第9話 ナイトライト
席に戻るとすぐ、普通クラスの女生徒が声を掛けてきた。制服をきちんと着ている。野良ではない。リボンは紺色。同じ2年生だ。その女生徒から、聖書の先生が呼んでいるから一緒に来て欲しい、と言われた。私は席を離れるのに自分の荷物が心配で、山口くんに相談したら、自分で持っていた方がいいよ、と言われたので、荷物を持ってその女生徒に従った。
「あなたは野良じゃないね」
私はなるべく優しく響くようにその女生徒に話しかけた。するとその女生徒は立ち止まり、左手で私の右手を取った。
「手を繋いでいていい?」
とその女生徒は訊いてきた。
「もちろんいいよ」
私が右手を差し出すと、彼女はにっこりと微笑んで、私の手を取った。
「まず名前、名前を覚える」
と私が呟くと、彼女は
「美園」
と呟き返した。私は、美園、ね、の名前をなぞるように呟いた。小さく深呼吸して、ちょっと勇気を出して
「所属は?」
と私が言うと、彼女は少し悲し気に首を横に振った。私はその様子を見て頷くと、もう一度適切な言葉を探した。そして、しばらく間を置いて、はっと閃いた。
「”乙女の祈り”にしよう!」
と私は明るく響くように慎重に声を出した。彼女は首をかしげたが、心なしか顔が綻んでいるように見えた。彼女はおそらくバージンの誓いを守り切れていないのだ。だから私に対して遠慮がちに振る舞うのだ。でも制服を綺麗にきちんと着ていて、私と仲良くしたい素振りを見せてくれた。“乙女の祈り”、これは、制服を綺麗にきちんと着こなす私たちを表す、新しい誓いの言葉だ。
私はちょっと待ってね、と言って、彼女の手を離して、鞄の中にいくつかあるシュシュの中から、紺色のリボンの付いたものを取り出して、彼女の左手首に付けた。
「これ、”乙女の祈り”の証」
と私は言った。彼女は手首のシュシュに視線を落としたあと、私の顔を見て恥ずかしそうに微笑んだ。
そして、私たちはもう一度手を繋ぎ直し、職員室へ向かった。
聖書の先生の所へ行くと、荻野くんと斎藤宏介さんが並んで立っていた。私は斎藤宏介さんにネクタイを貸した張本人として呼び出されたのだった。斎藤宏介さんはブレザーも着ていた。翔之介が貸したそうだ。
海野先生が心配そうにこちらを見ている。
荻野くんが、斎藤宏介さんの訪問をきっかけにして、暗黙の了解となっていた放送室の秘密を公にし、今日を体育祭と文化祭の予行練習の日にしたいと申し出ていた。それを荻野くんと斎藤宏介さん、ふたりがかりで、聖書の先生を説得しているところだった。私も加わって三つ巴でお願いしようとのことで私も加勢することになった。
聖書の先生は、現役エースピッチャーと学校一の模範生である、体育祭実行委員長の頼みとあっては、・・・面白いから聞き入れてみよう、と話しを合わせてくれた。ただし、理事長には自分たちから話しをつけるようにとの条件付きで。
聖書の先生の計らいで、今日は授業が全クラス全日自習となった。
理事長とは、お昼休みにセミナーハウスで落ち合うことになった。理事長とは、実は野球部のOBらしい。野球部員にも知らない人がいるらしかった。
今日のことは野球部全員が周知の事実で、野良に荒らされる前に行事と放送を制圧しようと、野球部皆で前々から仕組んでいたことだった。毎年、体育祭や文化祭等のイベントの時の野良たちの素行の悪さには手を焼いていたので、それを上回る騒ぎをチームプレイの精神で発揮しようとのことだった。私が体育祭の実行委員長になったことで、特に野球部の朝練班が張り切って仕切っている。
荻野くんと斎藤宏介さんは放送室に向かった。放送室は職員室のある棟の3階にあって、外階段やグランドを見渡せる窓があった。
私は美園と一緒に、翔之介が待つ外階段へ向かった。
翔之介は私の姿を見つけるとほっとした顔をした。教室に居るとスピーカフォンの餌食になるかもしれないから俺と外階段に居て欲しいと言われ、私は頷いた。
私は美園と並んですわった。
予鈴が鳴った。
『全校生徒諸君』
校内放送が始まった。共学になって以来、初の放送。斎藤宏介さんの声。私は思わずその声を聞いて、左腕にはめられた腕時計を押さえた。
『ご機嫌いかがかな。俺の名前は斎藤宏介』
「その時計どうしたの?」
翔之介が訊いた。
「斎藤宏介さんがはめてくれたの」
私は手短に答えた。
『知らないとは言わせないぞ』
翔之介は、斎藤宏介さんの腕時計を私の腕から外すと自分の腕にはめた。
『今日は秘密基地団を代表して放送室をハイジャックしにきたぞ』
そして代わりに自分の腕時計を私の左腕にはめた。私は思わず可笑しくなった。翔之介は小さくひとつ深呼吸をした。
『では早速荻野くん一声』
斎藤宏介さんの声は滑らかに弾んだ。促されて、荻野くんの声がした。
『本日は聖書の先生のお墨付きで、全日全クラス自習とし、体育祭と文化祭の予行練習をする日とします。野良の野郎どもは我々野球部、特に朝練班の指示に従ってください。リョータは朝練班頼っていいから。野良のバンギャルどもは、どうすんの斎藤』
『藤くん出番です!』
斎藤宏介さんがひときわ大きな声で煽った。教室棟がもの凄い勢いで騒がしく震えた。
『すまねえ』
藤原さんの恥ずかしそうな声が響いた。その一言で、さらに教室棟が騒がしく震えた。
私と美園と翔之介は顔を見合わせて、微笑んだ。
今日はどんな一日になるんだろう。
『俺、マジパン先輩の本領発揮しちゃう』
斎藤宏介さんが可笑しそうに話し始めた。
『放送室ハイジャックの放送ハイジャック絶賛ONAIR中ね。楽しんで耳澄ませて聴いてね。俺がこうして活躍している間に、野球部員と一緒になって、とある理由のために、とある理由なんて言っても皆バレちゃうね。藤くん出禁をどうにかして文化祭乗っ取る計画を誠意遂行中だよ!出禁になった理由は訊かないでね!』
また教室棟が騒がしく震えた。
『みんなまとめてありがとうね。えーとエースのピッチャーは各々登板中で、凄いね、豪華布陣だね』
全校生徒をまとめて制圧するために野球部員が全員一致団結して廊下を動き回っていた。放送が始まってから騒ぎ出した生徒も大人しく席に着き始めた。
『俺、マジパン先輩として引き下がれなくなってきたな』
笑いが起きた。
『皆、笑ってくれてありがとう。え?マジパン先輩って、弥生が最初に俺に付けてくれた俺の呼び名。マジパンみたいな声、マジパン先輩って。言ったの。マジパンみたいな声、マジパン先輩って。そう、生徒会長より先。生徒会長って最初に呼び出したのは吉田の野郎ね。ちなみに俺、今日、英和の制服着ちゃってて、一日生徒会長って、体育祭実行委員長に任命されちゃった。聖書の先生にも報告済』
男子生徒の野次が飛んでいる。
『藤くんもいいよね、俺、今日、生徒会長で』
”藤くん”と名前が出ただけで学校全体がどよめく。
「聖書の先生も藤原さんのこと好きなんだって」
美園が小さな声で囁いた。だから大目に見てもらえるのかあ、と思った。翔之介が何故か私のあたまをぽん、とした。斎藤宏介さんのハイジャックは続く。
『で、俺の声がマジパンみたいなんだってさ。マジパンってマジックパンの略なの?チャマ、本当のこと教えて。チャマさんはね、今日はね、臼井でお留守番。ね、マジパンの続きね』
斎藤宏介さんは、私がマジパンの声って言ったとき、確か嫌そうな声で拒否していたのに、ずっとマジパンの話しをしている、と思った。翔之介は笑いながら耳を澄ませている。
『俺のマジパンの声。俺の声マジパンね。もういいよね。もう、俺の声マジパンで。これだと俺困っちゃう。ネタには困らないけれど、俺マジパンやだ。俺の声マジパンやだ。でもマジパン先輩で俺の手元狂っちゃう。で、マジパン問題。でね、おまえ失礼なやつだなあって俺の保護者が、笑って聞き流してくれたよね。弥生も大好きな俺の音楽の保護者ね。今日も居るよ。俺、ちょっとショック受けちゃって、マジパン素朴爆弾で。男の声で、マジパンはねえ、ひでえ!これがねえ、俺の本音』
翔之介がお腹を抱えて笑い出した。美園は機嫌良さそうに大人しくしている。私は斎藤宏介さんに申し訳ない気持ちで一杯になった。
『俺ね、あのあと調べちゃったの。マジ、かっこいいマジパンはねえのかって。で、あのねえ、それはねえ、嬉しそうに話してくれたよ、いつもの調子で。いやね、ずっと好きって言ってくれているけれど、俺の声』
確かに私は、斎藤宏介さんの声が好きで、そう言っていた。好きだからこそ、いろいろ呼び名をつけた。
『そのあとねえ、とってつけたように生徒会長って。生徒会長だから好きになったの?いつも困っている時には立法政府立ててあげているからね。マジパンって弥生にとってはじいちゃんからの愛の象徴なんだってね。じいちゃんが買ってくれたケーキには必ずマジパンがのっていたんだとさ。男は何かを我慢して、ケーキにマジパンふたつ乗せてあげてね』
私は翔之介の顔を覗き込んだ。翔之介は私にデコピンした。
『赤ちゃんみたいだな、発想が。俺と一緒の時はマジパンいらないよね。俺がHappyBirthday唄ってあげるから。え?俺がメリークリスマスって言ってあげるからね。王子様よりマジパン先輩の方が嬉しい。だって正義の味方みたいじゃん。これじゃあ俺、結局何が言いたいのかわからねえ。え?本題は、あるの。マジパン先輩ってジャンプのギャグ漫画に出てきそう』
翔之介が頷いている。
『俺がボーカリストって名乗る前からマジパン先輩って呼ばれてたな。歴史長いの。俺困っちゃう。でも、俺、マジ、草野正宗さんみたいになりたい。でも、俺に対する王子って弥生にとってはone songのフィリップ王子なんだよなあ。生徒会長のあとさ、こっちのほうがしっくりきたりして、とか言われてなあ。皆、俺のこと生徒会長って、呼ばないでね』
「誰も呼ばねー」
翔之介が呟いた。
『なんてね。今日は司令塔から指令が出たから満を持してって感じてこうしてやってきてハイジャックしてるわけだけれど、これで俺、ラジオになってんの?』
「なってねえー。ただのひとりごとだろ」
翔之介が呟いた。私と美園は顔を見合わせて笑い合った。
ハイジャックの放送が一旦中断された。
外階段に山口くんが駆けてきた。こっちに戻って欲しいって、と言われて、私たちは教室棟に戻った。
斎藤宏介さんの相棒の田淵さんが来校し、野球部員に囲まれていた。斎藤宏介さんと田淵さんは、ふたりで学園長に挨拶に行った。
私たちは4人で、私は荷物を持ったまま、自分のクラスではなく、職員室にいちばん近い、1階の普通クラスの教室に連れていかれ、窓側の席にすわるよう促された。荻野くんも側にやってきた。
そのあと放送室の機材が私たちの向かいの教室棟の3階の教室に移された。教室の電源を確認して、マーシャルの電源を確保できることがわかった。
野球部にはアコースティック隊と軽音楽部隊があることが明るみとなり、秘密組織と連携を取っていることがわかった。
ハイジャックの放送が再び始まった。
『ここは眺めがいいね。向かいの教室に手を振ってみよう』
斎藤宏介さんがそう言って、私たちに向かって手を振った。私たちは皆で、手を振り返した。
『はいはい、野次が凄い。フリースローね。今朝も弥生、冷静に決めていたよね。俺も見てた』
「斎藤!」
野球部員の野次が飛んだ。
『はいはい、ちょっと待っててね。弥生、朝練で鍛えた拾い上手の弥生に、おっぱいをまず拾ってもらえって野次から言われたんだけれど、おっぱいって何?凄い盛り上がっているけど、大丈夫なの?俺、おまえに投げていい?俺の荻野弥生、俺についてきて。俺、ちょっとあっち行く。ちょっと待ってて』
私は荻野くんの顔を覗き込んだ。バツが悪そうな顔をしながら、任せた、と言って、私の肩をぽんとした。私は斎藤宏介さんがやってくるまで待った。その間にこの教室にも仮の放送設備が設置された。どの教室でもマーシャルの電源が取れることが確認できたようだ。これで許可が下りれば、教室でのバンド演奏が叶う。
斎藤宏介さんが向かいの教室棟からやってきた。私のあたまをぽん、として撫でた。翔之介が斎藤宏介さんを睨みつけている。
私はひとつため息をついてから、
「体育祭実行委員長として」
と呟いて、自分の鞄から読み慣れた詩集を取り出した。それを両手で持って、斎藤宏介さんに表紙を手向けた。「すみれの花の砂糖づけ」だ。
「あ、あの時の詩かあ」
斎藤宏介さんは気が付いてくれた。
「ええ」
と私は言った。そして続けて
「妻にして」
と言った。
皆はぎょっとした顔をした。斎藤宏介さんは
「消しゴムの重さにはしないよ」
と言ってくれた。私は微笑んで頷いた。
「一編」
と私は呟いた。
「爆弾落として!」
野次が飛んだ。
おっぱい
「え?!」
おっぱいがおおきくなればいいのにとおもっていた。
外国映画にでてくる女優さんみたいに。
でもあのころは
おっぱいが
おとこのひとの手のひらをくぼめた
ちょうどそこにぴったりおさまるおおきさの
やわらかい
つめたい
どうぐだとはしらなかったよ。
おっぱいがおおきくなればいいとおもっていた。
おとこのひとのためなんかじゃなく
「バーイ、いわさきちひろ!!」
私の声は明るく元気よく響いた。
「おいおい、いわさきちひろにしかならねえ!」
またまた野次が飛んだ。
『はい、はい、弥生ちゃんが俺たちの野次と声援を拾ってくれたね。爆弾っておっぱい爆弾のこと?言った本人が一番驚いていたね。うん、うん、ひとつ前は「ちび」、ひとつあとは「じしん」なんだって。みんなも詠んでみよう。え?お返しに「おっぱい」唄え?おまえら、それが本当の目的か。俺たち草野正宗さんに本気で頭上がらない。弥生はこういう時どうするの?』
私は両手で耳を塞ぐしぐさをした。
『そうか、恥ずかしがって耳を塞ぐのか。可愛いな。俺本気で草野正宗さんに感謝しちゃう。俺たちまだ高校生だもんね。草野正宗のこんなんで、やべえ、俺草野正宗さんにこんなんとか言っちゃった。高校生が草野正宗さんの「おっぱい」って歌詞にタイトル。え?中身はたいして「てめえ!」落ち着け俺。エロくない?あっそう。草野正宗さんを召喚?俺たちの神?野次が盛り上がり過ぎて拾いきれない』
斎藤宏介さんは戸惑い気味に話している。
『いやもう、おっぱいっていう話題がね』
私は美園と顔を見合わせて微笑んだ。
「斎藤宏介さん」
私は落ち着いて響くように名前を呼んだ。
『なになに』
斎藤宏介さんは可笑しそうに返事をした。
「草野正宗さんは、もしかしたら女の子のためにわざと“おっぱい”っていう曲をつくったのかもしれないって思うんです」
私は照れながらもはっきりとした口調でそう言った。
『なんでそう思うの?』
斎藤宏介さんは真面目な顔して訊いてきた。
「だって、おっぱいの話題になってから、あななたちしあわせそう。平和がいっぱい」
私がそう言うと、翔之介が吹き出した。斎藤宏介さんは一本取られた!みたいな顔をして私を見つめた。
『・・・え?田淵が詩?詩を書きたくなったの?このタイミングで?田淵わらかさないで。もう、おもしろいから、おれみんなまとめてふしぎのおっぱいののろいって言っちゃう。これじゃあ俺の相棒草野正宗さんって言いだしちゃう。俺草野正宗さんに先に謝っとこ。おまえらも一緒に詫び入れといて。「すんませんでした」。おい、誰かツッコミいれてよ』
「斎藤、『おっぱい』唄えって」
野球部員が野次を飛ばした。皆、爆笑した。
『はいはい、そのうち、いつかね。いや、草野正宗さんだけで十分でしょ!』
斎藤宏介さんは慌てた素振りで言った。
お昼休みになって、セミナーハウスに集まった。山口くん、荻野くん、体育祭実行委員長の私と文化祭実行委員長の佐智子の4人だ。佐智子は同じクラスでダンス部。秘密組織に絡まれるのが嫌だと言っていたので、皆、黙っていたが、話しに参加していた方が身の安全を確保できるだろうとの山口くんの判断で、引っ張ってつれてきた。秘密基地団の方からは、斎藤宏介さんと田淵さんが参加してくれた。藤原さんとも電話中継が繋がっている。
聖書の先生の計らいで、斎藤宏介さんと田淵さんの分の給食(我が校は給食!)も用意してもらって、私たちはセミナーハウスで6人でお昼ご飯を食べた。こんなことは初めてだったので、私は少し嬉しく思い、音楽のことに話しが弾んだ。
そのあと、野球部顧問の小林先生と一緒に高橋監督も顔を出してくれた。高橋監督は通常、午後錬の時間になると来てくれるが、今日は騒ぎを聞きつけて駆けつけてくれた。高橋監督は私の姿を見つけると微笑んだ。
野球部OB代表、理事長は、来なかった。
山口くんと荻野くんは顔を知っているらしかったが、野球部員にすらもその存在は秘密裏にされており、やっぱり秘密裏にしておきたいとの言伝があった。
顧問と監督が、代わりに話しをしてくれた。
まず、予備電源含めて野球部用の設備を確認するものやめてほしい。野球部の方は練習見学するのに留めて女生徒を優先してほしい。野球部のグラウンドにはナイトライトがある。そのナイトライトの電源も含めて、セミナーハウスなどの野球部の設備は、大半をOB会の寄付で賄っており、もし確認するにしても、他校の生徒まで含めてだと今日は止めておいた方がいい、と。文化祭でグラウンドを使うことは、ちゃんと筋を通せば話しを聞いてくれる人も多いけど、肝心の野球部員の代表者が、文化祭でグラウンドを荒らされるのは困る、なんて発言しているようでは、OB会を説得するのは難しい、との意見だった。それから、すぐ近くにあるセントマーガレット病院の方々にも十分配慮しなさい、元気な姿を見せてくださいっていつも挨拶すると言われているから、と言われた。
私は中野と一緒で、グラウンドには神様がいる、と思うタイプの人間なので、グラウンドや設備を、しかも他校の生徒が使うのは難しいと思っていたけれど、やっぱりゆるしを得るのは難しそうだった。斎藤宏介さんは少しがっかりした表情を見せた。田淵さんは落ち着いていて、俺たちは教室を間借りするくらいがいいんじゃないか、と至極真っ当な意見を出してくれた。斎藤宏介さんのはせめて講堂で演奏したいと譲らなかった。山口くんはグラウンドの使用をOBの方も反対してくれたことにほっとしていた。
荻野くんが話しを続けた。
「で、続き。文化祭当日だけだったら、教室でなら病院に迷惑掛けても多少多めにみてもらえるんじゃないかって。病院にも電話して、気を遣いすぎッてわらわれたって。これ聖書の先生のお墨付きね。で、当日だけって言うのは守って。で、グランドは立ち入り禁止。車も駄目。病院の駐車場も使わない。それは俺たち野球部のOBも一緒だから。で、OBの代表の方も、病院に迷惑掛けないんだったらって、楽しみにしてたよ。で、これは内緒だけど、病院側も音漏れ楽しみにしている人も中にはいるだろうって」
これなら、グラウンドは搬入作業含めて使用は許可できないけれど、教室でならバンド演奏ができるかもしれない。斎藤宏介さんが少し考えてから話し始めた。
「教室間借りできるんだったら、藤くんがマーシャルの手配と車での持ち運び、搬入っていうのか手配してくれるって」
荻野くんも話しを合わせた。
「じゃあ、藤原さんは、野良部長と打ち合わせしてもらっていいですか?こっちまとめてんのあいつなんで」
『わかった』
電話口から藤原さんの声がした。
「電話繋がっていたんだ。俺も一緒にいますんで。ちなみに野球部にも軽音楽部隊とアコースティック部隊が居て、文化祭でのライブをぜひ成功させたいと思っています。実は、藤原さんの日本一の影響を受けてアコースティックギター習い始めたやつが居て、男でのトップバッター引き受ける覚悟でいます。藤原さんの厚意で、じゃああいつも打ち合わせ、一緒に。秦野っていうんですけれど」
荻野くんが言った。
「で、当日持ち寄れば、打ち合わせは治安維持のことだけ・・・。あいつ、秦野、文化祭のことすげー張り切っているから、佐智子は秦野のこと、生徒会の副会長って呼んでね。頼ってくれていいから」
山口くんが言った。佐智子はほっとした顔をした。
「使うのは教室だけ?」
佐智子は言った。
「体育館は、リョータが不安がってて、剣道部も嫌がってるから無理だと思う」
山口くんが言った。
「講堂は使えないの?」
斎藤宏介さんが言った。
「講堂は業者の清掃が入るから外部の人が使っても大丈夫だろうって聖書の先生が言ってたよ。でも普段、綺麗に使ってるから大切にして欲しいって」
山口くんが言った。
「わかった」
斎藤宏介さんは静かな声でそう言った。田淵さんも神妙な面持ちで頷いた。
「講堂使うならハンドベル部に訊かないと。多分、アコースティックだけにしてって言われると思うよ」
佐智子が言った。
「講堂でやるならアコースティックライブ限定で話し進めてみたらって、聖書の先生も言ってたよ」
山口くんが言った。皆は顔を見合わせて頷き合った。
教室でバンド演奏、講堂でアコースティックライブで準備を進めることで話しがまとまった。
そのまま講堂を案内することになり、ハンドベル部の部長の琴子も交えて講堂を訪れた。秦野くんたち野球部軽音楽部隊も呼んで、講堂の電源設備を確認したあと、私たちは、琴子にパイプオルガンを弾いてもらって、賛美歌を歌った。
いつくしみふかき ともなるイエスは
つみ とが うれいを とりさりたもう
こころのなげきを つつまず のべて
などかは おろさぬ おえる おもにを
いつくしみふかき ともなるイエスは
われらのよわきを しりて あわれむ
なやみ かなしみに しずめるときも
いのりに こたえて なぐさめたまわん
いつくしみふかき ともなるイエスは
かわらぬ あいもて みちびきたもう
よの とも われらを すてさるときも
いのりに こたえて いたわりたまわん
そのあと、田淵さんの意向で、図書室で聖書を読んだり賛美歌をなぞったりして過ごした。琴子と田淵さんは気が合うようで、一緒に聖書を読み込んでいた。
私はちょっと飽きたからという斎藤宏介さんに外階段に連れて来られた。
話しておきたいことがあるんだと真面目な顔で言われ、どうしたんだろうと思った。斎藤宏介さんは下北沢のステージで草野正宗さんの唄を唄っているという。そのきっかけは私だ、ということだった。私は以前から草野正宗さんの詩が好きで、ノートに書き写していた。そのことを人に話したのは、吉田先輩に「ホタル」を歌った時だった。私はそのとき草野正宗さんに”恋焦がれている”と言った。斎藤宏介さんは、女の子に恋焦がれられる詩人ってどんなもんだろう、と自分の好きな曲も「ホタル」だったから、一曲だけと思って、自分でも詩を書き写したんだそうだ。それから自分にとってSpitzが身近なものになって、唄ってみようと心に決めて、あとから私が最初に詩を書き写したのが「スカーレット」だと知って、一曲目には「スカーレット」を選んだんだそうだ。それまで洋楽のカバーを主にしていたのに、そのあと斎藤宏介さんのステージはSpitz一色になったそうだ。
それだならまだ良かったのだけれど、なんとそれが元で、草野正宗さん(ご本人ではなく関係者)に声を掛けられて、誰のために唄っているのかと問い詰められたのだそうだ。そして思わず、私の個人情報を言ってしまったらしい。
私は驚いて何も言うことができなかった。声を掛けてきた人は草野正宗さんにかなり近しい人で、自らを悪友であると名乗って、名刺を差し出しだのだそうだ。
草野正宗さんに会うときは一緒に会おうね、と頓珍漢な約束を斎藤宏介さんと一緒にした。私は斎藤宏介さんにSpitzの曲を唄って欲しいと言ってみた。斎藤宏介さんは照れた様子を見せ、「ハネモノ」を少し、口ずさんでくれた。私は外階段にピッタリの唄だと思っていたので嬉しくなった。
斎藤宏介さんが、私が彼の時計をしていないことに気付いた。斎藤宏介さんはちょっと困った顔をして
「俺の時計どうしたの?」
と訊いた。私はため息をつきながら
「翔之介に取られたの。翔之介が着けてる」
と言うと、
「あの野次男かあ」
とちょっとふくれっ面をして、翔之介を探しに行ってしまった。
私は誰も居ないグラウンドを見ながら、「ハネモノ」を歌った。
部活動の時間が始まると、斎藤宏介さんと田淵さんの他に、秘密組織のメンバーも姿をあらわして、講堂で、ハンドベル部とダンス部の部員たちと、文化祭についての打ち合わせをしていた。教室でのバンド演奏、講堂でのアコースティックライブ、もしかしたらいちばん楽しみにしているのは、聖書の先生かもしれない。
部活が終わって、部室で着替えて外へ出ると、斎藤宏介さんと田淵さんが待っていてくれた。もう黄昏時だった。私は斎藤宏介さんに、ネクタイを貸しっぱなしだったことに気がついた。斎藤宏介さんは、時計を取られた罪を、一曲唄ったら水に流して、そしたら返してあげると言ってきた。私はしばらく考えたあと、右の手のひらを斎藤宏介さんに向けて、小さな声で「時間旅行」を口ずさんだ。
指輪をくれる?ひとつだけ2012年の金環食まで待ってるから
とびきりのやつを そうよ 太陽のリング
『太陽のリングくれなんてスケールが大きいな』
電話越しに藤原さんの声がした。
「あー藤くんが喋っちゃった。今日も中継繋がっています」
斎藤宏介さんがそう言うと、まわりにいた部活終わりの生徒たちが野次を飛ばしてきた。
田淵さんはハンドベル部の部活を見学して、その演奏に感銘を受けたようだった。普段はしないけれど、講堂でアコースティックライブをしたい、と話してくれた。
その日の最後には野球部のグラウンドのナイトライトを、外階段から皆で眺めた。
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