5 J値

 夏休みの日々、俺は毎日特にやることもないのでぶらぶらとしていた。

 やはり都会は暑い。エアコンがなかったらとっくに倒れている。そんな部屋で昼頃まで寝て、ネットやってゲームやってテレビ見て、それで一日が終わる。ただ昨日と同じ今日の繰り返しって感じの日常だ。特別なことは何も起きない。

 大型同人誌即売会までまだ数日あって、それまでとにかく暇だ。

 バイトするにも中途半端なので、同人誌即売会の後に一度帰省して、早々に切り上げて戻ってきてからゆっくりバイトは探そうと思う。

 そのあとも夏休みは長い。はじまったのが遅い分だけ終わるのも遅く、九月いっぱい夏休みだ。まるまる二カ月はある。

 去年の今ごろは「夏休みは受験生の天王山」とか言われて、すべてを犠牲にして邁進していたころだ。

 そして手に入れたのがこのだらだらした生活だった。


 ふと、佐久間たちとあのレストランでの会話を思い出す。

 俺は別に恋愛を避けているわけではなく、人並みに関心はある。彼女もほしいと思う。でも彼女いない歴十八年。

 それでもかわいい女の子には胸がキュンとなる。だけど俺の場合、三次元アイドルに特に推しとかもいなくて、胸がときめくのはたいてい二次元キャラだ。

 だからチャコも、やはりどう考えてもそういった対象ではない。でも何か、そんな恋愛とかの次元ではなくて、もっと高次元での魂の結びつきを感じる。


 そんな時、スマホが震えた。

 知らない番号だったけど、出てみるとあの研究所の篠原さんだった。


「山下さんですね」


「はい」


「先日は研究のご協力、ありがとうございました」


「あ、いえ」


「それで、実はですね」


 ん? 急になんかものが引っ掛かったようなトーン。俺は身構える。


「突然で申し訳ないんですけど、もう一度だけ実験にご協力いただけませんか?」


「何かあったんですか?」


 うまくデータが取れなかったのだろうか?


「実は結果が出たのですけれど、その結果が山下さんの場合はもう一度念のためにデータを取りたいんですよ。もちろん、もう一度謝礼はします。同額で」


「僕の場合? ってことは、ほかのみんなは……?」


「いえ、結果の数値的にもう一度お願いしたいのは山下さんと、あともう一人朝倉さんっていう女性の方だけなんですけど」


 俺とチャコだけ……? 

 篠原さんが指定したのは明日だ。

 もう一度チャコと行ける、しかも今度は二人だけ。そしてまた一万円もらえる。暇ならば腐るほどある。俺は喜んで返事をした。

 それから俺はさっそくチャコに電話しようと思った。でもあまりすぐに電話すると、チャコも篠原さんと話している最中かもしれないので、少し間をおいてからスマホをタップした。

 たしかに、同じような内容の電話が篠原さんからあったという。

 チャコも行くと言うので、明日の約束をさっそくチャコとした。

 指定された午後二時の三十分前の一時半に大学構内のバス停で、バスに乗ってくるチャコを待つことになった。バスは十分おきくらいには来るはずだ。


「わざわざ大変じゃない? 定期あるの?」


「うん。六カ月定期買ったから、むしろ使わないと損」


 そんなことを言ってチャコは笑っていた。


 翌日、待ち合わせの十分前にチャコは歩いて正門を入ってきた。


「門の中が終点の直通バスだと、遅刻しそうだったから」


 チャコはそう言い訳をしていたけれど、たしかにもっと遠くの方まで行くバスの大学前のバス停は正門の外の六十メートルほど先の所である。


「じゃあ、そっちのバス停で待ち合わせでよかったかなあ」


 結局、チャコが降りたバス停の方まで歩いて、そこを通り過ぎていく形になる。なにしろチャリ通の俺はバス停事情はよく分からないのだ。


 そして横断歩道を渡って、研究所へと向かった。


「ああ、申し訳ないです」


 篠原さんは俺たち二人をテーブルに招き、冷たい麦茶を出してくれた。


「実はですね」


 篠原さんも座って話しだす。


「この間実験してもらったパワーをかけたきゅうりと何もしていないキュウリを一緒にバイオフォトン測定器に入れてキュウリの発光を調べて、それぞれのサンプルの発光強度の自然対数、これをJ値っていうんですけど、それがベテランのヒーラーで0.16くらい、全く未経験の人だと0から0.07ほどなんです」


「はあ」


 そんな専門用語や数値を言われても、何が何だかわからない。そもそも共通テストの生物基礎でも生物でもバイオ・フォトンなんて出なかったし、高校の授業でもやっていない。


「ところでお二人の場合は、山下さんが0.287、朝倉さんが0.286でほぼ同じなんです、で、お二人とも失礼ですが本当に全くの初心者ですか?」


 俺はチャコと顔を見合わせてから、篠原さんを見て二人でうなずいた。篠原さんは首をかしげた。


「本当に今まで、このハンドパワーのヒーリングとかしたことないんですか?」


「はい。全く初めてです」


「私も初めてです」


 篠原さんはため息をついていた。


「そこで、今日お越しいただいたのは、この数値が機械のパグではないことを確認するためで、申し訳ないですけれどもう一度実験に協力してもらえませんか?」


「いいですけど、僕たちと一緒に来たほかの仲間の数値は?」


「まあ、普通の初心者並みの数値でした」


 つまり0.07台ということだ。


「ほかには別の日に実験してくれた幸野さんという女性の方が、この方も学生さんでしたけれど、初心者だというのにお二人と同じくらいの数値だったんですよ。その方にもこの後に二度目の実験をお願いしてるんですけど」


 篠原さんはそんなことを言いながら、この間と同じようにキュウリの準備をするために立った。今日は篠原さん一人ではなく、若い研究員という感じの男性と女性が一人ずついた。


 それから俺とチャコはまた三十分、前回と同じようにキュウリにパワーをかけた。


 帰り道、俺はとぼとぼ歩きながら、チャコと話していた。


「なんでだろうね。なんで俺たちだけ?」


「さあ、なんでかな。私も自分にあんなパワーがあるなんて思ってもみなかったし」


「これってもしかして超能力? だったらすごくね?」


 通りを横断する横断歩道を渡った。


「そうかも。ってか、もしかして魔法だったりして」


 チャコは横断歩道を渡りながら俺の方を見てクスッと笑った。その笑顔に、実際よく笑う女の子だけにもう見慣れているはずの笑顔に、その時だけは何か矢に射抜かれたような気がした。

 でもまた心は平静を取り戻す。一瞬だけでもそんな気になったのは、佐久間たちがはやしたてたせいで変な意識をしてしまったからだと、自分を納得させていた。

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