フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン

@k_momiji

フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン


 鍵穴に接着剤を流し込んだ。

 財布に入っていたカード類は全て二つに折って捨てた。


 電灯はもうついていない。一つだけを残し、全ての部屋のブレーカーを落とした。

 カーテンの隙間から差し込んだ光が暗い足下を照らす。埃っぽい廊下を、杖をつきながらゆっくりと進んでゆく。


 自室には、ちょうど人一人が入れる大きさの角張った箱が置かれている。表面は鈍く光っていて、金属であるようにも、そうでないようにも見える。箱の側面からは頑丈そうなケーブルが伸びており、部屋のコンセントに刺されてビニールテープで固定されてある。


 余命宣告を受けた僕は、今からこの場所で冬眠する。



 半年前のことだった。

 朝から脇腹が痛く、立っているだけで何やら腹の中を素手でかき回されるような気持ち悪さを感じた。


 きっと昨日の夜飲み過ぎたせいだ。偶然買った馬券が当たったからと言って、慣れないウイスキーなんて飲むんじゃなかった。

 そんなことを思いながら痛み止めを冷めたコーヒーで胃の中に流し込み、擦れたスーツに着替えて家を出た。


 そこから、しばらく記憶は途切れる。


 気がつくと僕は、病院のベッドの上にいた。


 暫くすると、病室に看護師が入ってきた。僕が目を覚ましていることに気がつくと、先生を呼んできますから、とだけ言ってすぐに立ち去った。どこかのドラマで見たような光景だと思った。

 そのままの体勢で見回すと、手の届く場所にあるテーブルの上に僕のケータイが置かれてあった。ボタンを押すと、画面が付いた。日付を見る。どうやら丸一日、眠っていたらしい。

 通知は会社からのメールが一通。寂しいもんだな、と一人で笑った。脇腹が少し痛んだ。


 どうやら僕は、かなり重い部類の病気らしい。

 現代の医学では治せないくらいに。


 平成の世が終わり、三十年が経とうとしていた。それでもやはり、人類は病気というものを克服できないでいた。

 医者の男が告げた話はまるで自分のことでは無いように感じられて、病名すらもよく覚えていない。が、一つはっきりしていることは、僕はこのままではもう一年も持たないということらしい。


 しかし安心して下さい、と医者の男は言った。


 ムーンショット型研究開発制度。SF映画のような技術の開発を目指すための企画だ。

 平成の終わり、様々な分野の技術力で各国に追いつかれつつあることに危機感を覚えた政府が打ち出したそれは、初めこそ馬鹿馬鹿しいと方々から非難を浴びることはあったものの、その内いくつかは実を結んだ。そのうちの一つが、人工冬眠である。

 単純な話、現代の医療では治癒不能と判断された患者が、人工冬眠により仮死状態となり生き延びる。そして、新たな治療技術が生まれるのを待つという話だ。


 中に入ってしまえば十年でも二十年でも一瞬ですよ、と医者の男は言った。それでも僕は不安そうな顔をしていたらしく、少しリスクはありますが、自宅で使用することもできますよ、と続けた。


 昔、死ぬときは病院のベッドではなく家の布団で死にたい、と祖父が言っていた。

 その言葉の意味をこんなに早くに知ることになるとは思わなかった。


 覚悟が出来たらまた来て下さい、と言って、医者の男は会社に出すための診断書にサインをして手渡した。

 僕は病院の外に出ると、その紙を細かく破いて、川に捨てた。




 冬眠というくらいだから冷凍庫に放り込まれるようなものを想像していたが、箱の中は思っていたよりも暖かかった。

 顔の部分だけ透明になっていて、まるで棺桶のようだと思った。


 僕が次に目覚めたとき、治療技術が完成しているという保証は無い。

 止まっていた時計の電池を入れ替えるように、また死へのカウントダウンが始まるだけかも知れない。


 けれども、悪いことばかりではない。

 僕が今まで通り起きて会社に行ったとしても、誰かの恨みを買って殺されるかも知れないし、思いがけず宝くじが当たってその結果強盗に襲われて死ぬかも知れないし、ただ歩いているだけでも車に撥ねられて死ぬかも知れない。


 人は老いる。

 ただ何もせず座っていたとしても、カウントダウンは進んでいる。


 そう考えると、老いることも無く眠ることを許された今の境遇が、とても、


 箱の内側に、煙のようなモノが吹き出した。息を吸い込むと、自然と瞼が落ちた。


 次に目を覚ました時、世界はどんな風に変わっているだろうか。

 夢のような技術が開発され、世界はまた一歩SF映画に近づいているかも知れない。

 もしかしたら、何も変わっていないのかも知れない。


 でも、それでもいいと思った。


 今、このままの僕で。

 ずっと先の未来をこの目で見届けることができるということが、とても幸運なことのように思えた。



 ――――暗転。

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