愛しき名は雨音に秘して

紺藤 香純

第1話 五つのとき

 村の神社がヒメを迎え入れたのは、満開の桜を雨が散らす日だった。

 保育園の年中、ひよこ組の早坂はやさか愁也しゅうやは、神事をこっそり覗き見て、大人が噂していた通りだと思った。

 ――山科やましなさん家の晴佳はるかちゃんがヒメになるみたいよ。

 白い布を目深にかぶり、白い着物に守られるように身を包んだ少女は、同じくひよこ組の山科晴佳である。

 髪が白っぽく、可愛い顔をした晴佳を、愁也は遠目からでも気づくことができた。

 晴佳は、うちの子になるんだ。

 そんな誤解に、幼き愁也は心を躍らせた。



 雨の日に生まれ、髪や瞳の色素が薄い女児。その者は、ヒメと呼ばれ、神社で受け入れられ、神事を執り行う風習がある。

 ヒメは神社の敷地内から出ることができす、神社の関係者以外と関わることを許されず、生涯独身を貫き、神事に一生を捧げる。ヒメが亡くなれば、村のどこかの家で、すぐに次のヒメが生まれる。



 ヒメの風習を保育園の園児に説明しようとしても、理解を得られる可能性は低い。

 それゆえ、山科晴佳が保育園に来なくなった途端、園児は騒ぎ始めた。

「ハルカのやつ、シュウヤんちにいるんだろ?」

「シュウヤとハルカ、けっこんするの?」

「トウゴがかわいそうじゃん!」

 保育士は園児の騒ぎを沈めようと試みるが、静かに、と叱ることしかできなかった。

 愁也は言い返すことなく、黙っていた。

 トウゴと呼ばれた楠木くすのき冬悟とうごも、口を閉ざした。冬悟の家は晴佳のお隣で、ふたりは仲が良かったのだ。



 愁也は園バスから降り、迎えに出た母の存在も、雨で園服が濡れることも、一切構わずに神社の石段を駆け上がる。

 早坂家は代々、神社の神主を務める家系だ。神社の敷地内に自宅がある。

「ただいま!」

 愁也は、息も胸も弾ませ、玄関で声も弾ませた。

 おかえりなさい、と返る声は、もう保育園で聞くことはかなわない、可愛い声。

 愁也を出迎えたのは、2年上の姉、奈津美なつみと、可愛い声の持ち主の少女だった。

「シュウヤ、おかえりなさい。いまね、ナツミちゃんと、おかしをつくっていたの」

 金色にも銀色にも映える髪、オパールのような光を宿した瞳。それに、可愛い声。

 はい、と、チョコレートフォンデュの苺を差し出されれば、遠慮なく受け取ってひとくちで食べてしまった。

「うまいよ、ん……と」

 うっかり呼びそうになった名も、チョコレートフォンデュの苺と一緒に飲み込む。

「ヒメ、ありがとう」

 村の都合で山科晴佳であることを捨てさせられた少女は、ヒメと呼ばれても愛らしい笑みを見せた。

 ヒメは神社の敷地内で一生を過ごす。

 昔は世話役がいたが、限界集落である今の村に、世話役に割けるほどの人員は居ない。

 そのため、先代のヒメは早坂家で家族の一員として過ごしていた。先代が亡くなり晴佳がヒメとなった今も、それを継続することになっている。

 長じた愁也はヒメの風習を正しく理解してから、こう思うようになった。

 ――俺が彼女を守るんだ。

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