第10話 信じたい

「じゃあね。辻星くん」

「うん。また帰りに」


 昼休みも終わり、手を振る瀬能さんと別れて階段を下りる。


 瀬能さんのクラスは校舎の三階、俺のクラスは校舎の二階なので、必然的に三階で別れることになる。


 いやいや、瀬能さんのクラスまで見送りがてらついて行けばいいじゃん! って思ったそこの男子!


 恥ずかしいから、という理由で拒まれてるんですよ。


 まあ、自分のクラスがない階って同じ学校でもまるっきり別の空間のように感じて居心地悪いし、俺だって瀬能さんのクラスまでついて行くことは恥ずかしいと思うから、その提案を受け入れることに抵抗はなかったけどさ。


「明日は、瀬能さんの手作り弁当か……」


 表情が緩んでいるのが自分でもわかった。


 階段を踏み外しそうなほど足元がふにゃふにゃしている。


 手摺に寄りかかりながらなんとか踊り場まで下りて、ハイなテンションそのままにくるっとターンすると。


「……あ」


 目の前に一人の男子生徒が立っていたため、危うくぶつかりそうになってしまった。


「すみ、ません」


 そいつはきりっとした顔立ちに、百八十を優に超す身長、爽やかな短髪の髪、バスケ部期待の新入生という肩書も持っている俺のクラスの中心人物、桐原藤二きりはらとうじだった。


「……あ、どうぞ」


 とっさに体を開いて道を譲る。


 オーラすげぇ。


 同じ服を着ているとは思えないほど、彼は学ランを着こなしている。


 ファッション雑誌から出てきたかのようだ。


 俺は、生きていて絶対に関わることのない人種である桐原くんから逃げるように、階段の隅の方を下りようとしたのだが。


「なぁ、辻星」


 桐原藤二が、住む世界の違う人間が、たしかに俺の名前を呼んだ。

 

 抑揚のない声が不気味さを際立たせている。


「え?」


 トップカーストを無視なんてできないので足を止め、振り返る。


 俺は二段下りていたから、ただでさえ背の高い桐原くんは、逆光も相まって黒い巨人のように見えた。


「そんな怯えなくても。それに、たいした用ってわけじゃねぇから」


 じゃあなに?


 なにもないのに話しかけてぺちゃくちゃ話したがるとか、もしかして桐原くん、本当は女子だった?


「最近お前、瀬能響子と仲いいよな?」

「……え」


 さっきから、え、としか言えていない気がする。


 見下ろされているので威圧感半端ない。


 同年代の男子とのやり取りに慣れてなさ過ぎて、頭は働かないし口も回らない。


「どうやって、あいつに取り入ったんだよ?」

「取り、入った?」


 その言い方に少しだけカチンときた。


 でも、別にここで喧嘩するほど俺も子供じゃない。


「瀬能が誰かに心開くとか珍しいから。気になって」


 桐原くんが俺と同じ段まで下りてくる。


 並ぶと、より桐原くんの身長の高さを実感して、半歩後ずさった。


「俺さ、瀬能と中学同じだったんだよ。中学校でもあいつ、いまみたいな感じで浮いてたから」

「……はぁ」

「だからさ、興味あんだよね。俺、辻星のこと」

「へ、へぇ」


 にやりと笑った桐原くんの瞳が不気味に揺れる。


 興味あるって、もしかして桐原くんってそっち系ですか? なんてつっこめるほどの度胸はない。


「さっきからそっけな。ま、いいや。で、その瀬能のことなんだけど、ひとつだけ忠告しときたいことがあって」


 ああ、これあれだ。


 別に求めてもいないのに、ここはこうした方がよかった、ここがこういう風にダメだった、なんていらぬアドバイスをしてくるエセ上級者と同じことを、桐原くんはやろうとしている。


 まあ、やっぱりそんな皮肉を直接言えるわけもないから、黙って聞くしかないんだけどね。


「あいつ中学のころ、万引きやってたって聞くし、援交もやってたらしいんだよ。痴漢冤罪で儲けてるって話も聞いたなぁ」


 突然の告白に、頭が真っ白になる。


 桐原くんはけらけらと腹を抱えて笑っているが、思い出し笑いってやつだろうか。


 それとも俺の顔がそんなに面白いの?


「え、援交?」

「そう。え・ん・じょ・こ・う・さ・い」


 訊き返すと、桐原くんは子供に言葉を教えるかのようにゆっくりと繰り返す。


 俺は、援交がなんの略かがわからなくて訊き返したわけではないのだけど。


「へぇ、そう、なんだ……」


 瀬能さんが、万引き? 援交? 痴漢冤罪?


 にわかに信じがたい話だ。


 でも、俺の父さんがそうだったように、人には必ず裏がある。


 だから瀬能さんにも、俺に見せていない、見せられない裏があったっておかしくはない。


「あれだよ。お前も瀬能に騙されてんじゃねえのかなって、その忠告だけしときたかったんだ」


 桐原くんが俺の肩に手を乗せ、哀れみの視線を向けてくる。


 その勝ち誇ったような態度が癪に障った。


「な、なんで?」

「はっ?」


 必死で言い返すと、高圧的な声が返ってきた。


 え? 超怖いんですけど。


 ミジンコなら押しつぶされてるよ、絶対。


 俺はミジンコじゃないから、身長が一センチ縮んだだけで済んだけどね。


「ど、どうして桐原くんが、わざわざそんなこと言う必要があるの?」

「どうして、だと?」


 桐原くんの顔が引きつる。


 もしかしたら、桐原くんはかつて瀬能さんの裏の面に騙されて、酷い目にあったのかもしれない。


 だけど。


「ごめん。桐原くん。忠告ありがとう」


 瀬能さんには裏がある。


 それは本当かもしれない。


 人を信じて、裏切られるのはもううんざりだ。


 信じた方がバカを見ると、お父さんに裏切られ、泣きながら帰った道で嫌というほど思い知らされている。


「でも俺は、自分で見て、自分で感じたことの方を信じたいと思うんだ」

「俺のことが信じられないって言うのかよ?」

「違うよ。瀬能さんを信じたいって思わなきゃ、俺自身が前に進めないって思うから」


 瀬能さんの笑顔や、照れた顔、会話のリズム、お弁当を作ってくれると言ってくれたこと、寄り添ってくれる優しさだって、うそだと思いたくない。


「俺は、俺が見てきた瀬能さんを信じたいんだ」


 信じることを怖がりつづけてきた人生だった。


 でも瀬能さんなら信じてみてもいいかなと思えている。


 瀬能さんと過ごしている、なんてことのない穏やかな時間は、心のリハビリ期間でもあったのだと、いまさらながらに実感する。


「そうかよ。じゃあ勝手にしろ。後悔しても遅いからな」


 桐原くんは吐き捨てるように言って、階段を上って行った。


 そっち三階ですよ、俺たちのクラスないですよ、といじれるわけもない。


「はぁ……疲れたぁ」


 桐原くんが去ったことで、張り詰めていた精神が一気に緩んだ。


 疲労がどっと押し寄せてきて、その場に力なく座り込む。


 クラスのカースト上位と対峙するのはこんなにも疲弊するのか。


「……瀬能、さん」


 まんびき。


 えんじょ、こうさい。


 ちかんえんざい。


 ひらがなにすると可愛く見える。


 万引き。


 援助交際。


 痴漢冤罪。


 それを漢字にするだけで、一気に重苦しさが立ち込める。


 三つの言葉を胸の中で握りつぶしても、また体のどこかにぽんと現れる。


「絶対、違うよね」


 呟くことで、それを現実にしたかった。


 桐原くんの前では瀬能さんのことを信じたいとは言ったものの、やはり俺はまだ、誰かを信じることが怖いのだ。


 その証拠に、俺は瀬能さんを信じていると、断定の言葉を一度も言えていない。

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