神三郎には彼女の全てが感じられた。神三郎の左腕はもうどこにもなかったが、その腕の記憶が紫苑の小さい肩をしっかりと抱いていた。


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