2 樹海の森の婆様
俺たちが婆様を訪ねたのは、二カ月近く前の二月の初旬だった。
なにしろその婆様の実在すら定かではなく、場所も全くわからない。ただ与えられた情報は樹海の中に住んでいるということと、俺の並行世界の記憶だけだ。
運転している杉本君はじめみんなは、まるで樹海の中の道なき道を草をかき分け進んで行ったところにぽつんと建っている一軒の小屋にその老婆は住んでいるというような場面を想像しているようだ。
だが、俺の薄れかけていた並行世界記憶では決してそのような状況ではなく、たしかその老婆の住む家はちょっとした集落の中にあり、庭まで車で乗り入れられたはずだ。
高速を降りてから俺たちは、とりあえずは樹海に沿って伸びる国道を西へと走ってみることにした。
しばらくは観光地っぽい町を抜ける。
左手では建物の影に見え隠れしながらまだ全身冠雪している富士山が、どこまでも俺たちを追ってきた。富士山から離れるでも近づくでもなく、道はずっと同じ距離を保っているようだ。
やがて左右に森が続くようになった。特に左側の森の方がどこにでもある木々の群生というのとは明らかに違う感じだったが、走っている車の中からではあまりよく観察できない。
しばらく行くとその左側に広い駐車スペースが見えて、観光バスがほんの数台だけ停まっていたりする。
看板を見ると「風穴」とか書いてある。ここは国立公園の中のようだ。
今は観光シーズンではないようだけど、夏とかなら今はがら空きの駐車場いっぱいに観光バスや車が駐車していることだろう。
そのあとはほとんど民家もその他の観光施設の建物もなくなり、道は森の中を時々カーブしながら続く。その森の木々で、もはや富士山は見えなくなっていた。
時々ある標識では右の方に湖があるようだが、ここからは湖など全く見えない。
左右の森はどこまで行っても途切れることなく続き、まさしく今は樹海の中を走っていると思う。だけれど、結構車も走っている国道なので、そんな大森林の中という感覚はいま一つ湧かない。
しばらく行って道が左に大きくカーブしたころに一気に視界が開け、道は高架線となった。
右はわずかな丘陵地帯だが、左手には樹海を上から眺める形となった。樹海といっても決して平面ではなく、かなり起伏があることも知った。その小高い緑の丘の上に、久しぶりに富士山が少し顔をのぞかせた。
だがやがてまた国道は森の中に戻り、またしばらく走ると、左に折れる道があった。
車がすれ違えるくらいの細い道が、樹海の森の中に続く。高速を降りてから二十分ほどだった。
「ここだ!」
俺は思わず声を挙げていた。
「この道、左!」
「いや、無理です」
ハンドルを握る杉本君は。そう言いながらも少し減速した。後続の車はない。
「そんな急に言ったって曲がれるはずないじゃない」
後部シートの俺の隣にいるチャコが穏やかに言った。
「どこかでUターンして戻りましょう」
杉本君が言っているうちに、すぐに信号があってまた左へ折れる道があった。彼はそこに車を入れてUターンするつもりのようだった。
「いや、この道でもいいです」
俺は思わず言っていた。知っていたわけではない。なぜか不意に口をついて出たのだ。
そもそも、先ほどの道を左と言ったのも、完全に風景を思い出したわけでも記憶を取り戻したわけでもなく、気が付いたら言っていたという感じだ。
やがてすぐに集落があった。
「あ、樹海の中の村!」
助手席の美貴が叫んだ。確かにそうだ。
「ええ? 森の中を延々と歩いてぽつんと建ってるような家に住んでいるお婆さんだと思ってたんだけど私」
チャコの言葉は、やはり俺が思った通りだった。
樹海の中の村であることは間違いないけれど、国道を折れてほんの百五十メートルくらいだ。車なら一分もかからない。
そこにあったのはきれいな長方形で、たしかに周りはすべて密林だけれど普通の近代的な住宅街であった。道は周囲と中央に十字にアスファルトの道が走っている。
「こっち、こっち」
俺はいつの間に、無意識が沸き上がって誘導していた。五ヶ月ほど前に異世界で見せられた並行世界で風景というあいまいな記憶で誘導していることになるけれど、信じられないくらい的確な誘導だと自分でも感じていた。
やがて一軒の家の庭に、俺は車を入れるように言った。
杉本君は少しためらっているようだったけれど、俺に言われるとおりに一軒の家の庭に車を入れてエンジンを切った。
かなり朝早くアパートを出て、チャコや美貴の住む町の駅で集合してそこから杉本君の車で、途中の休憩も含めて約二時間弱。
まだお昼前だった。
俺はすぐに車を降りた。
庭と、わりと大きい二階建ての家を眺めると、ものすごいデジャヴが襲ってきた。ここで間違いないと確信できた。
すると、すぐに家の中から中年のおじさんが出てきた。
「あのう、どちらさんで?」
たしかにこの家の人からすると、見ず知らずの若者グループが何のアポもなく、突然庭に車を乗り入れてきたのだ。不審に思って当たり前だ。
でも俺たちも、どちらさんと聞かれても何と答えていいかわからない。
「あのう、その実は……」
俺はしどろもどろするしかなかった。おじさんはますます不審そうな顔をする。
下手したら警察を呼ばれかねない。
「あのう……この家にお婆様がいらっしゃいませんか?」
「ああ、いるけど」
おじさんの不審そうな顔は消えなかった。
その時、家の中からおばさんって感じの女の人が顔を出して、おじさんを呼んだ。奥さんかなと思う。
「婆様が呼んでる」
おじさんは自分の奥さんと俺たちを交互に見て困惑していた。俺たちをここにおいて家の中に入るのが不安なのだろう。
「聞いてきてくれ」
そう自分の奥さんに言いつけ、すぐに出てきた奥さんは俺たちをも意識しながら大きな声で言った。
「婆様が、今来られた山下さんや朝倉さんたちに家に入ってもらいなさいって。で、婆様のところに連れてきてって」
おじさんはそれで納得したような顔をしていたけれど、驚いたのは俺たちだ。
全くアポなしで来たのだし、しかも婆様にとって俺たちは初対面の見ず知らずの人のはずである。それが俺たちの来訪を知っていたどころか、なんと俺たちの名前まで知っていた。
「あんたたち、山下さんと朝倉さん?」
確かめるようにおじさんが言う。
「自分、山下です」
俺が名乗る。
「うちの婆さんと何か約束でも?」
「あ、はい」
そんなものないのだけど、とにかく場をつくろうためにそういうことにしておいた。
俺たちはすぐに玄関から中へと案内され、古い作りの民家の廊下を奥さんに案内されて進み、一つのドアの前に来た。
「婆様、連れてきとう」
奥さんがドアを開けた。そのドアの向こうから、おびただしい光が発せられた……と俺は感じた。
いや、俺だけではない。チャコも美貴も杉本君も、一瞬だけまぶしそうに目を細めた。
部屋の中には車いすに座った優しそうな老婆が一人、にこにこしてこっちを見ていた。
「山下康生さん、朝倉由紀乃さん、杉本大輝さん、幸野美貴さん。よう来られた。待っておっとう」
俺たちはもう唖然として、言葉がなかった。だが俺はものすごく懐かしさが込み上げて、知らず知らずのうちに涙がこぼれていた。
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