5-2
営業先を出たのは六時過ぎだった。人混みをすり抜けるようにしてると雨が落ちてきた。
僕は信号待ちの間に電話をかけた。――出なけりゃいいけどな。ログは残る。だけど、出なかった。そうなればいいのだ。しかし、かけた瞬間に
「あっ、あっ、あの、」
「早いな」
「はっ、はい。ず、ずっと、ま、ま、待ってましたので」
「それで、どこにいるんだ?」
「そ、そ、それが、わ、わからないんです」
「わからない?」
「は、はい。い、い、池袋って、あ、あまり、こ、来ないもので。で、でも、た、沢山、ひ、人がいるところに、い、います」
そりゃそうだろうよ。信号が変わり、
「駅の中でしょ? 東の方? それとも西?」
「そ、それも、わ、わからないんです。ジェ、JRの、か、改札を出て、ひ、ひ、人に、お、押されるように、あ、歩いてたら、ど、どこにいるか、わ、わからなくなりました」
「じゃあ、周囲を見まわして。なにか書いてあったりするだろ。目につくのを言ってみて」
「え、ええと、――あっ、せ、せ、西武線って、か、書いてあるのが、みっ、見えます」
「わかった。じゃ、そのまま西武線の入口に向かって。その方が見つけやすいから。近くに行ったら電話するよ。わかった?」
「はっ、はい。あ、あ、ありがとう、ごっ、ございます」
雨はすこし強くなってきた。それに打たれながら僕は溜息をついた。
改札に近づくと居所はすぐにわかった。目印になりやすい背の高さをしているとこうなるものだ。
「き、き、来て、く、くださったんですね」
「まあね」
緊張した
これでそれなりの格好をしたら、まあまあは見られるかもしれない。いや、なに考えてんだ? きっと会社から遠く離れた場所で無関係な人たちの中にいるからそう思えたんだ。そうに違いない。
「さっさと行こう。そうだな、こっからだと西武に行った方がいいだろ」
「はっ、はい。おっ、お任せします。あっ、あの、ほっ、本日は、よ、よ、よろしく、おっ、お願い、い、いたします」
書類がぎっしり
「なにしてんだよ。なんでちゃんと見ない」
「だ、だって、きょ、今日は、さ、佐々木さんが、え、え、選んで、く、くださるって、い、言うから」
「は? ほんとに僕が選ぶのか? 全部? こういうのって、たいていそっちが『これどう思う?』とか言ってくるもんじゃないか?」
「そ、そ、そうなんですか? し、知らなかったです」
いや、知ってる知らないの話じゃなくってさ。僕は周囲を見渡した。――うん、こんなことに時間を使うのは馬鹿げてる。さっさと決めさせて早く終わりにしよう。
「じゃ、とにかく店に入ろう。そうしないことには始まらない。ってことは終わらないわけだからな。ほれ、とりあえずここにするぞ」
僕だって一周まわってる間になにもしてなかったわけじゃない。この女が着ても差し支えなさそうな服はチェックしておいた。ここに入るのか? 入らないのかよと何度も思っていたのだ。
「これは? こういうのがいいんじゃないか?」
「そ、そうですか? だ、だけど、ちょっ、ちょっと、ま、前が、あ、あ、開きすぎてるように、お、思えるんですけど」
「そうでもないよ。会社に着ていってもおかしくないくらいだ。こんなの着てるのはたくさんいるだろ?」
「そ、そうですけど。――ううん、で、でも、わ、私には、あ、あまり、に、似合わなさそうに、お、思えます」
店員は
「ま、とにかく着てみなよ。それから決めりゃいい。――ね、店員さんもそう思うでしょ?」
「え? は、はい! きっとお似合いだと思いますよ。それにお仕事に着ていかれても大丈夫なものですし」
「ほら、店員さんもこう言ってる。試着させてもらえよ」
「わ、わかりました。じゃ、じゃあ、ちょっ、ちょっとだけ、い、いいですか?」
ちょっとだけいいですかってなんだよ。そう思いつつ僕は溜息をついた。手は
「あら! まあ! よくお似合いで!」
「え、ええと、そ、そ、そうでしょうか?」
「はい、お似合いですよ! 背が高くていらっしゃるからでしょうね。まるで
接客がお上手なことで。そう思いながら僕は目を細めた。確かにぴったり合っている。それに身体のラインが強調され、胸が意外にあるのもわかった。華奢なわりにはけっこうな大きさだ。
「あっ、あの、」
「え?」
「ど、ど、どうでしょう? あっ、あの、に、似合ってるんでしょうか?」
「ん? ああ、びっくりした。そこまで似合うとは思わなかったからさ」
「あっ、ありがとう、ごっ、ございます」
店員はちょっとばかり
「そうそう、それに合うカーディガンがあるんです。こちらもお仕事に着ていかれて大丈夫なものですよ」
「じゃ、じゃあ、そっ、それも、お、お、お願いします」
「では、ちょっと腕を広げていただいて、――まあ、すごい! すごくお似合いです!」
それを
「あとは靴だな。ちょっとはヒールがあった方がいいよ。――ここって靴も置いてあります?」
「ええ! ええ! ございますとも!」
ごく個人的な趣味によって僕はピンヒールのエレガントな靴を
「まあ! ほんとにモデルさんみたい!」
「あっ、あの、そっ、その、」
そう
「さ、佐々木さん、ど、ど、どうでしょう? こっ、こっ、これで、い、い、いいんでしょうか?」
「うん。いいっていうか、
「ほ、ほ、ほんとですか? じゃ、じゃあ、こ、これ、ぜ、全部、か、か、買います」
「え? 全部? それ全部買うの?」
「え、ええ。だ、だって、さ、佐々木さんが、い、い、いいって、お、
最後の部分は店員に向かって言ったものだ。言われた方はきょとんとしてる。「ご相談」ってなに? とでも思っているのだろう。
「は、はい。なんでございましょう?」
「あっ、あの、こ、これ、ぜ、全部、こ、ここで、き、着替えていっても、い、い、いいですか?」
しばしの
「ええ! ええ! もちろんです! では、タグを取っちゃいましょうね。ええと、その前にお会計を――」
「あ、は、はい。で、では、こ、これで、」
財布からは見たことがない色のカードが出てきた。きっとプラチナよりも上のものに違いない。そんなふうに考えながら僕は
それからも何店かまわり、似たようなことをした。当然のことに紙袋は増えていき、僕は幾つかを持ってやった。どうしたってそうせざるを得ないだろう。
「あっ、あっ、あの、ほ、ほ、本日は、ほ、本当に、あ、ありがとう、ごっ、ございました。つ、つ、つきましては、ゆ、夕食を、ご、ご
「いいよ。これはいわば昨日の礼だ。気をつかわなくたっていい」
顔をしかめながら僕はこたえた。「つきましては」という
「で、でも、そ、そ、それじゃ、わ、私の、き、気が収まりません。こ、こ、こういうとこって、う、う、上の方に、レ、レ、レストランが、あ、あるはずですよね?」
「まあ、あるだろうね」
言いかけてるうちに彼女はエスカレーターへ向かっていった。満足そうな表情を浮かべてる。と思ったら、視線は左肩に向けられていた。僕は溜息をついた。あまり気にしてなかったけど(それ以外に気になることがたくさんあったからだ)、この女にはけっこう強引なところがある。今日だってそうだもんな。
そして、そう考えてると気になることがいろいろ出てきた。僕は彼女のことを知ってるようで、ほぼ知らないのだ。
だいいち年齢もわからない。アゼルバイジャン人
それ以外のことは知らないし、知らない部分は謎だらけに思えた。『先生』と呼ぶ女と同居してるのか? というのも謎のひとつだ。いろんなものが見えるというのだってどういうことかわからない。そもそも、それは本当のことなのか?
いや、これまでのことを思えば信じられなくもない。なにしろ僕は
「なあ、肩を見つめるのはやめてくれないか。なんかぞわぞわするだろ」
「あっ、す、す、すみません」
いつものように彼女は頭を下げた。紙袋は
「あっ、もっ、もっ、申し訳、ごっ、ございません」
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