第25話 ゴミ箱に
瀬能さんの膝の上に乗ったバスケットの中から青色のタッパーを俺が取り出し、それを森本さんに手渡す。
つづけて黄色のタッパーを自分の膝の上に置いた。
もちろん、バスケットに手を伸ばす際、腕が彼女に触れないよう細心の注意を払った。
「見た目も楽しいね」
森本さんの言葉通り、サンドウィッチに挟まれている具材は、レタスと薄焼き卵にトマト……まあ後はよくわからないが、色鮮やかで見ているだけでも心が楽しくなる。
「さっそくだけど、いただいてもいいのかな?」
「どうぞ……」
瀬能さんがごくりと生唾を飲む音が聞こえる。
森本さんがごくりと生唾を飲む音も聞こえる。
ハイハイ、仲よしの親子親子。
「じゃあ、いただきます」
森本さんが豪快にかぶりつく。
何度か咀嚼した後、いきなり大粒の涙を流し始めた。
「え、ええ、えっ」
慌てふためく瀬能さん。
俺だって、なにがなんだかさっぱりわからない。
「おいしい。すごく、おいしい……」
森本さんはそう呟きながら、またサンドウィッチにかぶりつく。
「こんなにおいしい料理は、生まれて初めてだ。おいしい。……うますぎる」
「そんな、大袈裟だよ」
おいしい、という感想が聞けて安心したのか、瀬能さんの体がふにゃりと脱力した。
頬が赤い。
「大袈裟じゃないよ。響子は料理の天才だ。お母さんの味によく似ている」
「こんな、誰でも作れるって」
瀬能さんは俺をちらりと見て、小声で「辻星君くんと同じ反応」と笑った。
「謙遜しなくていい。ほら、辻星くんも早く食べて」
「あ……はい」
森本さんに食べかけのサンドウィッチを手渡される。
俺の分、膝の上のタッパーの中にあるんですけどね。
おいしさをすぐに共有したかったってことか。
そう思いながら渡されたサンドウィッチを一口。
「こんなにおいしい料理は、生まれて初めてだ。おいしい。……うますぎる」
「それ、そんなあからさまに被せられたら、逆に気に入らなかったんだって疑っちゃうよ」
「ごめんごめん、そういう流れかと思って」
「え? 響子の作ったものがおいしくないだって?」
「おいしいですって言ってるじゃないですか」
ちょっと、森本さんって娘のことになると超怖いんですけどー。
冗談、であってますよね?
ってか冗談であってくれよ。
「もう、お父さん。辻星くんをいじめないで」
瀬能さんが、やわらかい言葉でたしなめると、お父さんが「すまん、つい」と笑いながら謝罪する。
あれ?
いまの返事は……まあ九分九厘冗談だと思うけど、ちょっとだけマジな可能性が残っちゃったなぁ。
とりあえず、俺もサンドウィッチにがっついとこ。
おいしいのは本当だから。
「もう、辻星くんがっつきすぎ」
そう言いながら瀬能さんもタッパーの蓋を開けて、サンドウィッチをぱくり。
「うん。うまくできてる」
満足げに呟いた瀬能さんを見て思う。
こういうのを幸せな休日というのだろう、と。
今日この瞬間は、記憶として脳に刻まれるのではなく、思い出として心に刻まれるのだろう、と。
「これは……本当に現実なんだろうか。こんな幸せ、私は明日、ぽっくり死ぬんじゃないだろうか」
不意に、森本さんが神妙な面持ちで呟いた。
てか、もうタッパー空なんですけどこの人。
どんだけお腹空いてたの?
辻星くん、そんなに残ってるってことは、まさか響子の作った料理が本当に気に入らなかったのか! って怒ってこないよね?
よし、もっと、がっついとこ。
「だから大袈裟だって、お父さん」
瀬能さんがからかうような声音で言う。
あれだけ怖がっていた人に対して、こんな風に親しげに話しかけられるようになるなんて。
お父さんと自然に呼べるようになるなんて。
森本さんが感情を素直に表現できる人でよかった。
だからこそ瀬能さんも、陽の感情をストレートに享受できたのだと思う。
「大袈裟なんかじゃないよ。だってこれは響子が生まれた時からの夢だったんだ。こうして私の最愛の娘が作ってくれた料理を食べること。本当に嬉しい。夢がかなったよ。ありがとう」
「だから、それが大袈裟なんだって」
耳まで真っ赤にした瀬能さんの口元がまた緩む。
ちなみに、ようやく俺もサンドウィッチを食べ終えたので、それとなく森本さんにタッパーが空であることをアピールしておいた。
「本当に、響子のおかげだ。ありがとう。それでその、お礼というか、まあその…………」
視線を右往左往させながら、森本さんはジャケットの内ポケットに手を入れる。
ラメが散りばめられたピンク色の袋を取り出した。
「誕生日に遊園地に行く約束をしていたのに、急にあんなことになって、父さんずっと後悔していたんだ。プレゼントだけはと思ってお母さんに渡したんだが、きっと手違いで届いてないだろ?」
えっ、と瀬能さんの表情が固まる。
「知らない。そうだったの?」
「やっぱりな」
森本さんは難しい顔になって、しばらく目を閉じていた。
手違いって? と俺から訊ける空気ではない。
でも、サンドウィッチは完食してますよ、とは伝えたい。
「まあ、そんなことはもうどうでもいいんだ」
目を開けた森本さんは、いつもの穏やかな顔に戻っている。
「だからその、改めてというか……響子にプレゼントだ。もらってほしい」
もういらないかな? さすがにピンクは子供っぽいか、と森本さんは矢継ぎ早に保険の言葉を口にした。
「ううん。私、まだピンク大好きだよ」
あれ?
瀬能さんって黒が好きなんじゃないの?
ピンクが好きなイメージないけど。
そう思ったが、瀬能さんの喜びに溢れた顔を見て、俺は瀬能さんの苦悩を勝手に悟った。
瀬能さんは自分を強く見せるために、ピンクという可愛らしい色を無理やり卒業したのだろう。
だけど今日は父親の前だから、抑えこめていた自分を解放できているのだろう。
「そっか。買ってきてよかった。当時のものはもう売ってなかったから、最新のコアライグマのキーホルダーを買ったんだ」
「コアライグマも好きなままだよ。覚えててくれたんだ」
「当たり前じゃないか」
「当たり前……」
恥ずかしそうに俯く瀬能さん。
え、瀬能さんがコアライグマ好きなんて俺は知らなかったぞ。
もしかしたら、これも自分を強く見せるために封印していたことなのかもしれない。
「あの、さ。お父さん」
自分の膝頭を見つめたまま、瀬能さんは言う。
「もし、お父さんがよかったらなんだけど。その……あの日の、約束。遊園地、一緒に」
「本当かい!」
森本さんが勢いよく立ち上がり、瀬能さんの方へ一歩踏み出す。
ちょうど俺の目の前に森本さんの体がきた。
やばい!
そう思って手を伸ばしたが、もう遅かった。
森本さんは喜びそのままに、瀬能さんの右手にピンクの袋を握らせて、さらにその右手を両手で包み込むように握ってしまった。
「ぜひ一緒に――」
「いやぁぁぁああ!」
悲鳴が轟く。
瀬能さんが森本さんの手を振り払いながら立ち上がって、ベンチの裏にしゃがみ込んだ。
ベンチの上に、トン、とコアライグマのキーホルダーが落ち、その上にひらひらとピンクの袋が落ちる。
「…………え」
森本さんは茫然と、ベンチの後ろで震える瀬能さんを見つめていた。
瀬能さんは右腕を左腕で抱えており、その右腕には真っ赤な発疹が広がっている。
あたりが騒然とし始める。
俺たちは完全に注目の的になってしまっていた。
「……あ、あの違うんです!」
立ち上がって、怪訝そうな顔をしてこちらを見る野次馬たちに弁明する。
「これはその……蛙が突然飛んできて、びっくりしちゃって」
なんだ蛙かよ……というざわめきが広がった後、野次馬は俺たちに興味を失う。
その間も、森本さんはずっと顔面蒼白だった。
「森本さん。実はその、瀬能さんは」
「ごめんなさい。今日は、その……ごめんなさいっ!」
彼女はそれだけ言い残して走り去ってしまった。
「待って瀬能さん!」
俺の声も無視。
手を伸ばしたが、男性恐怖症の彼女の腕を掴むことはできなかった。
くそっ!
こんなことなら、瀬能さんの秘密だから俺が言うべきではないと思わずに、前もって伝えておけばよかった。
また野次馬が騒ぎ始めているが、いまはそんなことどうでもいい。
「ははは、嫌われちゃったのかな」
腰からくだけるようにしてベンチに座る森本さん。
「なにが悪かったのかもわからないなんて、父親失格だな」
「そんなことはないです」
「でも、私の手を払って、怯えて」
「それには、深い理由があって」
俺は森本さんに、瀬能さんが男性恐怖症であることと、男性恐怖症によって起こる症状を伝えた。
「そっか。なるほど。……でも」
森本さんも娘の病気のことを理解はしたらしいが、理解するのと受け入れるのは違う。
さっきからずっと愛娘に振り払われた手を見つめている。
あそこまで愛娘に拒絶されてしまえば、誰だって……。
「瀬能さんも、きっと頭が混乱しただけですよ。俺が明日学校でフォローしますし、なんなら明日の放課後、時間があるなら、もう一度会ってもらえるよう説得します」
「ありがとう……でも」
「森本さんは絶対に拒絶されてないです」
否定の言葉がつづきそうだったので、俺は森本さんの言葉を遮った。
「だってあなたの娘さんは、自分の意思でここに来て、あなたのためにお弁当を作って、一緒に遊びに行きたいと言ったんだから」
「でも……男性恐怖症になったのは私のせいなんだろ?」
「信じてください。あなたの娘に対する思いは俺にだって届いている。それが娘に届いていないわけがない」
「ありがとう。君はすごいな」
森本さんは、ようやく頷いてくれた。
ただ、その声は少しだけ震えていた。
「娘と、遊園地に行く約束をしたからね。二度も約束を破るのは、父親のすることではないな」
森本さんは握りしめた拳で胸を二度たたく。
「さぁ、散らかったサンドウィッチを片づけないと。バスケットとタッパーは、学校で渡しておいてくれるかな?」
「はい」
俺たちはそそくさとベンチの周りを片づけた。
コアライグマのキーホルダーは森本さんが回収する。
「じゃあ、これで」
森本さんが先に帰ると、張り詰めていた糸が切れたように、俺はベンチに腰を下ろした。
「どうしてこう、うまくいかないかなぁ」
頭を抱える。
――ありがとう。君はすごいな。
森本さんの言葉を思い出した時に感じたのは、言いようのない寂しさだった。
「……帰るか」
子供たちの集まる公園に、俺みたいな負の感情を持った人間は似合わない。
背中を丸めてとぼとぼ歩く。
その道中にあるメッシュタイプのごみ箱に、コアライグマのキーホルダーが捨てられているのを見つけてしまった時は、どうしようもなく泣きたくなった。
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