忘却のアリィ

春菊も追加で

第1話 未知との遭遇

 機体は重力に任せるままに降下し、界面を越えて成層圏から対流圏に突入した。機体眼球部に取り付けられたカメラの写す風景が紺から白へと切り替わった。操縦室のシートに座るアスタが『メリーさんの羊』を聞いたのは、彼女らの搭乗する空母が雲海を潜行中のことだった。


 狭い操縦室には二人いる。一人はアスタ。もう一人は『傷物』。アスタがその歌に少々の驚きを抱いたのは、左頬に大きな裂傷を持つその少女と『鼻歌』という行為が上手く重ならなかったためだ。


 見られていることに気付いたのか、『傷物』は鼻唄を止めてアスタの方に顔を向ける。


「どうした? 軍人でない君にとっては初めての戦闘だ。やはり緊張しているか?」


「いいえ」アスタは微笑む。「ただ、あなたでも歌を歌うっていうのが、何だかとても意外で」


 『傷物』はポーチから長さ十センチ程度の棒状のもの――吸引式の緊張緩和剤を取り出すと、先端を捻って口に咥えた。


「兵士はよくやる。敵地突入前に精神を落ち着かせるための習慣だ。……おかしいか?」


「おかしくはないわ。ただ……」


 そこで言葉を止めたので、不思議に思って『傷物』は緊張緩和薬から手を離す。横目で見やると、アスタは目を細めて口元に手を当て、小刻みに身体を震わせていた。


「おかしくなんてないけれど……」


 何とかそこまでは声を絞りだしたアスタだが、遂に耐えられなくなったか、プッと吹き出し、それから声を上げて笑い出す。


「……酷い音痴」


 想定外の答えだった。


 呆気に取られて固まった後、『傷物』の顔が暖炉に当たるように赤く染まる。唇を尖らせ、「精神安定に巧拙は関係ないだろ」とぼやいた。


 操縦室フロントの一面を締めるモニタに表示された高度カウンタは、九〇〇〇メートル、八〇〇〇メートル、七〇〇〇メートルと、粛々と数字を減らしていった。



* * *



 事の始まりはフローレンス銀河の公用基準時間で三五〇時間、つまりは十五日ほど前に遡る。



 『傷物』というのは随分と酷い呼び方だと思うが、全身にいくつもの、取り分け左頬に目立つ大きな裂傷を持つその女傭兵はそう呼ばれていた。


 『傷物』が惑星ホルガに降り立ったのは二時間ほど前で、今は乗ってきた小型の宇宙船舶から降ろした4WDを駆り、高さ百メートル越えの木々が並ぶ樹海を突っ切っていた。


 張り出した根で道の状態は悪く、車はガタガタと揺れる。しかし、そんな中でも『傷物』はハンドルを右手で握ったまま、左手でエナジーバーの包装を器用に破って齧る。


(これ一本で、これから先のミッション遂行のためのカロリーは充分だろう。タンパク質は船の中のレーションで摂った。ビタミンは目標地点に到着後、注射を打てばいい)


 『傷物』の耳にはイヤホンが突っ込まれていて、鋭いギターのリフが漏れ聴こえてくる。彼女の趣味ではない。食事と同様、精神マネジメントの一環として訓練通りに聴いているだけだ。


 数十メートル先、森が終わり、光が射している。『傷物』はエナジーバーの残り半分ほどを、強引に口内に突っ込む。


 天上の葉に遮られて薄暗かった大木の群れを抜けると、そこは遮るものの何もない草原だった。『傷物』の全身に温かな陽の光が降り注ぎ、眩さに目を細める。


 目標まではまだかなりの距離があるはずだが、片膝立ちで沈黙するその姿はここからでも充分に確認できた。それほどまでに、『アレ』は巨大だった。



 XXL級宇宙戦闘艦、二脚二腕型“ピレネー”。



 全長五〇〇メートルを超す、魔女のトンガリ帽子を被ったような機械の巨人。


 半世紀前の大戦でこの星に遺棄されたそれを、此度の戦争で進退窮まる母星へと持ち帰るのが『傷物』に課せられた任務だった。



* * *



 とりあえず人心地、といったところだった。


 ピレネーは常識を外れたその巨躯に反し、操縦室はバスルーム程度とかなり狭い。その中に各種の機器類も配置されているから、室内にシートは二席しか置かれていない。二人で定員だ。


 それというのも、巨人の動作パターンは既に数千通りがプログラムされており、人工知能が状況に応じてそれを呼び出して機体制御する。操縦士が行うのは人工知能での運用に適さない高度な意思決定だけなのだ。


 操縦室フロントの巨大モニタには、自己診断プログラムの進行状況が表示されていた。巨人は半世紀に及ぶスリープ状態中にも自律メンテナンスを行っていたはずで、事実、診断は終了まで後五パーセントを切ったが、不具合は発見されていない。


 母星に持ち帰るには充分のエネルギーも残っており、特殊コーティングのおかげか外装にも腐食は見られない。搭乗ハッチにこじ開けようとしたような獣の爪痕があったことのみ気になるが、起動させるのに問題はないだろう。


 『傷物』はシートに深く身を沈め、瞼を緩く閉じて息を吐く。身体に傷を増やさずに終えられる任務は、おそらく随分と久しぶりのものになるだろう。


 そしてこの惑星に来たことも、巨人を本隊に引き渡せばすぐに忘れてしまうのだろう。


 ――いつもの事だ。別に悲しむ事じゃない。



 それから、気付くと少しだけ眠ってしまっていた。


 目を覚ますとシートの前のモニタは自己診断プログラムが無事終了し、何ら不具合がないことを表示していて、


 ――そして機体の居住区画に、複数の生体反応があることを伝えていた。



* * *



 XXL級宇宙戦闘艦“ピレネー”。


 トンガリ帽子のこの巨人は戦闘だけではなく、数百単位の人と物資を運ぶ輸送艦としての役割も担っている。


 艦内は軍人のみの立ち入りが認められたエリアと、輸送中に民間人が身を置く居住エリアの二つに分かれている。生体反応は、その後者の方にあった。


 これは『傷物』だけの単独任務で相棒はいない。また、この星に知的レベルが等級五(言語を持ち、同種間での複雑な会話や思考を行う)以上の生物がいないことも調査済みである。


 つまり、機内への侵入者は全く未知の存在だった。



 ガバリエJ‐23(広く軍用されるハンドガンの一種)を構え、『傷物』は闇に包まれた通路を慎重に進む。暗視バイザー越しの濃い緑に染まった世界は見通しが悪く、相手の存在が不明なことから加増した緊張により、彼女の全身は不快な汗に包まれる。


 静寂。その中に溶け込む『傷物』の微かな足音は、ある地点に到達して途絶える。


 民間人居住区・第二食堂。


 巨人のセキュリティ・ネットワークと繋いだ多目的携帯端末は、目の前の扉、その向こう側に侵入者はいると告げていた。


 扉の上半分にはめ込まれた擦りガラス越しにこちらを視認されぬよう、『傷物』は横に退いて壁に背を預ける。端末に表示された生体反応は全部で十二、いずれも自分と同じ人型。


 端末の翻訳機能はイギ語(フローレンス銀河の公用語)に設定しているが、言葉が通じない場合、または通じても相手が好戦的な種族だった場合、戦闘になる可能性も充分にある。


 高鳴る鼓動を落ち着かせるため、『傷物』は携帯端末を腰のポーチに仕舞い、代わりに棒状の緊張緩和剤を取り出して吸う。肺を薄く満たす程度に吸い込んだら、プッと吹いて床に捨て、扉を足の外側で乱暴に蹴

り開け、その身を室内にねじ込んだ。


 ガバリエの砲身に取り付けたレーザサイトが食堂の暗闇を泳ぎ、その先の赤点は部屋の一番隅にあるテーブルの陰で止まる。そこには身を寄せ合って震え、しゃがみ込んでいる侵入者たちの姿があった。


「そのまま動くな!」


 『傷物』が吠える。暗視バイザーの視界の中、熱源の白の塊が一斉に肩を跳ね上げる。


 緊張の糸を張ったまま、『傷物』はゆっくりと侵入者たちに歩み寄った。その塊の中の一人が急に立ち上がったのは、五メートルほどの距離まで近付いた時だった。


「ここはあなたの巣? 勝手に入ったのは悪かったけど、あたしたち、他に行く所がないの。お願いだから追い出さないで!」


「動くなと言っている!」


 引き鉄に掛かった指先に力が入る。


 視界の悪い暗視バイザーがもどかしく、思い切ってそれを外す。


 世界はそれまでの濁った緑から、吐息も溶け込む黒へと変わった。その中で目の前で震える彼女たちだけが、比喩でなく、翡翠色にポゥと光を灯していた。


 ――身体が発光している?


 『傷物』の握るガバリエの銃口が無意識に下がり、標的から外れた。


 それが命取りな行為であることなど、長く戦場に身を置く彼女には百も承知のことだった。


 けれど、見惚れてしまったのだ。


 仲間たちを守るように両手を広げ、怯えを瞳の奥に必死に隠し、気丈にこちらを見据える少女。


 その姿を前にし、『傷物』の時間が数秒、確かに止まった。

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