第27話 瀬能響子という人間

「おかあ、さん……」


 眼球が、内部から渇いていく。


 喉がひりひりと焼けただれるように苦しい。


 ――どうして写真の中に私がいるの?


 ――黒のバンダナと黒のエプロンを身に着けた私が立っているの?


「……あ、…………あ」


 うそだ!


 何度まばたきをしても、眼球にこびりついた渇きは取れない。


 これは過去の写真だ。


 でも私がそこにいる。


 松園学院高等学校の学ランを着て、髪型も同じで、顔も同じ。


「……おかあ、さん! おかあさん!」


 頭痛がして、めまいがして、髪をかきむしる。


 すぐにページをめくり、卒業生一人ひとりの写真が載っているページを開いた。


 八組。


 いない。


 七組。


 いない。


 六組。


 お母さんがいる。


 五組。


 いない。


 四組――。


「なん、で?」


 そこにいた。


 やっぱり私が、そこにいた。


「おかあ、さん」


 男子が右ページ、女子は左ページに名前順に載っている。


 バストアップの写真の下に、その生徒の名前が書かれてある。


「大丈夫だって、言ってよ」


 体から力が抜けていき、卒業写真に覆いかぶさるようにして倒れた。


 渇いていたはずの目から、涙がこぼれ落ちていく。


「私、は」


 私が載っていたのは、卒業アルバムの右ページ。


 男子の中。


「いったい」


 私の写真の下に書いてあった名前は。


「誰なの?」


 近藤響平きょうへい


「私はいったい……どういうこと」


 吹雪の中にいるみたいに震えが止まらない。


 えずく。


 涙がぽろぽろ流れていく。


「おお、ついに見つけられたか」


 背後で冷たい声がして、はっと振り返った。


「俺のことを見られた時点で、こうなることはわかっていたんだ」


 その黒い瞳が不敵に光っている。


 髪はぼさぼさで顔はしわくちゃシミだらけ。


 でも目だけはきれいで透き通っている近藤という男が、じっと私を見下ろしていた。


「別に襲ったりしねぇよ。だってお前、若いころの俺だもん。自分に興奮するとかありえないから」


 ものすごく酒臭い。


 私、家の鍵かけたっけ?


 なにも覚えていない。


「ってか、そもそもお前は俺の子だしな。はははは!」


 近藤の汚らわしい高笑いが、じっとりと体の中に入ってくる。


 別に驚きはしなかった。


 すでに秘密を見てしまっていたから。


 こんなの誰だって気づくよ。


 気づきたくなんかなかったよ!


「……響平、って」


 ようやく出た言葉がそれだった。


 真実につながる、残酷な言葉。


 目の前にいる響平という名前の男は、愉しそうに笑っている。


「あんまりだよ。……お母さん」


 私の名前は、瀬能響子なのだ。


「そうだよ。お前は俺の子。だからお前は響子なんだ。響平の子供で、響子。まったく真澄ますみのやつはひでぇこと考える」

「響平、響子、響子」

「でも響平ってしなかっただけましか。てかあいつからしたら、男が生まれてほしかったんだろうなぁ」


 なにがそんなに愉快なのかわからないが、近藤は笑いつづけている。


 髪の毛を掴まれ、私によく似た顔が眼前に迫った。


「お前が俺に似た。そのせいでいろんなやつが不幸になったことを、お前は知らないとなぁ」

「やめて」

「あいつはお前を通して、過去に恋した俺を見ている。だからお前を過去の俺に育て上げようとした」

「違う! 私は自分の意思でズボンを穿いて、髪を短くして、料理を好きになって、黒を好きになって」

「全部過去の俺がやってたことだけどな。それ、本当に自分の意思か?」

「あ……あ……」


 喉に穴が開いているのかもしれない。


 全力で否定したいのに、言葉が出てこない。


 料理も、制服も、お母さんから提案された。


 全部わかってるから、そんなこと言わないでよ。


「森本もいい加減バカだよなぁ。くふっ、っはははは」

「黙れ! お父さんをバカにするな!」

「だからお前の父親は俺だっつんてんだろ。なぁ、我が最愛の娘よ」


 耳元でささやかれる。


 気持ち悪い。


 酒臭い。


 加齢臭?


 近親相姦が起こらないように、娘は父親の体臭を嫌うようにできているとどこかで聞いたことがある。


「森本はよぉ、いまでもお前を自分の娘だと思い込んでるんだぜ。本当に哀れだろ?」

「そんなこと! そんなことは……」


 反抗したいのに、言葉が、止まってしまった。


「私は……私の、お父さんは……」

「お前もようやくわかったか。ま、これからよろしく頼むわ」


 すべてを見透かしたような笑みが気に食わない。


 だけど、近藤の言っていることだけがまぎれもない真実だ。


 視界が灰色に染まっていく。


「お前は瀬能響子じゃなく、近藤響平として生かされてるだけなんだよ」

「ふざけんなっ」


 私は衝動のままに近藤の頬を殴った。


 鈍い音が部屋中に響く。


「……ってぇなぁ」


 後ろに尻餅をついた近藤は、殴られた頬をさすってから畳の上に唾をぺっと吐き捨てる。


「てめぇ、親に向かってなにすんだ」

「あんたなんか親じゃない!」

「お前は俺の娘なんだよ。だから俺の言うことだけ聞いてればいいんだ」

「だれがお前なんかの子にしてくれって頼んだ!」

「それはこっちのせりふだよ! 真澄とは遊びだったってのによぉ!」


 近藤に髪の毛を掴まれ、体を持ち上げられる。


 振りかざした拳が、私の顔面を捉える寸前でぴたりと止まった。


「おっといけねぇ。怒りに身を任すのはクソ人間のすることだからなぁ」


 近藤の気色悪い笑い声が耳の内側にねっとりとへばりつく。


「お前もいい歳になったんだ。大事に扱わねぇと」

「黙れ!」

「それ以上口ごたえすると、本気で殴るぞ」

「なにやってるの響平! いきなり押し掛けるなんて!」


 玄関から声がして目をやると、そこには鬼の形相を浮かべたお母さんが立っていた。


「おう、真澄! 金もらいに来たぞ。パチンコでスっちまってな」

「はっ? ふざけないで……って響子!」


 母と目が合った瞬間、お母さんは駆け寄ってくれる。


 かばうように私を抱きしめてくれる。


「娘には手を出さないでって言ったじゃない!」

「手なんか出すかよ。昔の俺に。お前がせっせとこしらえた、お前が惚れていた昔の近藤響平に」

「ふざけないで! 私はこの子を、ただの一度もあなただなんて思ってない!」


 お母さんが抱きしめてくれる。


 ほらね、やっぱり違った。


 お母さんは、そんなこと思っていない。


 ――でも体が震えているのはどうして?


「まあいいや。金だ。金。あいつの養育費、余ってねぇのか?」

「……ないわよ、もう」


 なんだ。


 そういう理屈だったのか。


 私が信じてきたものは、なんだったの?


「じゃあ、こいつのバイト代はねぇのか?」

「それもこの前会った時に渡したじゃない!」


 私の稼いだお金も、お母さんは守ってくれないのか。


 じゃあ私はこれからなにを信じたらいいの?


 体の中から、私のすべてが抜け落ちて、空気中に溶けていく。


「……ちっ。だったら、どうやって稼げばいいかくらいわかるだろ!」

「もういっぱいいっぱいなの!」

「いっぱいいっぱい? 本当にそうか?」


 近藤は酒で赤くなっている頬をにやりとつり上げる。


「例えば、そうだなぁ……体売るとか?」


 それから近藤は、お母さんをなめるように見て、


「まあ、真澄はもう年増だから無理だとして……」


 私に標準を合わせる。


「よかったじゃねぇか。お前自身の、お前だけの御立派な存在意義ができて。女に生まれたことを感謝しろよ」

「もう今日は帰って!」


 お母さんが唾を飛ばしながら叫ぶと、近藤は満足げに笑い、ゲップする。


「どうすりゃいいのか、よく考えな。ははは! くそ面白れぇ家族だ!」


 そしてまた畳の上に唾を吐き捨ててから、近藤は去って行った。


「響子。黙っててごめんなさい。本当にごめんなさい」


 お母さんが私の体を抱き寄せる。


 私の前では決して涙を見せなかったお母さんが、初めて私と一緒に泣いている。


 ねぇ、お母さん。


 いまのごめんなさいがどういう意味なのか訊いてもいいですか?


 その涙は、誰のために流しているのか訊いてもいいですか?


 私の涙とお母さんの涙の意味は、一緒じゃないよね?


「でも私は、あなたのことをずっと愛しているわ」


 本当にそう思っていますか?


「男なんて、みんな獣よ」


 私は、もうわかんないよ。


 なんにもわかんないよ。


「安心して。お母さんが、決してあなたにそんなことはさせない」


 お母さんは、まだあの男が好きなんだよね?


 だから私を昔の近藤響平に似せようとしたし、あんな最低なやつと未だに縁を切っていない。


「お母さんには、あなたが必要なの」


 ……どういう意味で私が必要なんですか?


 お母さんの胸の中で、私が最終的に考えていたのは辻星くんのことだった。


 最初は彼と同じ場所にいた。


 だけど辻星くんは、私を置いてどんどん変わっていった。


 スカートを脱ぎ捨てて自分を確立し、親友を作り、クラスのみんなとも仲よくやっている。


「響子はいつまでも響子のままでいいのよ」


 対して私はなにも変われていない。


 そもそも私という存在が、この世にいるのかどうかわからない。


「お母さんを、お母さんだけを、信じて」


 ああ、きっと、こんな私は、辻星くんとこれ以上関わるべきではないのだ。


 辻星くんは、いつだって私を救おうと頑張ってくれているのに、当の本人がこのざま。


 こんな私に、無力な私に、私かどうかもわからない私に、辻星くんをいつまでもつき合わせてはいけない。


 辻星くんはきらきらした世界に足を踏み出したのだから、私なんかがそれを邪魔してはいけない。


「響子。私の響子」


 無になっていく心の中に最後に浮かんだ辻星彰という人間を、私はびりびりと破いて消し去った。


 瀬能響子は、どうやったって普通に生きることはできないみたいだ。

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