水面の底でスローライフ~生きるのが嫌なんじゃない、働くのが嫌なんだ。今度は自分のために生きると決めた男の物語~
刀綱一實
第1話 まず猫を飼う
死のうとは思ったけれど、苦しいことをするのは嫌だった。
だから無痛で死ねる、そんなムシのいい考えを叶えてくれる場所があると聞いたら、行かずにはいられない。
無理に休みをとって、一日数本しか列車がこないローカル線に乗った。中途半端なところでバスを降りて、山の中に分け入っていく。
「見つけた」
場所に呼ばれる、ということがあるとしたら、このときの私がそうだったのだろう。ただ細い獣道をまっすぐに進んでいたら、目の前がいきなり明るくなった。
「本の通りだ……」
森の中にぽつんとある、深い湖。その中央が金と銀の光に包まれていたら──そここそが──苦しみなく死ねる場所だと文献に書いてあった。
湖に向かって歩を進める。ここに来るまでは半信半疑だったが、不思議な光はその思いを払拭するのに十分だった。
スニーカーのまま、湖の中に足を踏み入れる。水が靴や衣服にしみこんでさぞかし不快だろうと思ったが、全く寒くも冷たくもなかった。──これも文献の通りだ。
水の抵抗を押し切るようにして、中央に向かって進む。膝下だった水が腹下まで、そして肩下までくる。その時には、光までもう一歩のところまで来ていた。
息を吸う。この世でする最後の呼吸になるはずだったが、特に未練はなかった。かえってせいせいしたくらいだ。
──これで、面倒くさいこと全てから逃げられる。
その安堵と共に、私はもう一歩を踏み出した。
次に意識が戻ったときには、湖の底で大の字になって寝ていた。
「……何故」
思わず声に出してつぶやいてしまった。
はじめは運悪く救助されてしまったかと思ったが、周囲には水の感触と圧力がある。風呂に頭までつかっている状態なのに、髪も乱れていないし呼吸もできるというのは不思議な感覚だった。
髪に手をやってみて、着衣が変わっていることに気づいた。歴史の授業で見たことがあるような、長い布をぐるっと体全体に巻いた服だ。水の中で、服の裾が頼りなげになびいている。
締め付けるような感覚は微塵も無い。足元もスニーカーではなく、植物で編んだサンダルになっていた。
何故、こんな変化が起こっているのだろう。もしや自分はすでに死んでいて、この格好はあの世ではスタンダードな装いなのだろうか。
「そうだとしたら、目標達成なんだけど……」
誰に聞かせるわけでなくつぶやくと、背後でかすかに気配がした。何の気なしに振り向く。
大きな泡がそこにあった。まあ、あるだろう。水中なんだし。どこかでガスでもわいているのかもしれない。
そう思った次の瞬間、泡が私の眉間めがけてつっこんできた。とっさのことに避けきれず、後ろにのけぞって倒れる。
泡は仰向けになった私の顔にのしかかってきた。表面は滑らかだったが、鼻や口を塞ぐように動いてくる。
息苦しくなってきて、私はうめいた。生きているにしても死んでいるにしても、痛いのや苦しいのだけはまっぴら御免だ。
がむしゃらに動かした手が、何か硬い物に当たった。それを泡の上に振り下ろす。しっかりと攻撃した感触があった。
泡が破裂する。急に呼吸が楽になって、私は大きく息を吸い込んだ。目の前で、泡が細かな破片となって散っていく。とりあえず窮地を脱したところで、私は右腕を下ろした。
「あれ……は……」
しかし、長く休んでいるわけにはいかなかった。遠くではあったが、同じような泡が私に向かって移動を始めていたのだ。
囲まれたら終わりだ、と本能が告げる。冷や汗をぬぐうこともしないで、私は湖底を蹴って走り出した。
走っても走っても息切れがしない。それはやはり、この不思議な水の中にいるからだろうか。青く澄んだ水は、時折魚のような影を含みながら、どこまでも続いていた。
不意に、湖底の道が二手に分かれる。片方はそのまま真っ直ぐ水の向こうへ続いていたが、もう一方は大きく下へ向いていた。
思い切って下の方へ向かう。周りの水の色がどんどん濃くなっていったが、息苦しさがないのは同じだ。
時々岩がくぼんでいて、その切れ目から魚が顔をのぞかせている。瞳は赤かったり青かったりと色とりどりで、水中とはこんなに綺麗だったかと私は驚きつつ眺める。
道が行き止まりに来た。その先には、洞窟がぽっかりと口をあけている。中は暗かったが、私はその先に足を踏み入れた。
中に入ると、水の感覚が消える。どういう仕組みか中に空気がたまっていて、水をはじいているようだ。
「あっ」
手探りで進んでいくと、何かやわらかいものに爪先が当たる。声をあげてしまってから、危険な存在かもしれないと気づいた。
私は生きていて、これからこいつに殺されてしまうのだろうか。それとももう死んでいるから、何をされても大丈夫なのだろうか。頭の中を、益体のない考えが忙しなく巡った。
「にゃ」
その考えは、あどけない鳴き声にかき消された。
「ね……猫?」
聞こえた音は、それ以外の何物でもなかった。海の猫といえば鳥のことだが、湖の猫はどんな姿をしているのだろう。
興味をひかれたが、洞窟の奥は暗くて相手の姿は全く見えない。まずは明かりが必要だった。
「スマホ……あ、ない」
会社からかかってくる鬱陶しい電話を避けるため、家に置いてきたのだった。
途方に暮れて外に出てみる。目印をつけながら散歩していると、一カ所だけ地面が光っているところを見つけた。
「あっ……」
しかし、その輝きは私の目の前で消えてしまう。水の流れで、どこかへ行ってしまったように見えた。
「光ゴケの類いじゃないのか?」
近づいてよく見ると、光っていたあたりで奇妙な生物が死んでいた。目のないナマズのような生き物で、何かを食べようとするように口をあけている。そして体には、何かでひっかいた大きな傷があった。
「ん?」
その生物の傷の奥が、わずかに明るい気がした。嫌悪感を振り切って指で傷を開いてみると、より光が強くなる。
光っているのは、生物の体の中にある液体だった。血液なのか消化液なのか分からないが、それが自ら青白い光を放っている。
「これを何かの中に入れれば、電球代わりになるかも……」
ふと思いついて、横を見る。蔦のように長く伸びた水草に、人の拳ほどの泡がたくさんついていた。さっきの泡と違って、これは近づいても襲ってこなかった。
泡を指でつつく。指先の形に丸く穴があいたが、しばらくするとふさがった。穴があいた間に、わずかな水が泡の中に入ったが割れていない。
私はナマズもどきの死体を石でさばき、光る液体が入っている袋──おそらく内臓──を取り出した。これ以上液がこぼれないようにつまみ、泡の近くへ持っていく。
泡に指で穴をあけ、すかさず内臓をそこに押しつける。やや斜めにしていくと、光る液が泡の中にしたたり落ちていった。
「よし」
穴がふさがると、予想通り泡がぼんやりと光り始める。水草を長めに切り取って、風船のようにそれを持ちながら歩いた。
洞窟に帰ってくると、水草を出っ張った岩にくくりつける。すると、洞窟の内部がはっきり見えるようになった。
内部は深蒼の岩で出来ている。水の流れで洗われたのか、大部分はつるつるしていてそのまま寝転がることもできそうだった。
「にゃっ」
その床の上に、ちんまりと丸い物体が座っていた。やや垂れた耳、短めの足。目や口は見えない。ぬいぐるみのように毛がふさふさしているわけではなく、白く猫の形に輪郭が光っている。
「……本当に、猫なのか?」
つぶやいた私を値踏みするように、猫は近寄ってきてふんふんと臭いをかいだ。何度かそれを繰り返し、きゅっと顔の中央に皺を刻む。
「……臭うのかな?」
やや傷ついたが、次の瞬間、猫が体をくねらせて私の体に頭をすりつけてきた。ゴロゴロ、と低く鳴く姿は思った以上にかわいらしい。
「飼う」
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