夜色

私は薄い上着を一枚着て、素足でベランダに出る。




 




 私には、毎日寝る前に必ずやることがある。


 それは、空を眺めること。




 自室のベランダから星を眺める、ただそれだけの行為。


 でも、私にとってはとても大事な事。


 最初は天気のいい夜しか眺めなかった。


 気がついたら、毎日の日課になっていた。


 空が澄んでいても、暗く淀んでいても。


 私は必ず空を見上げる。




 藍色をした夜空の中で、きらきら光る名もなき星たち。


 星一つ一つの大きさそのものは小さいけれど。


 放つ光は、とても暖かくて強い。


 ちかちか瞬く星、ひっそりと輝く星、ぼんやりとした星。


 どれも同じで、どれも違う。


 夜が来れば、必ず空へと舞い上がる。


 彼らは、いつも私たちの上にいるのだろう。


 今にも泣き出しそうに曇っていても。


 突き抜けるような青空でも。


 姿が、ただ見えないだけで。


 私たちが、見ようとしないだけで。


 変わらずに、そこに存在している。


 


 澄み切った夜の風を体全体で受け止める。


 深く、ゆっくりと深呼吸をする。


 そして静かに瞼を閉じる。


 心の中をからっぽにして、闇を見つめる。


 微かに届く星たちの光。ぼんやりと瞼の上が白くなる。


 ふと闇の中で瞬きする輝き。


 それが、私の星。


 私の心の中で輝いている星。




 澄んだ空間にぽっかり浮かぶ、フルムーン。


 思わず瞬きしてしまうほど、強くまっすぐな光で私を照らしてくれる。


 その光を浴びていると、私は浄化されたような気分になる。


 緊張が解けて、ほんとうの私が現れたような感覚。


 なんど月光を浴びても慣れないけれど、決して不快ではない感覚。




 満月も好き。


 新月も好き。


 三日月も好き。




 上弦の月も、下弦の月も。


 月はどんな形でも大好きだ。


 特に、昼間の月が一番好きかも知れない


 何気なく空を見上げたとき。


 うす青色の空に、陽炎のようにやわらかく浮かぶ月。


 目を細めないとよく見えないけれど。


 確かにそこにある。


 薄氷が溶けてしまうように、空に紛れてしまうけれど。


 認識すれば見失うことはない。


 人の命が生まれては消えていくように、満ちては欠ける月。


 消えることのない美しさ。


 時折、光の加減なのか月が赤く染まって見えることがある。


 じいっと見つめていると、月の表面のクレーターまで見えるような気がして。


 わけもなく、胸がどきどきしてくる。


 黄色い月も、赤い月も、同じ月。


 角度が違うだけで、姿まで変わってしまう。




 ベランダの鉢植えで咲き誇る、深紅の薔薇。


 優しい月明かりを受けて、美しく命を咲かせている。


 まるでろうを塗ったかのように、ツヤツヤとした花びら。


 その瞬間を、全力で生きている、生命力に溢れている。


 太陽の光が栄養ならば、月明かりは、ゆりかごみたいだと思う。


 昼間の間、精一杯咲き誇っていると、きっと疲れてしまう。


 だから、夜の間だけでもゆっくりおやすみ。


 そんな風に思えてしまうの。




 薔薇を見ていた瞳を、澄んだ夜空へと向ける。


 とても静かな夜空。


 小さいけれど強い星。


 煌々と大地を照らす月。


 すべてを包み込む闇。




 空は闇ではないし、月は星ではない。


 月は空にはなりえないし、闇は星になることはできない。


 


 そんな全く異なる存在が生み出す調和。


 私達も、そんなふうになれればいいのに……。




 大きな調和に包まれていると、とても穏やかな気持ちになれる。


 絶対的なものに見守られている、心地よさ。


 ふつふつと、胸に湧き上がる安堵感。


 砂に水が染みこむように、私という器に浸透していく。


 私は、確かに今、ここに存在しているのだと。


 それは海のように透明で、子猫の瞳のように澄んだ感情。




 柔らかな風が、頬を撫でていく。


 子供の頭を撫でるかのような、暖かくて慈しみに溢れた風。


 綺麗な光景の中で、ゆったりと滑らかに流れる時間。


 夜空は、どんな高い宝石よりも美しい。


 私はそう思ってる。




 私にとって、この行為は、自分を見失わない為のものなのかもしれない。


 慌しい日常のなか、人の波に、氾濫した情報に、義務感に流されて。


 心も、感情も、自分も。どこかに流されてしまう。


 忙しなく生活する人。


 時は常に一定の速さで流れているというのに。


 どうしてそんなに急ぐ必要があるのだろうか。


 流れに身を任せればいいのに。


 生き急ぐ必要はないのに。


 


 私はこれからも夜空を眺め続けるだろう。


 私が私であるかぎり。


 


 そろそろ部屋へ戻ろうか。


 また明日、眺めればいい。


 夜空は、いつもそこに存在しているのだから。




 そこにあるよ。見えないだけ。




 私達の道しるべ。




 月の姿を焼き付けて、深い眠りへと沈んでゆく。

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