灰色の蝶
よく晴れた夏の日、俺はドライブにきていた。
車の窓から空を見上げると、雲一つ無い晴天。
道路のすぐ側には生い茂る木々。新鮮な空気。
まさに絶好のドライブ日和だった。
……未だ宿に着けないことを除けば、だが。
「まったくおかしいな……」
俺はちゃんと事前に道を調べて、地図も印刷してきた。
もちろんその通りに進んでいるのだが……やっぱり着かない。
ガソリンは満タンにしてるから、別に大丈夫なのだけど、さすがに飽きてくる。
右手にはひたすら森が続いていて、人気は少ない。というかないかもしれない。
いくら山奥にある宿だからって少なすぎないか?
登りはじめた最初こそ何台かの車と擦れ違ったが、それっきりだ。
バス停とかもあるけれども誰もいない。
今までも山奥にある宿には行ったことが何度かある。
だが、ここまで人がいないのは初めてだ。
そのうちに俺は夜までに宿に着けるのかどうか心配になってきた。
「今までで最悪のドライブかもしれない」
俺の頭の中にはそれしかなかった。
諦めずにしばらく車を走らせ続けた。
すると、ブシュッという音がいきなり聞えた。
無論、俺のおならとかではないぞ。
しかも車が止まりやがった。エンストか。
俺は慌てて車を飛び降りて車のチェックをした。
結果。タイヤがパンクしていた……
俺、なんか悪いことしたか?
最悪の状況だ。そんな尖ったもの踏んで無いんだが。
ガソリンあるのにタイヤがお陀仏。こんな山奥でどうしろと?
とっさに携帯で電話しようとして、頭痛がしてきた。
圏外じゃないか……電波ここまで届いてないんだ。
「本当にどうしようか……」
公衆電話などはもちろん見当たらない。
もう車置いて帰ってしまおうか。こんなとこで一晩過ごすのはイヤだぞ。
精神的に疲れて、車体に寄りかかる。
いつのまにか夕方になっている。夕日が眩しい……
煙草を吸いながらぼうっとしていると、煙の中で何かが動いた。
それは蝶だった。
「綺麗だな……ってかなんでここに蝶が」
煙草の煙の中、ひらひらと飛んでいる蝶。
色は、灰色。俺灰色の蝶なんて初めてみたんだけど。
柔らかな動きで羽根をはためかせる姿は、とても優雅で美しい。
ふわふわと蝶は近くの森のなかへと消えていった。
追いかけてみようか。
俺は何故かそんな気持ちになった。
車は動かないし、誰も通らない。
この場所にずっといるよりは、蝶を見ていたほうがいい。
一匹ぐらい捕まえて帰ろうか。いや、帰れるか分からないけど……
俺は蝶の後を追って、森の中へと向かった。
薄暗い森の中。木が繁っている所為か、日の光もあまり差さない。
すぅっとどこからともなく、先ほどと同じ色をした蝶が目の前に飛んできた。
この辺に生息しているのだろうか?
蝶はゆっくりと林の中を進んでいく。まるで誘うかのように。
俺は蝶にゆっくりとついて行く。足元が危ういが、蝶だけを見る。
綺麗で、可憐な姿。
昆虫をみて可憐だなんて思うのは変かもしれない。
でも、それだけ美しいのだ。何故だろう。
色もアゲハ蝶とかのように目立つ色ではない。
銀色に近い灰色。それなのに瞳が吸い寄せられるかのように蝶を見てしまう。
不思議な、蝶。
しばらく歩くと、少し開けた場所にでた。
そして俺は目の前の光景に思わず息を呑んだ。
目の前で、灰色の蝶が乱舞していた。
高く、低く、踊るように舞い飛んでいる。
しかも一匹二匹のレベルじゃない。
数十匹はいるようにみえた。
羽根が動くたび、銀色した燐粉がはらはらと零れ落ちる。
「すごい……」
すごいとしかいいようがない。
夕焼けの光差す中で舞い踊る蝶達。
蝶達が舞う中心には、枯れ木のような物があった。
倒れて、古くなった樹を棲み処にしているのだろうか。
呆けたようにしばらく蝶を眺めていた。
よく見ると、灰色の蝶の中に別の蝶も混じっているみたいだ。
俺は蝶の群れの中へと進んだ。もっと近くで眺めてみたい衝動に駆られたから。
蝶は逃げることもなく、俺の周りを変わらず飛んでいる。
灰色の群れの中に別の色を見つけた。
紅の蝶……
それは、紅い蝶だった。
灰色の中に混じる紅は非常にインパクトがある。
赤ではない紅。夕焼けと同じ、いやそれ以上に綺麗な色。
鮮やかな二枚の羽根が滑らかに動いている。
外側は黒く、その中が紅い。
別の種類かな。それとも突然変異とか?
灰色の中の紅はものすごく違和感がある。
ただひたすら、舞い踊る蝶を眺める。
なんだろう……とてつもなく心地いい。
夢のなかにいるような……雲の上にいるような。
ふわふわとした感じだ。
不意に一匹の蝶が俺の手のひらに舞い降りた。
紅い蝶ではなく、灰色の蝶。
手の上で、蝶が休んでいる。
なんだかとっても微笑ましい。
近くだと、蝶の姿がよく見えた。
小さな黒い瞳に、柔らかそうな触角。
羽根には燐毛もちゃんと生えている。触ったら気持ち良さそう。
蝶を凝視していると、ちくり、と手に軽い痛みが走った。
あまりにも小さい刺激は、痛いというよりはむず痒い。
刹那、蝶の色が変わった。
灰色から紅へ……
俺は驚き、手を振り回すが、蝶は離れない。
白い布を染め上げるように色が変わっていく。
俺はこの瞬間、すべてを理解した。あの蝶の美しさの理由を。
あの紅い色は、人の血の色だったのだ。
灰色の蝶が血を吸い、紅の蝶が生まれたのだと。
蝶は、紅く染め上がると、ひらりと舞い飛んでいった。
俺は、力が抜けてしまい腐葉土の上に座りこんでしまった。
血を吸われた手のひらには、かすかに刺し傷が見えるだけ。
そこから出血もしていない。ほとんど痛みも無い。
気づくと、無数の蝶が俺の体に止まっていた。
足に、腕に、体の上に。
ぼんやりとする視界の片隅に、枯れ木が映った。
ああ……同じだ。
あれは、枯れ木なんかじゃない。
この蝶達に血を吸われてしまった、人間の成れの果て。
俺もあんな風になってしまうのだろうか。
視界の蝶達が紅く染まっていく。
それでも、不思議と怖くはなかった。むしろ……、
「いい気分だな……」
先ほどよりも思考がまとまらなくなってきた。
一匹が吸う量は少なくても、これだけの蝶に吸われれば貧血にもなるかもしれない。
それに、死ぬかもしれない。
でも、それでいい。
普通に生きて、くだらなく死ぬよりは。
蝶達の糧になるのだから。
そう。俺が蝶になると考えればいい。
俺が、同じ蝶になる。
ふふ。とても素晴らしいことじゃないか?
最後に、そんなことを考えた。
俺の意識は闇へと溶けていった。
幻惑の蝶達が舞う夜の森。
月光煌く夜の森。
また一匹、灰色の蝶が生まれた。
蝶は舞う。
歓迎の円舞曲を……
蝶は仲間を求めて舞い続ける。
いつの日か、終焉が来るまで。
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