ティアースコープ

@Karma1061

vision

朝、家のテーブルで目が覚めた。腕の上に突っ伏したまま顔だけ動かすと、テーブルには諸々のクーポンや広告、そしてワインの瓶とコップが置いてあった。呑みすぎて眠ってしまっていたようだ。


しばらく体を動かす気も起きず、ぼんやりと底に薄くバーガンディの張ったコップを眺めていた。昨日の記憶を緩慢に探って、あああいつは家を出たんだっけと思い当たる。ドアが乱暴に閉められた後、2人で記念日に飲もうねと言っていたワインを開けたんだった。思い出して涙が滲む。


と、視界が突然歪んだ。涙で淡くなったのではない、世界ごとミルクを入れたコーヒーの様にその模様を変えていっているのだ。


風景が前にある。談笑する相手は私なのだろう。何かを話しているのに声は聞こえない。涙を拭って口元をよく見ようと目を凝らした。


あいつの姿は消えていた。


瞬きを繰り返しても、それはもう現れなかった。まだ頭が眠っているのだろうか。まだふらつく足で椅子から立ち上がり、洗面台で支度をしてからバッグを取った。何かをする気にはなれなかった。とりあえずどこかで空腹を満たしたい。


昼食を求める人通りはこちらに見向きもせず、各々の目的地へ向かっているようだ。2人分の予約をしていたレストランは、今年新しく出来たところで、最近関係のよくなかった2人をどうにかしたくて行こうとしていたところだ。予約と人数が違うことを丁重に謝り、席に着く。


渡されたメニューを眺めていると、家族連れが入店するのが見えた。父親と母親に両手を繋いでもらい上機嫌な子供は大変に微笑ましい。笑顔と引き換えに零れたのは涙の雫だった。


また視界が歪み始めた。現れたのは手を握りあってはにかむ自分とあいつの姿。表情は恥じらっているものの、幸せそのものといった雰囲気だ。


思い返せばそうだった。関係が冷え込む前は、お互いそばにいるだけで嬉しかったように思う。2人とも、こんな壊れ方をするとは思っていなかった。


ハンカチを出して涙を拭うが、次から次へと思い出が溢れ出して止まらない。異常を察知したウェイトレスが駆け寄って声をかけたが、「すみません」以外まともな受け答えが出来なかった。


結局、あいつとの思い出を幻視しながら味のわからない食事をし、レストランを後にした。道行く人の視線が痛いほどに刺さる。涙は止まらず、思い出も視界から消えない。家に帰る頃にはもう顔は目も当てられない状態だった。


背中を向けてバタンと扉を閉め、しゃがみこむ。いつまでそうしていただろう。そのうち、顔だけでもどうにかしようとのろのろと立ち上がった。


洗面所で鏡を見ると、赤く目が腫れていた。涙はまだ止まらない。


あいつが今どうしているかどうかはわからない。でも自分はこの先ずっと涙と一緒に過ごさなければならないのだろうか。もう戻らない2人の記憶を、目に焼き付けなければならないのだろうか。


着替える気も起きず、その場でうずくまってしばらく涙が止まるのを待った。目を瞑っている間は何も見ずに済んだからというのもあったが、零れる雫はいつまでもそのままだった。


リビングに戻った時には、もう差し込む光はオレンジ色に染まっていた。テーブルの上に海外旅行のパンフレットが置いてあるのが見える。


近いうちにどこか遠いところへ行こう。できれば友達も誘って。悲しみの果てを探すにはここは向いていない。泉が尽きるまで色々やってみるのもいいだろう。


パンフレットに涙が落ちないように手に取り、眺めてみる。表紙には広い海が広がっていた。

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