第3話 二十のとき
うっすら積もった雪を、雨が容赦なく溶かす。
バスを降りた愁也は、足を滑らせないように慎重に石段をのぼる。
お正月はアルバイトを休むことができず、帰省できなかった。
今日は成人式に参加するための里帰りだ。
明日の朝、袴を着付けしてもらい、昼頃に市民ホールで成人式。夜は中学校単位の同窓会。
正直なところ、成人式は気が乗らない。それでも帰省したのは、帰りを待ってくれる人がいるから。
ただいま、と玄関から声をかけると、おかえりなさい、と奥から声が弾む。
この声だ。この声が聞きたくて、愁也は帰省したのだ。
「おかえりなさい、愁也」
現れたのは、すらりと背の高い女性。金にも銀にも映える長い髪に、ゆったりシルエットの洋服が映える。
「これ、愁也にあげる。最近、こういうのをつくって、ウェブで販売しているの」
彼女は、オパールのような光を宿した瞳をさらに輝かせ、ブレスレットとタブレットを愁也に見せる。
ブレスレットは、焦げ茶色の糸にビーズを編み込んだデザインである。
タブレットの画面は、ハンドメイド専門のフリマアプリの個人ページが表示されていた。出品された商品が多く、ほとんどが売り切れになっている。
「すごいな。プロみたいだ」
愁也が褒めると、彼女は無垢な少女のように微笑んだ。その頬が可愛らしくて、愁也はつい、手を伸ばしそうになる。
ヒメと扱われ、村の神様の尊ばれる彼女。特別な能力は持たない。美しくなった彼女は、今もなお、少女のような可愛さを見せる。
「ただいま、って、言わなかったな、俺は」
愁也は咳払いした。
「ただいま、ヒメ」
着物なんて着なくてもよかった。愁也はそう思っていた。しかし、親の心はそうもゆかない。
一生に一度の思い出だから! お着物のお写真を撮らせて!
母親に懇願され、父親の袴を着付けしてもらった。
うわ、俺、和服似合わない。
姿見で自分の姿を直視できない。
外に出てみれば、まだ雨が降っている。
和傘を持たされ、神社の拝殿前に移動させられると、屋根の下にすでに人が待っていた。
彼女は紅色の振袖に身を包み、金にも銀にも映える髪は編み込みをしてまとめ上げ、牡丹のような大きな髪飾りをつけている。
「ヒメ、振袖着たんだ」
「うん……」
変かな、と、紅をさした唇で恥ずかしそうに呟く彼女。愁也は唇を注視してしまい、母親から小突かれてしまった。
そうだ。彼女も20歳なんだ。
愁也はスーツに着替え、成人式の支度をする。
「残念」
彼女が、ひょっこりと覗いていた。彼女も振袖から洋服に着替えていた。ブラウスの上に袖の広いカーディガンを羽織り、ロングスカートと会わせた格好は、上品だ。
「お着物、格好良かったのに」
そう言うあなたも振袖が良かったのに。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
彼女は玄関で傘を持たせてくれた。
そうか。彼女は成人式に行けないんだ。
「愁也、めっちゃ久しぶりじゃん! 東京の大学に行ったんだって?」
成人式の後の同窓会。村の料理屋に、中学時代の仲間が集まった。
高校生のときによく会っていた人もいたが、その後の2年で皆、かなり変わった。結婚した人もいる。
「大学で何やってんの?」
「管理栄養士を目指している」
「すごいな。上京して、国家資格を目指して」
「近場の大学に受からなかっただけだよ」
製菓が好きだからパティシエを目指そうとした時期もあった。しかし、専門学校を見学したときに、学生のレベルの高さに圧倒され、断念した。管理栄養士は、第2志望のようなものだった。
昔の仲間と昔みたいに騒いで、楽しんで、ふとした瞬間に一抹の寂しさがよぎる。
飲酒しなかった人の車に乗せてもらい、神社の前で降ろしてもらった。冬悟も一緒だ。久しぶりに会ったが、まともに話していない。市役所の職員だと又聞きした。
「酔っ払いの
冬悟は、小雨が降る空を見上げる。愁也は、持っていた傘を広げて冬悟を傘の中に入れた。
「もしもあの子がいたら、どんな学校生活だったかな、とか思っちまうんだ。制服は似合わないだろうな、とか、誰と仲が良いのかな、とか。誰もあの子のことは口に出さない。忘れている人も、いるのかもしれない」
冬悟は、きびすを返す。愁也は冬悟に無理矢理傘を持たせ、自分は神社の石段をのぼる。外灯の明かりが乏しくなり、酒を飲んだことを後悔した。滑って転んだら、一生の笑い物だ。
雨でしっとりと濡れ、体が冷えた頃、最後の一段をのぼりきった。
そのときだった。
歌声が聞こえてきたのは。
しっとりと憂いを帯びた歌声が、雨に溶ける。
「蘇州夜曲」だ。祖母が昔から好きだった歌。歌っているのは、祖母ではない。彼女だ。明かりをつけた玄関先で、目をつむって、何かを想うように、祈るように。
「わ、びっくりした! 愁也、おかえりなさい」
我に返った彼女は、大きな瞳を泳がせ、恥ずかしそうに伏せる。寝間着にショールを羽織っただけの恰好だ。
「どうかした? こんなところで」
「待ってたの」
「おふくろに言いつけられたのか?」
「ううん……私が、そうしたかったから」
愁也が軒下に入ると、彼女はショールをかけようと腕を伸ばした。
平気だよ、気持ちだけ頂き、彼女と視線が合う。
オパールのような光を宿した瞳に見つめられ、愁也は息をのんだ。
衝動は、土砂崩れのように襲ってきた。
かじかんだ指を伸ばし、冷気で紅潮した彼女の頬に触れる。
彼女は目を伏せ、静かに愁也に身を寄せた。しかと腕をまわし、抱きつく格好になる。
愁也も彼女を抱きしめる。
琴線が掻き鳴らされるような快感が、たまらない。
ああ、そうか。
愁也は自分の気持ちに気づき、自分の気持ちが間違っていることに気づいた。
可愛い声の可愛い女の子は、お菓子が好きな少女になって、奥ゆかしい大人の女性になった。
でも、彼女は村の大切なヒメだ。間違いがあってはいけない。
愁也は彼女を家の中に促し、独り玄関に座り込んだ。
――俺が彼女を守るんだ。
俺自身の邪な感情から、彼女を守るんだ。そのためには、もう、一緒にいてはいけない。
愁也は、熱を帯びる目頭を押さえた。
雨は止むことを知らない。
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