師匠のために貫く信念紅蓮にかえて

7-1

 男と女が道場に居た。

 二人ともはかまを着込み男は、見えぬ相手と剣を合わせている。

 何度挑んでも、いまだに決定的な一撃を入れる事なく、二年の時が流れていた。

 男が戦っているのは、凛と背筋を伸ばし正座して男が諦めるのを待っている女である。

 女は光の明暗を、わずかに感知できるのがやっとといった視力しか持ち合わせていない。

 一昨年頃から病気の進行が早まり、医者からは完全に失明するのも時間の問題だと言われていた。

 それでも、男の足運びを床で感じ、息遣いで消耗を感じ、空を切る竹刀の音で技の是非を感じ取っている。

 それらは、時間と共に激しく乱れ。

 もはや鍛錬ではなく、ただただ己の肉体を虐めているにすぎなかった。


 それでも、一向に男は止める気配を感じさせない。


 理由は、分っている。

 本日付で正式に女がこの道場を継がない事が決定したからだ。

 彼女と婚姻すれば、この道場と岩曽流の看板がセットで付いてくる。

 それ目当てで通いつめていた者も少なくない。


 しかし―― 


 今朝。

 現当主により跡継ぎは、現在師範代を務めている高木たかぎにすると発表があったのだ。

 そして、それは女も知らぬ内に内定していたらしく当然男も知るよしはなかった。

 今ココに居る二人以外は現当主も含めて皆、好敵手である北島きたじま道場に挨拶がてら手合わせに行ってしまった。

 男は、最後まで、血縁者が居るのだから彼女がこの道場と継ぐべきだと言い張ったが。

 幼子の戯れ言として扱われただけだった。


「もう、よしましょう……」


 先に痺れを切らしたのは、女だった。

 男は、何もこたえずに、以前何度となく手合わせした師の幻影を追い求めていた。

 まだだ。

 もし、師匠が視力を失わなかったら、もっと速いはず、もっと鋭いはず。

 その思いは日々加速し。

 見えぬ幻影は、彼にとって決して敵う事のない最強の相手となっていた。

 女は自分の発した言葉がかえって男を追い込んでしまったと感じとる。

 いくら彼が日々鍛錬を欠かさない者だったとしても、そろそろ心身共に危険な領域に入ってしまう。

 無理やりにでも止めるしかないと、女は立ち上がり男に近付いていく。

 それに男は気付くことなく、闘っていた。

 女と自分と、それらを取り巻く全てに対して。

 男の足取りが乱れたのを感じ取り女が足早に近付き抱止める。


「もう……よしましょう……」


 男は、息を激しく切らせ返事すらままならない程に消耗していた。

 女が男を抱き止めたのは、ほぼ偶然。

 完全に視力を失って月日が流れていれば、それなりに感覚も養われてくるが。

 彼女は、いまだ視覚に頼ってしまう嫌いがあり。

 この方向だろうと決め付けて歩んだ先で彼が倒れ込んできたに過ぎない。

 男は、もがき出て続きを再開しようとするが、女の力をはねのける気力も体力も残っていなかった。


「ぜーはーぜーはー」


 息を吐き吸う。

 それだけを繰り返すことが精一杯だった。


「もう……よしましょう……」


 男は、やはりこたえる素振りを感じさせてくれない。

 これで三度目だった。

 これでも、こたえてもらえないなら諦めようと女は思っていた。


 諦めて、覚悟を伝える――


「では、私が手合わせしたしましょう……」

「……えっ?」


 男は激しく動揺しながらも無理やり声を絞り出していた。

 視覚を失った女が手合わせをしてくれると言った事に驚いただけでなく。

 それは男が何度となく願っては、拒まれ続けてきた願いでもあったからだ。


「私が手合わせ致しますと言ったのです……」


 男は、きちんとこたえようと何とか言葉を……


「そ……ぜぇぜぇ、それは、はぁはぁ……ほ、んっ、とうっ……ですか? ……ぜぇはぁ」


 絶え絶えながらも嬉しさを伝える。


「はい、貴方が思うまま……貴方の全てを私にぶつけなさい」

「で、……ぜぇぜぇ。ではっ……」


 直ぐにでもと男は要求するが、女はそれを律する。


「先ずは、風呂に入って汗を流しなさい。そして落ち着いたら私の部屋に来るのです。いいですね。話はそれからです」


 それは、呆れ果てた様な、嬉しいような、悲しいような、何かに迷う声色だった。

 男は、無様な自分を見られたくなくて目を逸らしていたから気付けなかった。


 女の顔が……師範ではなく別の顔で男を見おろしていたことを。

 自分の中に師範を想う気持ちを悟られるのが怖くて無理にでも感じないようにしていたから。

 女が愛おしそうに男を抱きとめていたことに気付けなかった。

 だから、言われた通り風呂を借り、汗を流すと休憩室でしっかりと休息を取り。

 師範との闘いに備えて体をほぐす。

 そして今一度、手合わせを願い入れようと女の部屋のドアを叩き、


「師匠っ! 準備場万端整いましたっ! 道場にてお待ちしておりますので! 宜しくお願いします!」


 勢い良く見えぬ好敵に頭を深々と下げる。


「……よい……」


 それは、やもすれば聞き逃してしまいそうな程にか細い女の声であった。

 男は、首を捻る。

 声は、確かに師範のモノだった。

 しかし、師範らしからぬ弱々しい声。

 まるで、親に無理やり連れてこられた幼い入門希望者みたいだった。


「え~と……師匠ですよね?」

「当たり前です! 貴方は、私の声が分らなくなるまで自分を痛めつけて満足かもしれませんが……そんなことされても私は……私は、迷惑なだけです……ですからココに呼びつけました……もう、息は整いましたね?」

「はい! 問題ありません師匠!」


 男は、全力全開で行けるとアピールするためにワザと元気に言う。

 ホントの所は厳しい部分もあったが気取られぬ様に心掛けた……


「では、つらかったり痛むところはありませんか?」

「はい! 全くありません! 全力でいけます!」


 しばらく沈黙が続いた。

 男は、再び頭を捻る。

 ここに呼ばれた理由は恐らくお説教だろう……

 それは、なんとなく察した。

 原因も痛いほど分っている。

 実際に何度かこの部屋で足が痺れ動けなくなるまで説教された経験もある。

 最近では、女の通っている医者に殴り込みに行こうとした時だった。

 憧れの相手との手合わせが叶わなくなったと……何もかにもむしゃくしゃしていた。


『師匠の目が見えなくなったのは絶対ヤブ医者のせいだ!』


 竹刀を持って暴れる気満々でいた所を門下生に咎められ……そのままマジ泣きしたくなるほどの説教が日が変わって朝日昇るまで続いたのだった。


「うん……だいじょうぶ……」


 囁く様な、蚊の羽音にも満たない女の声が聞こえた。

 いまいち現状はつかめないが……男は、ここは潔く先程の行為を謝り。

 手合わせ願うことしか頭になかった。

 だから男は、「それでは失礼します」きちんと断りを入れてドアを開けたのに。


「ダメです! まだ準備が出来ていません!」


 頬を赤く染めた女にダメ出しされてしまった。


「え~~~~と、すいません師匠。もう開けてしまいました……」

 女は、「く~~~~~~」きっと男が自分を見ているだろうと察し、顔を背ける。


 正直、何が準備出来ていないのかさっぱりな状況だった。

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