八章五話
その日からさほど時を経ずに戦が始まった。親久以外の誰もが望んでいなかった戦が、始まってしまった。
牙月とフラッゼを敵に回した戦など勝ち目がないことは目に見えていた。人が死に、山が燃え、海が血で赤く染まった。川には死体が流れて病が流行った。敵勢力に上陸されて数週間で、美しかった島々は地獄絵図になった。
真奏は以前と変わらず雲井城にいたが、戦の情報はひっきりなしに入ってくる。広げた地図の上で駒を動かして戦況を整理していた真奏は、ある日突然一通の書状を六条に送った。その文面は相良親久に対する謀反を促すものであったが、状況の逼迫によってまともに書状の中身が改められることはない。
「何故斯様なことをなさいます? 知られれば無事では済まされませぬぞ」
「燃えた山で獣は育たぬ。死体の浮いた川で魚は泳がぬ。このままでは戦が終わっても荒れた土地のせいで人が死ぬ。この戦は、いかなる手を使ってでもいち早く止めねばならない」
彼女はそう言って屋敷の庭に出る。雨雲を背景にそびえ立つ城の天守閣を、無言で黒い瞳が捉えていた。
真奏はそのうち、前線で将兵の治療を指揮するように命じられた。助けようとしても片っ端から死んだ。見ただけで助からないと分かる者もいた。
さらに追い詰められると親久は真奏に兵を率いろと命じた。以前、彼女が軍略書を読んでいたことを親久は知っていた。
真奏は渓谷に追い込んだ敵兵に油をかけて焼いた。その次は砂浜の迎撃戦で敵兵を罠に追い込んで溺死させた。奪った馬は軍馬にし、一部は食べた。しかしそんな反撃は梨のつぶてだった。圧倒的な兵力は地形も罠も無効化する。敵兵が死んでもすぐに補充戦力が送られてきた。既に制圧された土地を拠点として整備し、彼らは戦略を立て直し、本国と連絡を取った。船も砦もほとんどが燃えた。最早どうにもならないところまで追い込まれてもなお、親久は戦うのを止めなかった。正確な判断を下すための思考力を、彼は既に失っていた。
数日後、真奏は本陣にて親久の首を奪った。
正確に言えば真奏の指示を受けた赤穂の弓箭隊が親久と側近を射殺し、六条の家臣団が生き残りにとどめを刺し、河野が瀕死の親久の首を落とした。持ってこさせていた首桶に首を収めた真奏は、その首を持って牙月の男達と相対する覚悟を決めていた。そこにいたのは冷徹な目つきの女だった。いつかの好奇心旺盛かつ天衣無縫な少女の面影は、一寸たりとも残っていない。
残った胴体の方を処理する間、真奏はその場で指示を出した。傷病者の治療、死体の回収、処理、衛生状態の回復を何よりも優先しろと言い置いた。所領を持つ者には食糧の備蓄を計画的に使うよう指示を与え、河野、六条、赤穂と僅かな手勢を伴って陣中へと向かうことを決めた。
首桶を突きつけてこれから先、必要以上に干渉するなと言外に含んだ交渉を終わらせた後に、本格的に統治に手をかけた。知識はあっても真奏が統治する正統性が無いため、親久の息子を元服させて当主の座に据え、その補佐役として動くという体面を整えた。六条、赤穂と言った汰羽羅屈指の名家の援助を受けてようやく政権は動き始めた。
しかし問題は山積みだった。薬の影響で使い物にならない農地、作物の不作、交易による経済の乱れは人心の乱れを誘発した。盗みと暴力が横行した。そこに畳みかけるような牙月からの要求に、深刻な財政難が全てを狂わせる。そのうえ、牙月がフラッゼと組んで完全にこちらを征服しようとしている情報すら入ってきた。ここでもう一度戦えば、最早復興は不可能だ。焦土と死体しか残らなくなってしまう。
ある日、腹心だけを集めた評定の場で、真奏は言った。
「極力人を使わずに戦える仕組みを作る」
「しかし、どのようにして実現させるのでしょうか?」
疲れ切った顔で真奏は河野の問いに応える。
「まずは金が必要だ。あの弩のように、少ない人数でも大きな威力を持つ道具を作る。外貨を入れてその金を汰羽羅の金に換え、汰羽羅の材料で道具を作る。その制作は城下の職人にやらせる。材料の運搬のために大量に民を動員し、働きに応じて米を与えよう」
「その米はどこから?」
「周辺諸国から仕入れろ。戦に備えながらも人心を潤さねばもうもたない。これ以上の打撃が与えられれば、本当に耐えられない」
「金はどのようにして……」
「それはまた別で考える。考えねばならないことが多すぎて、今は手も頭も回らない」
真奏の声は、呻くようであった。
そうして考案されたのが、安価に手に入る薬を加工して金を集める方法だった。誰もが露見すればただではすまないことを分かっていて実行に移した。身動きの取りやすい河野が実行役に立候補し、真奏はそれを受け入れた。
出立前夜、真奏は河野の部屋を訪れた。ほのかな燭台の灯りが風に吹かれて小さく揺れる。
「こんな役を背負わせて、本当に申し訳ない。失敗すれば、皆が地獄に堕ちるような、こんなことを」
そう語る真奏は為政者の姿をしていなかった。どこにでもいる、若い女の姿だった。
「そのようなこと、仰せにならないでください。手前が自ら名乗り出たのです。手前の命も生も、全て真奏様のもの。冥土の道にもお供致す所存にございます」
「……いつも汚れ仕事ばかりさせるね。今や、河野家の唯一の生き残りだというのに」
苦く笑った真奏に河野は答えられなかった。
真奏の統治を拒んだ桐生家とその家老を務めた河野家は、真奏と河野の手によって追い詰められた。最終的に正孝と河野の父は腹を切って果て、その一族郎党は辺境の島にいる。徹底した姿勢であることを汰羽羅全体に示すために取った策だった。
「真奏様が生きておられるならそれでいいのです。もとより一度は死を選んだ身でございます。どうかご自身の御役目をここで果たされますよう」
深々と頭を下げる河野を真奏はじっと見つめた。その顔と目つきは、既に引けない覚悟を決めた人間のものである。
「冥土の道も共に歩んでくれるなら、地獄の果てまでも来てくれるか?」
「はい。どこにいようとも、必ずや」
それが、河野が真奏と交わした最後の言葉であった。
海を渡って秘密裏に牙月に潜入した河野と部下は、そのまま牙月東方に位置する山脈に足を踏み入れた。山脈を北上してフラッゼの東方に広がる少数民族の地域を抜け、フラッゼ北方に住むギッシュ族族長の娘に接触した。
彼女とともにギッシュ族の現状に不満を持つ者を動かしてフラッゼに入らせた後、河野はコージュラのテーカンに接触した。テーカンとその一味に紛れて国境を越え、フラッゼ国内に入り込む。
あらゆる筋を使ってあらゆる種類の人間に接触し、根回しに根回しを繰り返した。試験的に薬を精製するために、牙月で手に入れた薬を行商人を使って汰羽羅へと送る。少し時間はかかったが、精製された薬が牙月にいる河野の部下のところへ着いたと連絡があった。そちらで試しに使わせてみたところ、凄まじい効力があることが判明した。飲みすぎた者が死ぬことも判明した。
改善の余地があると思っていた頃から牙月にいる部下との連絡が途絶えた。様子見にフラッゼにいた部下を向かわせると、牙月にいた者達はいずれも殴殺されていたことが判明した。首は蝋で塗り固められ、苦悶の表情を残したままだったと報告された。
フラッゼの方でも問題が起きた。海軍の物資を横流しさせようとしたところを見られてしまった。それどころか尾行され、内通者と接触しているところまで目撃された。仕方がないので、内通者の権力を使って監獄送りにさせようとした。
ところが、なぜか失敗していた。加えて居場所を嗅ぎつけられた。ギッシュの女が嗅ぎつけられたなら止めると喚いたので、足手まといになる前に殺した。元々、ギッシュの人手と彼らを動かすための大義名分のためだけに連れて来たような無能な女だった。
コージュラの女は捨て駒にした。適当なことを言って屋敷に留まらせたが、ギッシュのと同じく価値もない吠えるだけの女だった。いても邪魔なので、元々、時期を見て殺すつもりだった。
河野は躊躇わなかった。
何とか逃げおおせたものの、これ以上フラッゼに留まることが不可能なのは明らかだった。だから内通者の力を借りて市井に身を潜めた。結局あの銀髪が何者かは分からなかったが、そんなことを気にしている場合ではなかった。
港に着いた部下の船で逃げようとしたが、海の上で追い詰められた。薄青と焦げ茶の目の男と刃を交わして、刀を奪われて、最後には素手でやり合った。どうにか始末できそうだったが、最後の最後に逆転された。
意識を失う寸前に思い浮かべたのは、地獄の果てまで共に行くことを約束したうら若い主君の顔だった。
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