第5部 農業バイト
1 本当の田舎
下宿のアパートに戻った翌日は、何もしないでごろごろと体を休めていた。久しぶりの故郷に帰って心は休めたけれど、むしろこの独り暮らしの下宿の方が体は休まる。
でも、一人の部屋で天井を見ていると、なんだかものすごく寂しく感じたりもする。
だから俺は、この数日の間に集中している不思議な出会いを思い出していた。
幸野美貴、天使ケルブの藤村結衣、鎌田聖香の中学時代の友人の竹本ひろみと筒井美穂、そして鷲尾葵の彼氏の杉本……共通点はみんな初対面なのに不思議な既視感があったことと、不思議なバッジを持っていること……。
偶然では済まされないと思う。
ただ、その意味を知っているのはどうもケルブだけのようだ。
ただ、いつまでもごろごろしてはいられない。
翌日にはバイトのため信州に行く。見つけたのは短期農業バイトで、農家に泊込んで農繁期の作物の収穫と出荷を手伝うという夏休みだけの期間限定だ。大学のアルバイト情報ネットワーク事務局の求人情報提供サイト「アルバイト紹介システム」で見つけた。
場所は長野県の高原。主にキュウリとトマトの収穫、出荷だそうだ。採用の面接は電話でだけだった。
そのバイトに、明日出発する。
今回はさすがに新幹線を使わざるを得ない。昔は信州まで行けたという在来線が今では途中でなくなっており、意地でも新幹線を使わないのなら途切れている区間をバスで移動しなければならず面倒だ。
かつてはその部分はかなりの急勾配の峠で、特急電車でも前に電気機関車が二台ついて牽引して登ったそうだ。その峠道の部分をバスで行くのは、やはりかなりめんどくさいし時間もかかる。
今は新幹線がトンネルでくぐり向ける。
翌日、よく晴れた暑い日、俺はわずかな荷物だけで信州を目指した。その峠道のトンネルの中はまるで離陸直後の飛行機のように明らかに傾いてトンネル内を駆け昇るのには驚いた。トンネルの入り口と出口ではかなりの高低差があるようだ。
そのトンネルを抜けたら、景色が一変した。
もうそこは信州で、なだらかな高原が果てしなく広がっている。右手には高くそびえる火山がわずかながら煙を吐き、どこまでも俺が乗る新幹線を追いかけてきた。
すぐに避暑地で有名なリゾートの駅に着き、かなりの乗客がここで降りた。
俺も降りる。別にリゾートで観光するためではなく、ここで乗り換えなのだ。
原宿が引っ越してきたようなリゾート駅の改札に向かう人の群れに逆らい、俺は乗り換え用の改札を通って在来線に乗り込んだ。在来線とはいってもたしかに昔は東京から直通で延びていたJRだったそうだが今ではJRではなく、この駅が始点の第三セクターの私鉄である。
列車が発車すると窓の右手は建物や小さな山に時々隠れながらも、例の煙吐く山はまだずっと追ってくる。
私鉄とはいってもやはり昔はJRだった面影が残っていて、駅も車両もJRのものと変わらなかった。
そして三十分弱の乗車時間の五つ目の駅が、俺が降りる駅だった。
駅の周辺は、おとといまでいた俺の故郷と似ている。かなり落ち着いた静かな地方の町だ。駅の前は広場となっていて、タクシープールの脇には石像と松の木や置石などがあった。
右側の少し広い道は緩やかなスロープとなってまっすぐ昇っていく。
駅の正面は一階に食堂やそば屋などが入った三階建ての古いビルが並び、その広場の左サイドに指定されたバスに乗るバス停があった。
バスに乗って十分も行くと、バスはどんどん緑一色の森の中の田舎道へと入っていった。古い県道を走ってから急に左折し、バスはスロープをどんどん昇っていく。道はかなりカーブも多く、高原野菜の畑と森林が交互に道の両脇に現れた。
指定されたバス停に着く頃は、乗客はほとんどいなくなった。そのバス停で降りると、そこは何もない林の中の道だった。
そこに着いたら電話するように言われている。俺はスマホで、その農家に電話した。すぐに迎えに来るとのことだ。
待つこと十分くらいで、軽トラックが走って来た。
「山下君かい?」
運転席からのぞいた白髪頭の五十代くらいのおじさんが、俺を呼んだ。
「どうぞ、乗って」
俺は軽トラの助手席に乗り込んだ。
「いやあ、はるばるご苦労さん」
「よろしくお願いします」
軽トラは木々の間を縫って続く細い林道を延々と走る。
「こんな山道なのに、起伏が全然ねえべ」
「はい」
たしかにそうだ
「この道は標高千メートルのラインを縫って走ってっから、高低はねえだよ」
人のよさそうなおじさんだ。
「バスはさっきのバス停までしか来てねえ。この道を歩いたら四十分くらいはかかるかねえ」
おじさんはそう言って笑ったが、車だと大体十分くらいで広い畑の近くにさしかかった。雄大な眺めだ。畑は全体的に傾斜していて、その傾斜の上に煙を吐く山がそびえているのが見えた。
軽トラが右に曲がると、林の中に一軒家の農家があった。車はその広い庭に入る。そこが目的地らしい。
庭には作業場のようなところがある。周りに民家は全くなかった。建物自体はそれほど古くはないようで、山小屋か高原の別荘のような造りになっている。いわゆる「農家」のイメージとはかなり違っていた。
それにしても本当にほかに民家がない。これが本当の田舎だと実感した。俺の故郷も田舎だ、田舎だと思っていたけれど、ここに比べたら田舎のうちに入らないかもしれない。
「とりあえず休んで。あとでみんなに紹介するし。作業は明日からでいいから、今日はその説明だべな」
そう言っておじさんは笑い、俺を家の中へと案内してくれた。
玄関を入って靴を脱いで上がるとそこはロビーのようになっていて、まずは荷物を持ったまま右手の部屋に通された。中も農家の民家というふうではなく、どう見ても洋風のロッジかペンションだ。
通された部屋は長いテーブルが並び、食堂兼集会所みたいな感じだった。
すでに二人ほど若者がいて、俺が入ってくるの見ると二人とも立ち上がった。
「「こんにちは」」
笑顔でやけに明るく挨拶をしてくるので、俺も同じようにした。
「これで全員揃ったんで、五分後に説明を始めるべ」
おじさんはそれだけ言うと、部屋を出て行った。
先に来ていた二人の若い男性はテーブルに並んで座っていて、俺はその向かい側に座る形となった。
説明が始まるまで五分ということだが、俺はとりあえずトイレに行きたかった。
「トイレは……」
俺が独り言でつぶやいたのを、先に座っていた若者が聞きつけて、そのうち一人が声をかけてきてくれた。
「お手洗いはそのドアを出て右ですよ」
「ああ、ありがとう」
用を足して戻ってくると、俺はまた同じ位置に座った。さっきの若者がすぐにまた、声をかけてくる。
「大学生ですよね」
「はい」
「初めてですね」
「てことは、もう何回か?」
「僕はさっきのおじさんの甥っ子なんで、毎年来てます。今、高校三年ですけど、同じ県内です。こっちは僕の高校のクラスメイトで、こいつは初めて」
なるほど、それで勝手知っているという感じなのかと思う。先ほどのおじさんの甥っ子とその友達の男子高校生だったのだ。
「仕事、きついのかなあ?」
俺は気になっていたことを聞いてみた。
「いや、楽しいですよ。肉体的にはちょっと重労働もありますけれど、心のリフレッシュにはなります」
たしかにこの大自然の中で働くのは、精神的にはいいことかもしれない。
そのうち、おじさんが戻ってきた。
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