5-4


 当然のことにみょうふんになった。彼女はうつむきつづけ、僕は意味もなくうなずいていた。きちんと理解できていないものの要約するとこういうことになるのだろう。


 ・彼女の力はいまだ完全ではない

 ・その力はセックスすることで完全になる

 ・そして、その「きっかけ」が訪れた


 より重要なのは、その「きっかけ」にある。ぶんみゃくから読み取ると(読み取りたくなんてなかったけど)、それは僕によってもたらされたのだろう。すくなくとも彼女はそう考えてるようだ。


「あのさ、」


 僕は料理に手をつけた。パスタの表面は乾いてる。それをもそもそとふくみながら目だけあげていた。


「うん、あのさ、一般論として訊くんだけど、」


 そう言ってから、一般論? と思った。この話に一般化できることなんてあるのか?


「いや、一般論ってのはおかしいかもしれないけど、互いにその当事者じゃないという立場から話してみよう。――ええと、そういった力を持つ人はそれがどういうきっかけであれ、つうれいてきなものを経験することで能力を完全にできる。そういうことでいいんだよな?」


「は、はい。い、い、一般的に、い、いえば、そ、そういうことで、い、いいと思います。ど、どういう、きっ、きっ、きっかけであれ」


 彼女はうなずいてる。この流れに乗ってくれたわけだ。ただ、「きっ、きっ、きっかけ」と言ったとき顔は赤くなった。僕はうんざりした。これじゃいんを使ってるのと変わらないじゃないか。


「それで、そのきっかけは他者を通じてもたらされるっていうんだろ? その他者ってのは特定の人物じゃなきゃならないのか? これは誰でもよかったりはしないのかって意味で訊いてるんだけど」


「そ、それは、よ、よくわからないんです。ただ、は、母がそう、い、い、言ってるだけで。で、でも、は、母もそうだったと、い、言ってます。も、も、もともと、そ、祖母が、そ、そういう力を、も、持っていたんです。ア、ア、アゼルバイジャン人の、そ、祖母です。そ、祖母だけでなく、わ、私の家に、う、生まれる女の子は、だ、だいたい、そ、そ、その力を持って、い、いるんです。こ、こ、子供の頃は、か、感じるだけなんですけど、そ、その力は、せ、成長するに、し、したがって、つ、つ、強まっていきます」


 そう言ってる間もほほは色を濃くしていった。僕は目を細めた。


「は、母の話と、い、いうだけですが、そ、その、は、母も、わ、私と変わらないくらいの、と、年のときに、ち、父に出会ったんです。だ、誰でも、い、いいのかは、わ、わかりません。で、で、でも、ち、父は、そ、その当時、ひ、ひどい状態に、あ、あったようです。は、母は、そ、そのことに、き、き、気づきました。そ、そのときの、ち、力を超えて、き、危機的状況が、わ、わかったんです。た、ただ、ち、父は、は、はじめのうち、そ、それを、し、信じなかったそうです。し、しかし、じょ、状況がもっと、わ、わ、悪くなると、は、母を、た、頼らざるを得なく、な、な、なったんです。そ、そ、そして、」


 僕は手を挙げた。自然と溜息がれ出てくる。


「どこかで聴いた話に思えてきたな」


「わ、私も、そ、そう思います」


「それで、君のご両親は、――ま、君が生まれたってことはそういうことだよな。それで君のお母さんは力を完全なものにできたわけだ。そのためにそうしたってわけじゃないよな?」


「ま、まさか。は、母は、ち、父を、あ、あ、愛してました。そ、その、き、き、きっかけがなにであれ、――い、いえ、こ、これは、さ、さっき、い、言っていた、きっ、きっ、きっかけでは、な、なく、」


「わかるよ。当然わかる」


「あっ、ありがとう、ご、ございます。と、と、とにかく、そ、その、き、き、きっかけが、な、なんであれ、は、母は、ち、父のことを、は、はじめから、あ、あ、愛していたんです。め、巡りあわせが、あ、あったということです。ち、父も母によって、す、救われ、は、母は父によって、ち、力を、か、完全なものに、で、できた。は、母はそれを、や、や、約束されたことだったと、い、言っています。そ、そうなることが、き、決まって、い、いたのだと」


 最後の部分を強調するように口は閉じられた。瞳は動かない。どのような変化も見逃さないといった具合にだ。


「仮に、君のお父さんがそういう選択をしなかったらどうなってたと思う?」


「か、考えたくは、あ、ありませんが、さ、さ、最悪な、じ、事態になっていたかも、し、しれません。そ、それは、ち、父にとってと、い、いうだけでは、あ、ありません。は、母にとってもです。ち、力がどうとかでも、な、ないんです。だ、だって、は、母は、ち、父を、あ、あ、愛して、い、いたんですもの」


「なるほど」


 僕はそうとしか言えなかった。ある部分においてはきょうはくにも似てる。今のは彼女の両親のことであり、僕と彼女の話でもあるのだから。――いや、ちょっと待ってくれ。どうしてそうなるんだ? 僕はぬるくなったビールを飲み干した。これ以上この話をつづける気になれなかったのだ。





 会計を済ませ(レアなカードの再登場というわけだ)、僕たちは地上まで降りた。雨はまだやんでいない。


「あっ、あっ、あの、に、荷物が、お、多いので、わ、私は、タ、タクシーで帰ろうかと」


「ま、そんな荷物じゃそうするしかないだろう。――っと、こっちだ。ほれ、あそこから乗れる」


「あっ、ありがとう、ごっ、ございます。そ、その、とっ、とっ、途中まで、い、い、一緒に、の、乗って、い、いきませんか?」


「いや、大丈夫だ。ここからは近いからね」


「そ、そうですか。あっ、あの、ほ、本日は、い、いろいろと、あ、ありがとう、ごっ、ございました」


「いいよ、そんなの。それに元はといえば昨日の礼だ。ま、美味いもんも食わせてもらったしね。――ほら、早く乗れよ。あとがつかえはじめた」


 ふっと首をあげ、彼女は顔を寄せてきた。街灯の明かりに雨は輝いてみえる。


「お、お家に、も、戻ったら、か、か、肩を、み、見てください。ひ、左肩です」


「は?」


「で、でも、だ、だ、大丈夫です。お、怖れることは、あ、ありません。さ、佐々木さんは、ま、ま、守られています。わ、私が、ま、守ってみせます」


 その瞬間にドアは閉まった。





 あらかた片づけの済んだ部屋に入って、まずしたのは洗面台の前に立つことだった。それから思い直し、テレビをつけた。にぎやかさを演出したのだ。その上でワイシャツを脱ぎ、アンダーシャツをめくった。


「かんべんしてくれよ」


 僕はそうつぶやくことになった。左肩には後ろから手をかけられたようなあとがついている。赤黒くにごったあざみたいなものだ。「怖れることはない」なんて言われたって、これは怖いだろう。


 スマホを取り出し、僕は暗い画面を見つめた。――いや、説明を求めでもしたらドツボにまりそうな気がする。解明できても、そのだいしょうが大きすぎるのだ。


 守られてるはずだ。僕はそう思うことにした。しゅれいさまってのもいるのだし、今すぐ最悪な事態にはならないだろう。そう考えてる時点であの女のしゅちゅうに落ちこんでるように思えたけど、これは僕にとってかんかつがいの出来事なのだ。


 半目を開けたまま髪を洗い、歯をみがくときも鏡の前に立たないようにして僕は恐怖をやり過ごした。どうしようもなくなったら電話をかけりゃいい。母親であり、『先生』でもある人物だっているんだし。そう考えながら明るい部屋でテレビの声を聞きつつ眠りについた。

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