8-3
家にお邪魔した時から感じていたことだけど、人の家の匂いがする。それを感じる度に、私の家も友達なんかはそう感じているのかなってちょっと不安になるんだけど、もし益子さんの家みたいな匂いがするんだとしたらそれも悪くないかもしれないと思えた。あんまりいい匂いだから芳香剤の香りなのかなって思ったけど、玄関からこの部屋までの間にそれらしきものは見当たらなかった。
家の匂いってどうやって発生するんだろうなんて馬鹿なことを考えている間、益子さんはベッドに座ってスマホをいじっていた。ふと目が合うと、バツが悪そうに呟く。
「ごめん、今日さ、サボりなんだ」
「……だと思った」
「そんなサボりそうなキャラしてる?」
「そういうイメージはなかったけど、すごいラフな格好してるし、顔色も普通だし。会ってすぐ分かったよ」
益子さんは歯を見せて笑うと、悪びれなく理由を話した。なんでも、体育がマラソンだったからサボったらしい。次回もマラソンなんだけど、その時も休むのかな。だとしたら、マラソンなんて早く終わって欲しい。私も走るの、好きじゃないし。
私が暗い顔をしていると、彼女はどこかを見ながら一言、「弾く?」と問い掛ける。視線を辿ると、そこにはエレキギターがあった。
自慢じゃないけど、ギターなんて触ったことはない。有田がしつこく弾かせたがるから、ベースはちょっとだけ弄ったことがあるけど、それだって肩から下げて適当なところを押さえて、その弦をピックで鳴らしただけだ。その動作の連続が演奏になるということすら、私にはイメージできないくらいピンとこなかった。
そんな私がギターを弾くなんてきっと無理だ。有田が持ってるやつよりも弦の数が多く見えるし。なんとなく難しそう。
「え、いいよ。私、音楽の成績3だし」
「じゃあ大丈夫。私なんか2だし」
そう言って笑うと、益子さんはギターに手を伸ばした。ガチャンと音が鳴って、ギターがスタンドから離れる。
「2なんてどうやったら取れるの?」
「歌のテストで歌わずに突っ立ってたら取れるよ」
「やっば」
歌のテストは、一人ずつ音楽室に呼ばれて行われる。他の生徒達は廊下で待機するんだけど、重たい防音扉の奥からは先生が弾く伴奏のピアノの音が僅かに聞こえてくるだけだ。
だから、一言も声を発せずにテストを終える生徒がいるだなんて知らなかった。黙って突っ立ってる自分を想像してみる。気まずすぎてそれだけでちょっと心臓が痛くなった。
手に取ったギターを、益子さんが私に差し出す。受け取るのを躊躇していると、重たいから早く持ってと言われて、結局受け取ってしまった。弾けないのに。
弦と弦の間に縫うように挟まれていたピックを手に取ると、彼女は嬉しそうに私の右隣に座って、指板の上を指差した。
「ここと、ここ」
「押さえるの?」
「うん」
「離れすぎじゃない?」
「大丈夫だって。人差し指がここ。中指がここ」
言いながら、益子さんは私の肩に手を置いて、反対の手で私の指を掴んで弦を押さえさせる。顔が、近い。とんでもなく。
彼女の髪が顔に触れそうになって、私は顔を背けるように弦を押さえさせられている自分の指を見る。心臓の高鳴りを感じたのも束の間で、すぐに左手の違和感、いや、痛みに悲鳴をあげることになった。
「痛い痛い、無理だって」
「もうちょっと。薬指伸ばして」
「無理無理。指、取れそう」
「そうそう取れないから安心しなよ」
死ぬ。色んな意味で危険を感じた私は、右手で彼女の肩に触れて休憩を要求する。つまらなさそうな顔をして離れた益子さんは、一応私に「大丈夫?」と聞いてくれた。だけど、ここで首を縦に振ろうものなら、あの嬉しいのか嬉しくないのかよく分からない時間がまた訪れる。
私はまだ痛む指でギターを掴んで軽く持ち上げた。右手も添えて、益子さんの方にずいと差し出す。
「あのさ、やっぱり私には無理だから。益子さんになんか弾いて欲しいな」
「えぇー? ……まぁいいけど」
さっきと同じつまらなさそうな表情でそれを受け取ると、益子さんはギターを持ってベッドに座り直した。そのまま構えていたら私にぶつかっただろうから仕方ないんだけど、急にいつも通りの距離感に戻ると、少しだけ寂しさを覚える。
さっきから、私だけが彼女のことを意識しているみたいで恥ずかしい。滑稽でみじめな気持ちになるっていうか。
益子さんは前に言っていた。同性なら誰でもいいなんて、そんな訳ないって。当然だと思う。彼女の隣に相応しいのは、私みたいな何の変哲もない普通の女子じゃなくて、お人形さんみたいに可愛くて、それでいて自信に満ち溢れた強い女性だろう。
ギターのストラップを肩に掛けて、慣れた様子で準備する姿を観察する。私がしたら精々近所のコンビニくらいまでしか行けないような服装なのに、益子さんが着るとすごく様になっていて羨ましい。そういえば有田もそうだ。シンプルな格好がよく似合って、「あえてカジュアルにまとめてみました」という装いに見える人達は、総じてズルいと思う。
まじまじと観察していることに気付いて、すぐに視線を下に落とした。だけど、益子さんはそんな私の視線には全く気付いていないようで、感慨深そうに呟いた。
「そういえば、初めてかも」
「え? 何が?」
「人に演奏聴かせるの」
趣味で、一人で弾いているだけなら、有り得るのかもしれない。だけど、少し違和感があった私は、まためんどくさいことを口走っていた。もう少し考えてから言えって、自分でも思う。
「そうなの?」
「うん」
「前の彼女は?」
何言ってんだって気持ちと、冷静になる前に勢いで聞けて良かったって気持ちと。本当に半々だった。だって、私が益子さんの彼女なら、ギター弾いてるところなんて絶対に見たいし。ううん、私と益子さんは付き合ってないんだけど。もういい、このこと考えるのやめよ。
「……ごめん、変なこと聞いて」
「別にいいよ。あのときは、まだ一曲も弾けなかった。もらったばかりだったんだよね。そういえば、部屋に来る度に物珍しそうにギター見てたっけ。弾けるようになったら聴かせてって、言われた。でも、聴かせることは、無かったなぁ」
「……そう」
指で軽く弦を弾く音が鳴る。昔を振り返る益子さんは、初めて会った人のような空気をまとっていた。どこをどう見ても益子さんなのに。知らない人みたいで、それが怖かった。
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