一番この世で恐ろしいのは妖でも、霊でも無く人間だから。俺は其れを少し前に知ってしまった。だから、怖いよ。いつ牙を向けて来るか分からないから。
伊吹は沖田らが寝静まった部屋を後にし、
縁側へと腰掛けた。目線の先にある草の中で
蟋蟀(こおろぎ)が楽しそうに鳴いている。
まるで何も知らない、汚れなき子供のように。
「はは、虫は人間の怖さは知らないか…」
いや、知っているのかもしれない。彼らは
哀れなことに自分達に狩られているのだから。
子供が好奇心で取ったり、或いは邪魔だからと
駆除されたり……
「お前らも俺と似てるんだな。俺も、さ、
似たようなものなんだ。実の息子じゃ無いって
分かってそれでも育ててくれたのは俺を跡取りに
して御家の為の、自分達の為の道具に使う為
だったって。だけど、それを知らなかった俺は、
見向きもしてくれなかった父を必死に呼び続けた。
母は念願の腹の子にしか愛情を向けなかった。
二人に仕える人達も。あの人達に構って欲しく母に
悪戯をした。けれど、それは逆に怒りを買って、
屋敷の人達に蔵に幽閉された。んで、数年経って
やっと妖に救ってもらってあの家から逃げた。
今思えば俺は馬鹿だった。あんな糞な親どもが俺
なんかに愛情を注いでくれる筈ないって分かってた
けど、期待をしていたから。無駄な期待を」
今まで抑えていた感情が涙となって零れ落ちて
くる。乗り越えた、筈なんだけどな。伊吹は内心
苦笑した。それでも言葉を紡ごうとする。
「まぁ、それで良いんだけど、ね……俺だけ
悲しんでれば良いから。家にも周りにも誰も味方に
なってくれる人はいなかった。けど…ここに来て、
妖護屋をやってそれ以上に多くの人に、妖に」
伊吹は、島原のお茶屋の女と如何にも荒れていた
男の姿を脳裏に蘇らせた。初めて江戸に訪れ、
右も左も分からず、嗚咽を漏らしていた状態
だった自分に声をかけてくれて、茶をくれた。
何も聞かずにそばにいてくれた。それだけで
伊吹の心は、解された。ただ、優しくしてくれる
だけで嬉しかった。今まで誰にもされてこなかった
のだから。その人物が京へ行くまで自分は彼の家に
預かられていた。頼る家など無いし、何より金銭
なんて持ってはいなかった。たった数月だったが、
彼とは良い関係になれた。まるで親子のようで、
無意識のうちに父親と見ていた。
ぬらりひょんのいる京へ自身も向かい、妖護屋と
しての仕事を始めた頃、彼と再会し、またあの
時のような関係になれた。そこには彼の目が妾の
女性がおり、すぐに親しくなり、母親のよう
だった。それも六ヶ月で終わってしまった。
人の命は儚いものだ。
「温かい人達に出会えて、こうして遊んだり
話したりする事が出来るのがめっちゃ楽しい。
だから俺は幸せって事。そんでお前らも幸せに
なれよ、お前らみたいな虫はそこまで嫌いじゃない
からさ」
伊吹は目を細め、口元を緩ませどこか懐か
しい唄を口ずさんだ。永倉達が鼾をかきながら
熟睡している。狸寝入りをしていた沖田は襖を
静かに開け、伊吹の優しく温かい唄に聞き惚れて
いた。
(唄歌うとか酔狂な奴。しかもむかつくくらい
上手いし。けど……お前が幸せなら、楽しい
んだったら何でも良いよ。お前はもう独り
じゃない。お前のことが大好きな、馬鹿な仲間共が
うじゃうじゃ集まってる。
に。気持ち悪くてちょっくら前まで死体の様に顔が
動かなくて笑いもしなかったお前に寄って
たかった。まあ俺もそうだったんだけどさ)
その頃の伊吹は大人という闇に、人間に、
そして何も出来なかった自分自身に絶望して
いた。だから戒めに泣く事も笑う事も禁じ、
封じた。それが正しいと思い込んで。
けれど、もうそれは彼の呪縛は解け去った
様だ。
(でももう今は違う。花の様にころころ
表情を、感情を変えるお前に蝶や蜂みたいに
お前という大輪の花にとまっている。それはただの
友人という心からでもあるけど違う。そんなもん
越えてとっくに……お前危なっかしいし、第一
自分の命を顧みないしな。いつか命が尽きるけれど
俺らはお前を守らなければならない。幕府の
お偉いさんの御子息だからじゃない、あの人の
義息子だからじゃない。ただお前という花が
愛しいだけだからだよ)
沖田は布団から起き上がり伊吹の後ろ姿を
眺める。彼が起きたというのにもかかわらず
未だ気付かないその鈍感さ。尊敬する。
そこが伊吹らしいのだが。
(だから……大人しく愛されとけ。ついでに
害敵とかが来たら斬って守ってやるからよ。
んで、生きろ。俺が、俺等が死んでも。
俺らがお前という花にとまってたのは生きた証を
植え付けたから。そういう事だから俺等が死んだら
精々悲しめ、俺等がお前を愛した分まで)
愛しい者の唄を子守唄にし、もう一度沖田は
眠りについた。
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