3 陰陽師
陰陽師
それからの数週間は、まるで勝手に時が流れていくようだった。
鬼の存在は徹底的に隠蔽された。本庁から来た警察官の指示で、父と母は金目当ての強盗に殺されたことにされた。遺体は、といっても肉片に過ぎなかったが。司法解剖に回され、そのまま戻っては来なかった。
居間は綺麗に片づけられ、壁紙はもちろん床まで全て張り替えられた。あの日から三日後。ホテルで生活していた鬼三郎たちが帰宅した時には、鬼の痕跡は完全に消し去られていた。
葬儀は遺体がないままに行われた。
親戚や父親の職場の人間が全てを取り仕切ってくれたから、鬼三郎と佑子はただ黙って頭を下げていればよかった。
父が通産省の事務次官候補だっただけあって、葬儀の参列者は千人を超えた。ただ、悲しんでいる顔を見るのは稀だった。心のこもらない弔問の言葉を何百回も聞きながら、鬼三郎は、父親が人間であることを捨ててまで求めようとしていたものは何だったのかを考えていた。
過酷な競争の中を勝ち抜き、最後に負けた。結局はそれだけだ。それだけで父親は壊れ、全てを清算しようとした。
両親が死んでちょうど二週間後。ようやく静かになった自宅に一人の男が訪ねてきた。
背広を着たその男が誰か。最初、鬼三郎はわからなかった。だが、背広の片袖が空っぽのまま揺れているのを見て、鬼三郎は思い出した。
「あなたは、あの……」
「
あの時の修験者。九十九と名乗った男は菓子折りを仏壇の横に置いてから、二つある位牌の前に座った。前に見た時の印象より小柄だな。鬼三郎はそう思った。たぶん百六十センチを少しこえたくらいだろう。年齢は五十歳くらい。無精髭に白いものが混じっている。
「申し訳ない。ロウソクに火を入れてくれ。あの時は腕など一本でいいと思ったんだが、無くなってみると不自由なものだな。これではマッチも擦れない」
男は自嘲するように背広の袖に触れた。
一緒にいた佑子が仏壇の燭台に火を灯した。麦茶を持ってきます。そう言って立ち上がる。
「お構いなく」
「そうはいきません。お客様を放っておいたら、死んだ母に叱られます」
佑子を見送りながら、九十九は目を細めた。
「あんなことがあったばかりなのに。しっかりとした妹さんだな」
「気にしないでください。じっとしているより、動いていた方がいいんですよ。決まったことをしているうちは、あまり考えないでいられますから」
「なるほど。そういうものかもしれんな」
九十九は線香をあげると、黒い背広のポケットから使い込まれた数珠を出した。低く何かをつぶやき、頭を深く下げる。
「俺を恨んでいるか」
「何をですか」
「気を遣うな。見たんだろう。おまえの母親を鬼に喰わせたことだ。どうせ助けられなかった。だが俺は、自分たちが助かるためにおまえの母親を式神に喰わせた。おまえたちには、俺を恨む理由が十分にある」
九十九は頭を上げると胸ポケットから潰れた煙草の箱を出した。ハイライト。よく見る銘柄だ。
「そうだ。あの菓子は、おまえの母親に持ってきたんだった。
「ええ。甘いものは苦手でした」
「煙草は吸ったのか?」
「まあ、人並みには」
「それなら、ご一緒させてもらおう。火を借りるぞ」
九十九は紙巻煙草を出し、折れた先端を指で整えてからロウソクで火をつけた。軽く吸って火を安定させてから、線香立ての灰の上に置く。その後、もう一本取り出して、自分のために火をつけた。
「いいか。もう一度言うぞ。おまえの母親を殺したのは俺だ。そうなることがわかっていて鬼に喰わせた。弁解はしない。
どうだ、憎いか。憎いなら好きなだけ罵るがいい。殴ってもいいし、いっそのこと殺してくれてもいい。今日は、そのために来た」
男は目を合わせなかった。だが、静かな覚悟が感じられる。鬼三郎がその気になれば、九十九という男は本当に黙って殺されてくれただろう。
「僕には、わかりません」
「わからない?」
「あそこで起こったことが何だったのか。正直、まだ全部は理解できていません。憎いとか、どうとか……。でも、あなたにもし、また会えたら。言おうと思っていたことがあります」
「なんだ?」
九十九は片方の眉だけを上げた。
「あれから自分なりに整理してみました。鬼が父をそそのかし、体を奪って僕や母を殺そうとした。結果として父と母はそれで命を落とした。
鬼はあれ一匹じゃない。まだこの国のどこかにいて、人を喰らう機会を狙っているかもしれない。あなたは鬼退治の専門家だ。それは間違いありませんね」
「まあ、そうだ」
「僕は鬼に恨みがある。あなたは鬼を倒す方法を知っている。もし、あなたが僕に対して少しでも責任があると思うのなら。殺されてもいいくらいの覚悟があるというのなら。それを僕に教えてください。お礼は差し上げます」
「自分で金を稼いだこともない学生が、大きなことを言うな。これでも俺は高給取りだったんだぞ」
「僕は本気です。家にあるお金で足りなければ、父が残したこの家を売っても構いません。このあたりは高級住宅地です。三百坪もあれば、かなりの値段で売れるはずです」
佑子が四角い氷を入れた麦茶を持ってきた。お盆を畳の上にそのまま置く。
「どうぞ」
「ああ、どうも」
「佑子、外してくれ。この人ともう少し話がしたいんだ」
佑子は鬼三郎の表情を見てから、小さくうんと頷いた。薄い生地のスカートが風に揺れる。夏場だから、仏間の窓は開けてある。外は快晴だ。
九十九は煙草を口から離し、煙を吐き出した。
「鬼に関することは国家の機密事項だ。悪いが、部外者には話せない」
「僕は関係者です」
「法律を知っているか。国家公務員は退官しても秘密を守る義務がある。守秘義務って奴だ。おまえも父親の息子ならわかるだろう」
「国家公務員?」
鬼三郎は意外だった。修験者と公務員はイメージが合わない。
「ああ、そうだ」
「国の省庁に鬼退治なんて部署はありません。僕は国家公務員のことには詳しいつもりです。これでも事務次官候補の息子だったんですよ」
「もちろん知らんだろう。表の人間には数えてくれないからな。俺は陰陽師だ。陰陽師は千年以上も前から、国家機関に属している。昔なら左大臣。今なら宮内庁だな。俺のひい爺さんは、御一新の時に京都を引き払って天皇陛下と一緒についてきたんだそうだ」
「陰陽師ですか……」
「学校の歴史では習わんだろう。平安時代の昔から、占いや祈祷で国の役に立ってきた術者のことだ。人外の者との境界を守る役目もある。おまえの言うように、いわゆる鬼退治も仕事のひとつだ」
「知っています。調べましたよ。式神の話もそこにありました」
鬼三郎はあれから何度も図書館に行って、鬼に関する記述を調べてみた。都の武士が酒呑童子という鬼を退治した話など、鬼の伝承は特に平安時代に多い。
その中に鬼を使役した人物の名前もあった。陰陽師。安倍晴明という男は、現代では神として神社にも祀られている。この九十九という男は、たぶんその仲間か末裔なのだろう。
「言えるのは、そこまでだ。守秘義務もあるが、陰陽道の術はその後継者にしか伝えられない決まりだ」
「僕が鬼のことを新聞社にバラすと言ったらどうします?」
「好きにしたらいい。決して記事にはならないし、誰も信じはしない。おまえの両親の事と同じだ。隠蔽は国家のお家芸だからな」
「責任はどうです。あなたは僕に殺されてもいいと言いました。自分には、僕の望みをかなえる責任があるとはおもいませんか」
「痛いところを突くな」
九十九は煙草を灰皿に置いた。
「陰陽道の術は他人には教えられない。それが千年も続いた我々の掟だ。ただし、おまえがどうしてもと望むなら。ひとつだけ方法がある」
九十九は値踏みするように鬼三郎を見た。瞳に鬼三郎の姿が映っている。
「他人を陰陽師にするわけにはいかんが、俺の養子になるのなら話は別だ。俺も今回の件で式神と片腕を失った。公務災害って奴だから、それなりに金も出る。この歳で退官して、年金生活者になるわけだ。おまえにその覚悟があるなら、内弟子として育ててやってもいい」
「内弟子……」
「どうだ、嫌なら断ってもいい」
「お願いします」
自分でも驚くくらい、すんなりとその言葉が出た。カチリ。鬼三郎の心の中で、何かがはまったような音がした。
「即答か。ずいぶんと軽いな。陰陽師になるのはたやすいことではないぞ。厳しい修行もある。それに鬼と戦うのは命懸けだ。おまえも見ただろう。俺のように腕を失うかもしれない。よくよく考えたのか」
「もちろん」
鬼三郎は気負ってなどいなかった。心は驚くほど静かだ。思考も驚くほど澄んでいる。
「あれからずっと考えていました。父を狂わせた鬼が憎い。母をあんな目にあわせた鬼が許せない。あの鬼は確かに死んだ。でも、それでもまだ鬼はこの世界のどこかに潜んでいる。
僕はあの時、何もできませんでした。力がなかったから……。本当に憎いのはあそこで、ただぼうっと突っ立っていただけの自分です。だから鬼を殺せる力が欲しい。力があれば、ああはならなかった。たとえ勝てなくても、戦って死ぬことができた。そのためなら僕は、なんだってします」
「そうか……」
「私からもお願いします」
気がつくと、佑子がすっと立っていた。話を聞いていたのだろう。
「兄を陰陽師にしてください。それと……私の体を使ってください。覚えてはいないでしょうけど。あの時、救急車で運ばれていくあなたに聞きました。式神を呼ぶには生贄がいるんでしょう。よくは知りませんが、若い処女なら文句はないはずです。母のように。式神に私を食べさせてください」
佑子は淀みなく、むしろ淡々といった。
「バカっ、ふざけるな」
鬼三郎は佑子を睨んだ。
「おまえを犠牲にするくらいなら、式神に俺の腕を喰わせてやる。足もいらない。内臓も、二つあるヤツはひとつでいい。鬼を殺すのは俺だ。おまえは俺に守られてろ」
「まったくこの兄妹は……」
九十九は苦い顔をして頭をかいた。
「千年前ならともかく、この時代にそんなことができるか。式神はなしだ。それが嫌ならあきらめろ。それが俺の条件だ」
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