スプリング・スプリング・スプリング #17

 今週は掃除当番だった。八班は七班と美術室の掃除を一週間担当する。

 先週の水曜日、いわちゃんにそのことを伝えていた。

「遅くなるかもしれないし今度の水曜は先に帰ってて」

「いいよ。待ってる。一緒に帰ろう」

 いわちゃんは嫌な顔もせず悩むこともなくそう答えた。それがやけに嬉しくてにやけた顔が元に戻らなくなりそうだった。


「じゃあ、残りの机戻すのと清掃日誌は七班に任せていい?」

「うん。ゴミ捨て頼んだ」

 八班の三人で五つのゴミ袋を校内のゴミ捨て場に運ぶ。特に水曜日は時間割の関係なのかゴミが多く出る。

「はじめくんはこれ運んでくれ」

「はーい」

 ひので君と真生君が大きい袋を軽々と二つずつ持つ。私は残りの一番小さくて軽いゴミ袋を一つ担いだ。

 ゴミ捨て場は全科共通の場所で、そこまで距離はないけど急な坂を上った先にある。初めて見た時は学校の敷地内にこんな坂があるのかと驚いたもんだ。美術科の二年生がダンボールで作った車をここで走らせて先生に怒られていたのを見たことがある。木に衝突してダンボールカーは凹んでいた。 


 朝からずっと降っていた雨は掃除が始まる頃には止んだ。私は天気が変わること自体が好きだし、雨の中ゴミ袋を持って坂を上らずに済んで助かった。

「雨上がりってアスファルトが埃の変な臭いするよなぁ」

「降る前はいい匂いする」

「どんな!?」

「甘い感じ」

「本当!?科学的な証明されてる!?」

「されてると思う」

 私の前を歩く二人の会話を聞きながらアスファルトの坂を進む。雨のせいかいつもより上りづらかった。

 使われていない焼却炉の横にゴミ収集庫がいくつも並んでいる。美術科専用の燃えるゴミの収集庫に袋を入れた。美術科が一番ゴミを出してしまうんだろうかいつもパンパンだ。

「おーわり!唐揚げでも食って帰ろっかな。二人はどうする?」

 フタを閉めてひので君が体を伸ばしながら真生君と私に言った。

「行く」

「あたし、友達と帰る約束してる…」

 ひので君が私たちを寄り道に誘うなんて珍しかった。いつも私か真生君がどこか寄ろうって言っても滅多に都合がつかない。ちょっとミステリアス。こんな機会を逃すことになるとは。

「ねぇ、また別の日に行く?行くなら誘って。水曜日と部活の日以外なら行けるから」

「急にどうした。唐揚げは逃げないだろ。売り切れの日もあるけどさ。はじめくん、そんなに唐揚げ好きだった?」

「ふかの付き合い悪いから。ながはふかと遊びたがってる」

 真生君がどこか楽しそうに事実を告げた。

「そうだよ!あたしとも遊んで!部活も入ってないくせにいつも放課後何してるの!?」

「何って…弟が早く帰ってくる時は早く帰ってるし、それ以外は学校で宿題やってから帰ってるだけだけど。家じゃ集中できないから」

「偉い…」

 実に立派なお兄さんだった。我等の班長の面倒見の良さは小学生の弟さんによって培われたものなのだろう。年は少し離れているけど仲がいいようだ。私にとっての叔父や叔母の存在に近いように感じた。


 二人の背中を見ながら坂を下る。真生君が特別大きいせいで二人には身長差がある。けれど、ひので君も男子らしくしっかりした後姿をしている。

 私もこういう背中が欲しい。自分の真後ろは見えないけど頼りないのはわかってる。せめて見た目だけでもどうにかできないだろうか。やっぱり筋トレなのかな。

 雨で濡れた坂を気にせずにそんなことを考えていた。注意散漫。私の足をすくった。片方の靴底が滑るとそのまま止まることなく私の体は前を歩いていた二人を通り過ぎる。アスファルトはやすりのように全身をかすっていく。

「なが!?」

「うわーーー!?はじめくん!!!」

 ひので君の叫び声が耳に届いた時には坂を転がり終えて横たわっていた。力を入れて起き上がることも思いつかなかった。ぐるぐる回った視界と全身の痛みに驚いて頭も体も動けない。心臓だけだ。信じられないくらい動いてるのは。

「生きてるか!?」

「なが!!!」

 私が転げ落ちた坂を二人は走って下った。

「はじめくん!俺らのことわかる!?頭打ってない!?」 

「…わかる。打ってない」

 真生君が私をゆっくり起こすとどろっと鼻血が出てきて制服の胸に落ちる。この感覚で私の意識は完全に戻った。ひので君がポケットティッシュを丸めて鼻にぐいぐい詰める。もっと優しくしてほしい。

「立てそうか?」

「うん…」

 そう言ったけど私を立たせたのは結局真生君だった。

「なが、俺の背中乗って」

「汚れちゃう…」

「気にするな」

「じゃあ、まおちゃんは保健室頼む。俺は荷物取ってくるわ。これも持ってって」

 ひので君はいつ脱げたかわからない私の右の上履きを真生君に託して校舎へ走った。

「平気だから。大丈夫」

 そんなことを繰り返し言いながら急ぎ足で真生君は運んでくれた。頼もしい背中を実感する。


 保健室の扉には外出中の看板がぶら下がっていた。私を背中に乗せて両手で支えている真生君は引き戸を長い足で勢いをつけて開ける。先生も保健委員もいなかった。

 丁寧に私を下ろしてベッドに座らせると真生君は引き戸をそっと閉めに戻る。彼の背中と肩は砂利や私の血で汚れてしまっていた。

「真生君、ベスト早く水に漬けた方がいいかも…ううん、落ちても落ちなくても新しいの買うね」

「え?ああ。別にいい。それよりどこか捻ったとか骨折れてそうとかある?」

「ううん。擦り傷しかないと思う」

 これまでたくさん転んできたけど骨折の経験はない。きっと想像できないほど痛いだろうな。

「なら消毒でいいか」

「…染みるかなぁ」

「染みるだろうなぁ…」

 真生君が消毒液と絆創膏を探し始めると廊下からドタドタと誰かが走ってる足音が近づいてきた。

「はあ!?外出中!?使えない!」

 再び引き戸は強い音を立てて開いた。ひので君が三人の荷物を担いで声を荒げる。

「こんな時にクソだな!行き先を書いとけよ!」

「ふか、これって消毒液?」

「あぁ、うん。でも、その前に水で洗おう。小石刺さってるようなところある?」

 私の鼻から真っ赤になったティッシュを引き抜いて新しく詰めながらひので君は傷の確認をする。

「すごく深い傷はないと思う」

「なら洗い流すだけで平気かな。靴下脱ごう」

「うん」

 血や砂が付いている靴下を脱いだ。真生君に体を支えてもらいながら、保健室の外の水道でひので君が手足に水をかけてくれた。水はぬるい。ヒリヒリピリピリと痛みが走る。脛は特に激しい。

 保健室に戻るとひので君は手際良く消毒して絆創膏を貼る。何枚使うことになるんだろう。じっとしてる間に自分は今まで他人の血に触れたことがないと気づいた。

「顔が絆創膏だらけだと変に目立つよなぁ。鼻とでこだけ貼っとくか?」

「うん」

「ほっぺの小さい傷とかはすぐきれいに治ると思うよ」

 傷が残ることも今までなかった。いくらかゆくても怖くてかさぶたを剥がさなかったおかげかな。

「着替えた方が良さそうだけどジャージ置いてある?」

「昨日持って帰っちゃった…」

「なら俺ので悪いけど持ってきたから着て。そんな臭くないと思う」

 私が着替える間、二人は保健室から出て廊下で待ってくれた。絆創膏まみれの腕と足をだぼだぼなジャージが隠してくれる。別に臭くない。

 ひので君からもらった大きい紙袋に制服を入れた。いつか使うかもしれないからってロッカーに突っ込んでいたらしい。いつかがやって来たわけだ。


 着替えを終えるとひので君はぐしゃぐしゃになった二つに結んでた髪をほどいてポニーテールにしてくれた。人の髪を結うのは初めてだと言っていたけどきれいにまとめてくれた。

「きつく結びすぎてない?」

「大丈夫!」

「ふかは器用だなぁ」

「まぁね。はじめくんは友達と帰る約束してんだっけ?呼んでこようか?どこで待ち合わせてる?」

「え!?いいよ!大丈夫!」

「でも」

「一人で行けるよ!歩ける!もう大丈夫だから!今日は本当に本当に色々とありがとう!」

「…おう」

 最後まで心配してくれる二人を追い出すように帰してしまった。一人になった保健室には運動部の威勢のいい掛け声が届く。二人を呼び戻したくなった。

 いわちゃんが校門で待ってる。早く行かないと。荷物を持とうとすると阻むように涙が出た。こうなるとしばらく駄目なのだ。抑えても抑えても溢れ出てくる。ひので君のジャージの袖で目を擦ってしまった。きちんと洗って返さないと。真生君のベストも弁償しよう。

 鼻栓を取ってティッシュで鼻をかんだ。鼻血混じりの鼻水が出る。鼻血は止まったようだ。少しずつ鼻水も涙も出てくる量は減ってやがて止まった。

 保健室を出たら先生が戻ってきた。転んだら友達が手当てをしてジャージも貸してくれたと説明した。先生は留守にしていたことを詫びて制服で帰ることを許可した。許しがなくてもこの姿で帰るに決まってる。


 急いで校門へ行くといわちゃんが待っていてくれた。立ってるだけで絵になる子だ。凛々しさがある。声をかけるといわちゃんは驚いたというより怪しむような顔をする。

 駅に向かいながら詳細を話した。

「おっちょこちょいだね」

 全くその通りなのである。親切ないわちゃんは荷物持ちを申し出てくれた。今日は分厚い富士山の写真集が二冊入っている。強く打った肩に重さが食い込んでいたのでお言葉に甘えて持ってもらった。カバンを渡す際に一瞬ばちっと目が合った。

「もしかして泣いた?」

「へ!?あ〜…」

 ほら!駄目なんだって!さっき出し切ったよ!我慢して!私は女優!私は女優! 

「ごめん!からかうつもりで言ったんじゃないの。転んだんだもん。痛いよね」

 事実を指摘されるとごまかせない私をいわちゃんは思いやってくれた。顔が熱くなる。

「痛いのもあるけど、二人ともやさしくて。やさしいなぁと思ったら…泣けてきた…っ」

 ひので君と真生君の優しさが身に染みた。嬉しくて面目なくて潰されそうだった。

「うう〜また泣けてきたぁ…ごめん…」

 いわちゃんを困らせたくない。こんなに人の往来がある歩道で泣くとはとんだ迷惑だ。いわちゃんまで恥をかくことはない。やっぱり今日は先に帰ってもらえば良かった。今からでも遅くないかもしれない。

 そういったことを言おうとしたけど声が上ずって出ない。そのうち背中を撫でられた。少しくすぐったい。制汗剤の爽やかな香りがほんのりする。いわちゃんは何も言わない。困惑しながらも寄り添ってくれてるのがわかった。

「いっ、いわちゃんも…」

 やっと出せた声は震える。

「私?」

「やさしくされると、好きになるっ」

 優しい人になりたい。私の周りに優しい人が多いからその人たちに返したい。とてもじゃないけど今の自分じゃ頼りない。

 たくさんのものに感動したいけど動揺はしたくない。どんな時も落ち着きを持って堂々としていたい。冷静に物事を見たい。そして人に頼って頼られたい。

 それなのに今の私は小さい頃のまんま大泣きしている。大人になれば泣くことを制御できるようになると信じてた。まだゲップやおならの方が耐えられる。涙はもう止まらない。

「情けないぃ…あたしは、いつも…」

 いつか変わりたい。

 いわちゃんはずっと私の背中をゆっくりさすり続けた。摩擦で体がほてってきた。

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