短編集（旧作）

壊れた二人

爽やかな風が吹く丘の上。辺りには名もなき花達が咲き乱れていた。

　暖かい太陽の光に満ち溢れた世界。

　赤や黄色に、紫に青。淡い色が散りばめられている。

　君と僕のお気に入りだった場所。君はゆったりと座っているね。

　とても幸せそうな表情で微笑む君。それを見つめているだけの僕。

　ああ――これはいつの記憶なのだろう。

「ねえ、私と会った時の事……覚えている？」

　君が花飾りを作りながら歌うように話す。

　もちろん覚えているよ。僕が忘れるわけないじゃないか。とても大切なことだもの。

　初めて眼にした君は、とてもきらきらと輝いていて。

　僕の眼が潰れてしまうのじゃないかと思うほど。すごく眩しかったんだよ。

　ありふれた言い方だけど、太陽みたいだったんだよ。

　艶に満ちた栗色の髪が、風に吹かれて舞い上がる。

　それを優しく抑えるやわらかな手。触れると、そっと暖かいのだろう。

　親鳥の羽根の中のように。

　裾が広めのワンピースがゆらりとなびく。

　君は学校の制服も似合っていたね。

　どうして君は学校なんかに来ていたんだろうね。何故学ぶという事をしていたのだろうね。

　君はただ、そこに居るだけでよかったのに。

「愛しているわ」

　最愛の君からの、最高に嬉しい言葉。花飾りもくれるのかい？　嬉しいな。

　でもね、何故なんだろうね。

　僕は、とても君を愛しているのに、何よりも大切だと思っているのに。

　代わりなんていないと思っているのに。

　時折――壊してしまいたくなるんだ。

　水面に浮かぶさざ波のように、一瞬浮かんでは消えてく。

　湧き立つ泡に混じるのは……憎悪？

　緩やかに忍び寄るそれは、少しずつ、けれども確実に僕を蝕んでいくんだ。

　酸化していく鉄のように。

　岩を削る滴のように。

　ほんとうにすこしずつ……僕が、変化していく。

　おかしいね。きみょうだね。どうしてなの。

　どうして、愛しい者を壊したいなんて考えてしまうんだろう。

　代わりのない者を壊すなんて、それがどういう意味か分かってるの？

　もう二度と会えなくなってしまうんだよ……それでも。

　それでも、僕は望んでいるのだろうか。

　花をクルクルと弄んでいる君は、何を望んでいるんだろう。

　今の僕には……分からない。

　綺麗な君を見ているのに、僕はとてもいけない事を考えてしまうんだ。

　君の血は、とっても綺麗な紅色をしていて、とても甘いんだろうなって。

　折れ曲がった身体も、美しいのだろうな、とか

　何があっても、君はふわりと笑っているんだろうなって。

　どんな事も、笑顔で受け入れてくれるんだろうなって。

　君は……優しい人だから。

　その君の優しさが――僕を蝕んでいくんだ。

　無意識の内に侵されていく恐怖。

　大切な者を失ってしまうのではないかという不安。

　とても大好きなのに、君がもたらすのはマイナスばかりだ。

　でもね……君だって悪いんだよ？

　その穏やかな表情で、他の男に微笑みかけるから。

　その茶色い瞳で、他の男を熱っぽく見つめるんだもの。

　その暖かく柔らかな手で、無邪気にじゃれあったりしてるんだから。

　ああ……僕はそれが許せない。

　君が笑いかけるのならば仮面を被せてあげよう。

　君が僕以外の誰かを見つめるのならば、その瞳はいらないね。

　君が何にでも触れてしまうのならば……手足を切り落としてしまおうか？

　小鳥が囀るように、よく動く口ならば……縫い付けてあげる。

　真っ暗に開いた空洞の中で見るのは、記憶の中の僕。

　仮面の中で思い出せるのは……きっと僕。

　震えぬ喉で叫ぼうとするのは、僕の名前。

　……ああ。どうしてこんなに僕は不安なんだろう。憎いのだろう。愛しいのだろう。

　矛盾する思考に、奔りだしそうになる衝動。

　時を刻まぬ時計に……言うことを聞かない暴れ馬。

　そして僕は制御する術を知らない。

　このままなら……僕は、君を壊してしまうだろう。

　君は、何を望む？

　何を願う？

　一体何を厭う？

　お願いだから、それを僕に早く教えて欲しい。

　そうじゃないと僕は……。

　鉛のように重たい瞼を、無理やりこじ開ける。

　ベッドから起きて、近くのテーブルに置いてあるペットボトルから水を飲んだ。

　ひどく、喉が渇いて、ざらついていた。

　あれは一体……いつの記憶だったんだろう。

　あんな夢を見るなんて。これまで一度もなかったのに。

　懐かしいような……逃げ出したいような。

　郷愁と罪悪感？　いや、そんな生易しいものじゃないのはもう知ってるはずだ。

　寝起きでぼんやりしている僕の耳に、いきなり甲高い声が飛び込んでくる。

　ぼくはゆるりと首を向ける。

　ベッドから少し離れた所のソファーに座る物を。

　ぱさつき、痛んだうす茶色の髪。

　結露した硝子のように曇ってしまった瞳。

　彼女は、笑っていた。子供のように無邪気に。

　ベッドから降りて、彼女の隣に腰を下ろす。そして顔を覗き込む。

　からからと無邪気に笑う声と、仮面のような無表情。

　まるで、デスマスクをかぶっているみたいだね。

　ほら、肌なんか消えてしまいそうなほど透き通って、うっすらと血管が透けているよ。

　ねえ……君は何を望んでいたの？

　どうして教えてくれなかったんだい。

　君は……ずるいね。

　僕は……どうして。

　壊すということが、殺すという事だけではないと、知らなければよかったのに。

　虚ろな僕の中で、ふつふつと泡のように浮かんでは消える感情。

　君を、いっそ殺してしまえばよかった。そうすれば。

　抜け殻しか残らなかったのに。

　其処に在るだけでいい、なんてどうして願ったんだろう。

　どうしてそれがいいと思ったのだろう。

　ただ、其処に在るというだけ。それがどれだけ残酷な事か僕は知らなかったんだ。

　在るだけ、というのは、消滅と存在の狭間で揺れている。

　とても希薄で、どちらでもないんだ。生でもなく、死でもない。

　有でもなく、無でもない。

　陽炎みたいにゆらゆら揺れているだけ。

　何故僕はうまく壊せなかったんだろう。

　君に今宿っているものは何？

　悲しみ、喜び、それとも……僕への憎しみ？あるいは、虚無？

　その闇で、僕の事も飲み込んでくれたらいいのに。

　君のそのばらばらの欠片を集めたら、また君に出会うことができる？

　ぐずぐずに崩れてしまった思考を繋ぎ合わせて、自我をカタチ作って。

　唇に朱を差して、頬を引き攣らせて。

　寄せ集めの、継ぎ接ぎでも構わない。君に会うことができるのならば。

　僕は、どうすればいい？

　ねえ、お願いだから。

　もう一度だけ、僕の為に笑ってよ。その柔らかな手で僕を抱きしめて。

　壊れるくらいに強く。君になら、壊されてもいいから。

　今度は僕もちゃんと壊れてあげるから。

　君だけ、先にいかないで。僕を……置いていかないで。

　ああ、僕は消えてしまいそう。

　不思議だね、奇妙だね、何故だろうね。

　僕は、僕がしたいことをしただけのはずなのに。

　どうしてこんなにも悲しいのだろう。

　僕は喜ばなくちゃ、嬉しくなきゃいけないのに。

　望みが叶った時って、そうでしょう……？

　でも、昔の望みと今の望みは噛みあわない。

　壊したかったのに、会いたいなんて。

　僕は何も分かっていなかったんじゃないか。　

　開け放した窓からは、生ぬるい風が吹き込んでくる。

　視界の隅に、空の花瓶が映る。

　君の眼は……何も見てないのかな。

　僕が奪って、壊したから、何も残っていないんだよね。

　遅すぎる後悔を繰り返す日々。僕はいつまでこうしていればいいのだろう。

　それとも、永遠にこうすることが、君への償いなのかな。

　ふと、彼女が何か握り締めているのに気がついた。

　拳をゆっくりとひらいて……そこにあったのは。

　いつかの丘でみた、同じ形をした花飾り。

　枯れかけた、しなびた花だったけれど。

　ああ――君は。

　僕は彼女の耳元でゆっくりと囁く。からっぽの君に、届くように。

　虚無に吸い込まれず、君へちゃんと届くように。

「愛してるよ」

　今なら、愛しいといえるよ。憎しみは……もう尽きてしまったから。

　それに、今なら分かる。もう、僕は壊れているんだよ。

　花飾りが……とても綺麗だと思うなんて。しわくちゃでかさついているのに。

　僕が君を壊して――君が僕を壊すんだ。

　乾いた花飾りを握りつぶす。

　互いに壊れたのなら、また会えるだろうか？

　たった一つの壊れた僕の望み。

　壊れた花飾りと君に託そう。