ヨモツヘグイ


「雨が強くなってきましたねえ」


 ハンドルを握りながら、窓の外を見て年老いた運転手はそういった。


 その言葉につられて、私の窓の外へと視線を向ける。確かに、乗り込んだときよりも強くなっていた。


「本当ですね。こういう日は、お仕事大変でしょう?」


 私はタクシーの運転手へとそう話かけた。


 仕事が遅くなってしまい、おまけに雨まで降りだした時は憂鬱な気分になってしまったが、こうしてタクシーを拾うことができたから、運がよかったのかもしれない。


「そりゃあねぇ……びしょ濡れで入ってくるお客さんもいますし、酔っ払ってる方もいますからね。


 うっかり戻しちゃったりしたら、後が大変ですよ。おっと、失礼」


 陽気に話す運転手は、いい印象を受けた。むっつりと黙って運転する人よりも、こうして話かけてきてくれるような運転手の方が、乗っているこちらも気楽になれる


 ましてや、週末の残業明けはくたびれているもの。仕事に集中していたから、無性に誰かと話したくなる。


「大丈夫ですよ。仕事、どれくらいされているんですか?」


「もうずいぶんと長いことやってるよ。どれくらいかなんて忘れちゃったけどねえ」


 そういうと運転手は、車を走らせることに集中しはじめた。


 雨のせいで普段よりも暗い中を、車が静かに走っていく。すれ違う車の数は少なく、眩しいくらいのライトが通り過ぎてゆく。坂道をくだっていくような、緩やかな感覚があった。


 家につくまではまだ少し時間があるだろう。


 仕事疲れと暗さのせいで、私はだんだんと眠くなってきていた。少しぐらいなら……平気だろう。


 そう思い、私はゆっくりとまぶたを閉じた。




 


「お客さん、お客さん。ちょっと起きてくださいな」


 私に呼びかける運転手の声で、意識がはっきりとした。


 さきほど目をつぶってから、どれくらいの時間がたったのかわからない。もしかしたら、数分しかたってないのかもしれない。


 まばたきをしながら、運転手へと返事をした。


「悪いね……うっかり眠ってしまった。どうしたんですか?」


「それがねぇ、どうも交通事故があったみたいでねえ。見てくださいよ」


 そういう運転手の言葉につられて、フロントガラスから路上をみた。


 救急車やパトカーなどが集まっていて、通行止めになっていた。


 ずいぶんと派手な事故だったようで、ぐしゃぐしゃになっている二台の車を見ることができた。


 雨に流されてしまったのが、血痕などを見ることはできなかったが。


 何にしても、このまま道を通ることはできなさそうだった。すぐに通行が復活するとも思えない。


「こりゃあ、迂回するしかないでしょうねえ。それでいいですかい?」


「ああ。それで頼むよ」


 わかりました、といい運転手は車を走らせた。迂回するから、普段よりも遅くなるだろうと思った。


 家にいる妻に連絡しておこうと思ったが、携帯の電波が珍しく圏外になっていた。


 仕方なく諦めた私は、窓の外を眺めることにした。うたたねしたせいか、眠気は去っていた。


 何故か私は、さっきの事故にあった人は大丈夫だろうか、などと考えていた。他人事だというのに。


 気のせいかもしれないが、最近よく交通事故を見かけることが多い。ただの偶然なのだろうが。


「最近、交通事故が多いですね。余所見でもしてるんでしょうか」


 いきなりな私の話にも、年老いた運転手は返してくれた。


「若い者はしっかり運転しないですからねえ。そればかりじゃあないでしょうけれど。まあ、思うに寂しいんじゃないですかねえ」


「寂しい……誰がですか?」


「事故でなくなった人とかですよ。自分だけじゃ寂しいから、呼んじまってるんじゃないかとねえ」


 この世を去ったものが、孤独を嫌って、誰かを招く。


 それはとんでもない話のようでいて、どこか納得ができそうだと私は思った。


 どことなく、老運転手は寂しそうな雰囲気を漂わせていた。


「そういう人も、いるのでしょうか……」


「さあねえ。ただのおじさんの戯言ですよ、お客さん」


 そういうと運転手は、顔をくるりとこちらへと向けた。


 前を見なくていいのかと一瞬ヒヤリとしたが、一応道は見ているようだった。


「そうだ、お客さん。アメは好きですか?」


 アメ、という言葉を聞いて、なんのことだろう、と少し考えてしまった。


 今外は雨が降っているけれど……私は別に雨は好きではない。


 私が答えるより先に、運転手は言葉を続けた。


「いっつもねえ、アメは持ち歩くようにしてるんですよ。小さいお子さんとかも多いですしねえ。あげると、にこにこ笑ってくれますからねえ。で、アメは好きかい?」


 その言葉で、私はお菓子のアメだということに気が付いた。


 私はあまり甘いものは好きではないのだか、妻はよく好んで食べている。


「ええ。それなりには好きですよ」


「そうかいそうかい。それじゃあ、お客さんにもあげましょうねえ」


 嬉しそうに微笑みながら、運転手は片手で私に包まれたアメを一粒渡してくれた。


 その顔は、孫や小さな子に優しくしてあげるおじいちゃんそのものといった感じだった。


「どうも。これは苺味ですか?」


 透明なセロファン越しにみえるアメの色は、鮮やかな赤色をしていた。大抵は、苺味だろう。


「それは食べてみてからのお楽しみですよ」


 以前として老運転手はにこにことしている。よっぽど機嫌がよくなったのだろう。


「ああよかった。お客さんによっては、受け取ってもらえなかったりしますからねえ。


 そういうときなんかは、後でとっても悲しくなったりするんでねえ」


「それはよかった」


 相変わらず、雨は降り続いていて。家まではもう少し時間がかかりそうだったけれど。


 人のいい運転手のおかげて、私は退屈しないで済みそうだと思った。


 その後も、私は家につくまで運転手と話を続けていた――






 次の日。私は休日を家でゆっくりと過ごしていた。


 家とはいっても、マンションの一部屋でしかないのだけれど。


 リビングからは、妻が食器を洗っている音が聞こえた。それに混じって洗濯機の回る音も。


 こういう音を聞くと、なぜかはわからないが落ち着いてしまう。


 先日運転手にもらったアメは、昨日の夜にテーブルの上に置いておいた。


 妻は寝ていたので、起こすのも忍びないと思ったからだ。


 甘党な妻のこと。きっと包みをとって、口に放り込んだ後だろう。


 私はというと、自室で読みかけの本を読んでいた。


 妻を手伝おうかと思ったのだが、てきぱきとこなしてしまうので、必要がないのだ。


 お気に入りのピンクのエプロンをしながら、実に楽しそうに彼女は家事をこなしてくれる。


 そうしてしばらく本を読んでいると、妻のノックが部屋のドアを叩いた。


「わたし、洗濯物干してるからね」


「わかった。よろしく」


 ドアを開けることはせずに、声だけがドア越しに聞こえた。


 私たちはいつもこんなようなものなのだ。べたべたしているわけでもないが、さめきってもいない。


 つかずはなれずのこの場所が、心地いい。


 洗濯物は妻に任せて、私は本を読みすすめた。


 




 そう薄くはない本だったが、読みかけということもあって、早く読み終えてしまった。


 本を棚へと戻してから、私はリビングへと向かった。


 集中している間は気づかなかったが、ひどく喉が渇いていた。


 部屋を閉め切っていたせいで、空気が乾燥してしまったのだろうか。


 冷蔵庫を開けて、一番上の棚においてある缶ビールの開けるといい音がした。


 昼間からどうどうと飲酒できるのも、休日のいいところだろう。


 ゆっくりと酒を飲んでいると、救急車のサイレンの音が聞こえた。かなり近くから聞こえる。


 しかもだんだんと音が大きくなっていることから、こちらの方面へ向かってきているようだ。


 ベランダを見ると、妻の姿は見えずに、洗濯物だけがひらひらと風に揺れていた。


 自室にでも戻ったのだろうか。


 おおかた、交通事故だとか、車が突っ込んだとかそのあたりだろう。


 サイレンの音はなおも近づいてきている。そしてマンションの前あたりで音は止まった。


 誰か怪我でもしたのだろうか?


 普通は見ないほうがいいのだろうが、気になってしまってベランダから下をのぞいた。


 救急車はマンションのまん前に止まっていて、担架を下ろしているところだった。


 救急車から目線を真下へと映して、私は凍りついた。今見たものが信じられなかったのだ。


 ベランダを足早に出て、妻の自室をノックした。……返事も、物音も聞こえなかった。


 背中を嫌な汗が伝い落ちて気持ち悪い。


 急激なめまいでふらふらとしながらも、再びベランダへと戻り、下を見た。


 壊れてしまった人形のように、折れ曲がってしまった手足。無造作に散らばる黒い髪。


 見覚えのあるピンクは、にじみ広がる赤のせいで変色していた。


 顔までは見えない。見えなくても、あれが誰なのかは解る。


 救急隊員が担架に乗せて、妻を運んでいく。


 マンションの3階から落ちて、助かるとは思えない。


 あわただしく救急車が去り、その場には赤い血溜まりが残された。


 呆然と見つめる私の視界に、ひときわ鮮やかに何かが目に映った。


 それは、老運転手にもらった飴玉に似ていた。


 どうしようもない虚無に支配されて、私はへなへなとベランダに座り込んだ。


 一人取り残された私の耳に、玄関をノックする音が聞こえた。

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