天体観測

山本 日向

第1話 秘密の花園

 ここは秘密の談話室。謎多き理事長室の奥にあり、普通の生徒はその存在を知ることはない。

「ひとつ、制服をきちんと規定通り綺麗に着ること。ふたつ、聖歌隊として賛美歌を暗唱し礼拝では手本となるように歌うこと。みっつ、卒業するまで乙女の純潔を守り通すこと。以上、三つのことを推薦生、これからは模範生として必ず守ることを、荻野弥生、この場で神に誓いなさい」

 シスターは言った。入学式翌日朝一番の呼び出し。

「えと、えと」

 私は戸惑った。

「まずは制服。心身の乱れは服装にあらわれるものです」

「えと、制服は、きちんと着ています」

 校章のついたボレロ、ウエストの前後ろにふたつずつ金ボタンがついた紺色のミモレ丈のジャンパプリーツスカート、丸襟の白いブラウス、水玉のリボン、刺繍の入った三つ折りソックス。

「よろしい」

「えと、聖歌隊とは」

 トントン、とドアをノックする音がした。

「入りなさい」

「失礼します」

 背の高い、綺麗な顔立ちの女生徒がひとり談話室に入ってきた。髪はふたつに三つ編みにしている。

「須藤さん、自己紹介なさい。須藤さんはあなたの先輩よ、荻野さん」

「須藤理花子と申します。三年生です。荻野さんと同じ鏑木中学校の千葉英和高校推薦枠でこの学校に入りました。どうぞよろしくね」

 透きとおった、明るく響く声をしている。

「聖歌隊のことは、このあと須藤さんから聞くように」

「はい、わかりました。よろしくお願いします」

 須藤先輩は私と目が合うと、にっこりと微笑んだ。

「えと、えとあとあの、乙女の純潔を守り通すって、どういうことですか?」

 私は”三つの誓い”の中でいちばん気になったものの詳細を求めた。

「この学校の生徒、特に模範生であるからには、乙女の純潔を、つまり聖母マリア様のように処女を守り通しなさいと言っているのです」

 シスターの言うことはなんとも抽象的ではないか。

「処女の定義ってなんなんですか?守るべき乙女の純潔ってどういう類のものなんですか?」

 私の素朴爆弾ともいえる質問に、須藤先輩は手で口元を押さえ、笑いを堪えている。シスターはちょっと機嫌が悪くなった。

「中学校の保健体育で習ったでしょう? 」

そこから引用?!

「この学校の生徒であるあいだに妊娠に至るまでのすべての行為を致すことは、私も許しませんし、今の許すは許可の許よ。神も赦しませんし、今の赦すは赦免の赦よ。校内ではもちろんのこと、例え校外であっても、まとめてゆるしません。今のゆるすは平仮名よ。あなたもまず、”ゆるす”を使い分けることを覚えなさい。そして、ラブしたいのならこの学校にいる三年間はプラトニックを貫き通しなさい」

 シスターは至極真面目な表情を一寸も崩さずそう言った。私は内心ちょっと動揺した。ラブにはたいして興味がなかったし、プラトニックの定義ってなんなんですかって訊きたいし、いちおうお嫁に行くまで自分の体は大事にしなさい、と母に教えられていたし、普通に学校生活を送っていて乙女の純潔が脅かされる事態に陥ることがあるのかな。こんなところで入学早々、神にまで誓う程のことなのだろうか。

「プラトニックラブってキスは含まれるんですか?」

 須藤先輩が横から助け船を出してきた。

「須藤さん・・・」

 シスターは静物画の見本みたいに静止した。

「キスは・・・。キスは、ディズニープリンセス、に免じてプラトニックラブに含まれるものとします」

 シスターは自分から口にしておいて、”ディズニープリンセス”という言葉に少し恥ずかしそうな素振りを見せた。私もディズニープリンセスは大好きだったので、シスターのその素振りを見て、少しほっとした。

 いきなりの呼び出しに、何を言われるんだろう、と緊張していたことが、今更腑に落ちた。

「さあ、神に誓いなさい」

 シスターは再び神に誓えと私に迫った。やっぱり神に誓うのか。神ってどの神様だろう。氏神様の麻賀多様でいいのだろうか。私は再び戸惑った。

「シスター、神に誓うのではなく、ディズニープリンセスに倣います、でもいいですか?」

 須藤先輩が再び横から助け船を出してきた。

 シスターは顔を少しうつむき気味にし、頬を赤らめて微笑んでいる、ように見えた。

「いいでしょう」

 須藤先輩はここぞとばかりに私の手を取って、私に耳打ちした。

「一緒に言おう。せーの、ディズニープリンセスに倣うことを誓います!」

 私たちは声を揃えてそう言った。シスターは、今度ははっきり微笑んで頷いた。シスターは、聖母マリア様よりディズニープリンセスに倣うという生徒を受け入れてくださるのか。

「では、あなたには特別に”乙女のロザリオ”を授けます。これを乙女の誓いの証とし、肌身離さず、見に付けているように」

 そう言って、シスターは、私の首にロザリオを掛けてくれた。須藤先輩が、私もいつも身に付けているのよ、と大事そうにそっとブラウスの胸元から見せてくれた。この学校では卒業記念に卒業証書と一緒にロザリオが付与される習わしがあるが、それよりもひとまわり小さい、特別なものであると教えられた。シスターは、模範生としてのあなたを”乙女のロザリオ”と共に神が守ってくださいますようにと、静かに呟いた。私は自分の首にかけてもらったロザリオを両手でそっと包んだ。キラキラと輝く素敵なものだった。

「このあとチャペルに行って、まず、賛美歌の暗唱を指導するように」

 シスターは須藤先輩に向かって言った。須藤先輩は、はい、とお行儀よく返事した。

「”野良”に堕ちることのないように、十分に気を付けなさい」

 シスターは私を見て、怖い声を出してそう言った。”野良”ってなんだろうと思ったが、そのちょっと不機嫌そうな雰囲気に、聞きそびれてしまった。

 下がってよろしい、と言われ、須藤先輩と私は談話室をあとにした。理事長室の大きな窓からは、野球部が使う設備の整ったグラウンドが見渡せた。


「このあとチャペルに案内してあげるね、私のことは理花子って呼んで」

 理花子先輩は、さっきより親しみやすい雰囲気で話しかけてきてくれた。シスターはディズニープリンセスオタクで甲子園が大好きだから困ったらその話題を振ればやり過ごせるのよ、と教えてくれた。

「理花子先輩、チャペルってどこにあるんですか?」

「実はね、チャペルって講堂のことなんだけれど、ね。秘密の入り口から入る時にはチャペルって呼んでいるの。”乙女の秘密の花園”っていう、秘密の入り口よ」

 理花子先輩はいたずらっぽい笑みを浮かべながら、楽しそうに言った。

 この学校は、毎週月曜日の一限目に講堂で礼拝を行う、規律は聖書、校歌は賛美歌という特色を持った女子高だった。その名残からか、共学になってから、”秘密”と名の付くものがいくつも存在するようになった。”乙女の秘密の花園”と呼ばれるチャペルの秘密の入り口もそのひとつだった。

 講堂は入学式で入った。正門の正面にあり、建物三階建て分の吹き抜けになっている立派なものだ。入学式当日は教室棟から入る入り口を使用した。その入り口は2階部分にあり、入ると降りるように階段状に備え付けの長椅子が段々に並び、最階下の正面には壇上と、奥にステンドグラスと十字架が見える。簡易的なものながらパイプオルガンもある。高校の設備にしては素敵な講堂だ。

「今日は講堂ではなくて、チャペルへご案内しましょう」

 理花子先輩が楽し気に言った。”乙女の秘密の花園”からチャペルに入れるのは、推薦生とハンドベル部だけだという。

 教室棟の廊下を歩いていると、理花子先輩が不意に歩を止めた。

「”野良”よ」

 理花子先輩が小さな低い声で言った。

 見ると同じ制服とは思えない女子生徒の集団がこちらへ歩いてきた。ジャンパスカートの胸元部分を外してスカートを短く折り上げ、ブラウスは丸襟ではなく、腰にジャージを巻いている。リボンの代わりに男子生徒の制服のネクタイを結んでいる。刺繍のない紺のハイソックス。

 私たちは端へ寄った。”野良”の集団が通り過ぎるのを待った。理花子先輩は小さくため息をついた。

「あ、あれもよ」

 反対からふたり組の女生徒が歩いてきた。一見、きちんと制服を着ているように見える。しかし、よく見ると、ジャンパプリーツスカートのウエスト部分の前後ろにふたつずつついているはずの金ボタンがない。リボンも着けていないし、刺繍のない白いハイソックス。

「こっちの金ボタンなしの”野良”の方が、数は少ないけれどタチが悪いから関わる時には十分気をつけて」

 理花子先輩は小さな声で注意深くそう言った。

「去年の鏑木中からの推薦生は名実ともに”野良”に堕ちたのよ。もう仕方ない。だから、推薦生としての先輩は私だけだと思って」

「”野良”っていったい、なにものなんですか?」

 私はさっきからずっと疑問に思っていることを訊いてみた。

「”野良”ってねえ」

 理花子先輩は困った顔をして、不安そうな色を含ませた声を出し、

「”富士山”の信者なんですって”、男女共に」

 と言った。”富士山”?と私は繰り返した。男女共に“富士山”の信者で、風紀を乱す行いを成す生徒をまとめて”野良”と呼んでいるのだ。

「”富士山”って言われてなんのことかわかる?」

 理花子先輩に訊かれて、私は首を横に振った。

「そうか。知らないのか。実はね、私も興味がないから詳しいことはよくわからないの。弥生ちゃんは今、好きなひとっている?」

 そう訊かれて私は少し考えてから

「私はSpitzが好きです。Spitzの草野正宗さん」

 と正直に答えた。

 理花子先輩はより一層、困った顔をした。

「そう。うーん。”富士山”は皆から”音楽の神様”って言われているひとなのよ」

 一神教のカトリックを教義とする学校なのに、皆が信じる神様がふたりいるのか。やはり八百万の神の国の影響力は偉大だ。

「弥生ちゃんは草野正宗さんが好きなら”野良”に狙われないように気を付けたほうがいいなあ」

 理花子先輩は首をかしげて弱く微笑みながら私の顔を覗き込んだ。

「どうしたらいいんですか?」

「”野良”のことはね、野球部員に任せておくしかないのよ。野球部員の治安維持部隊にね。詳しいことは野球部員に訊いた方がいいと思うな」

「野球部の方に訊くのがいいんですか」

「そう。野球部員は全員坊主だから、ひとめでわかるでしょう?野球部員は理事長のお墨付きで信頼できる。この学校で、生徒の中で一番の頂点にいるのは、野球部のエースのピッチャーだから。で、とりあえずね、”俺の女”にならない?って言う男のひとは”野良”の一味だから、そう言うひとには気を付けたらいいんじゃないかな」

 女子高から共学になった学校は荒れやすい。この学校はそれを回避するために、共学にする時に野球部員になる生徒を特別枠で募集し、野球部員を男子生徒の模範生とし、規律や校風などを保つための、学校を守る礎とした。加えて、重要事項の決定権を持つ理事会は、ほとんどが野球部のOBであった。野球部の存在こそが、この学校の新しい伝統なのだ。

 すべての教室の窓からは中庭が見渡せる。中庭に面してぐるりと校舎があり、向かい合わせに3階建ての教室棟。正門側に職員室や事務室、家庭科室などのある棟があり、奥側は図書室のある棟。その横に英語科の別棟がある。

 私たちは一旦昇降口から外に出て、”乙女の秘密の花園”と呼ばれる秘密の入り口から”チャペル”に入った。

 聖書の先生とハンドベル部の部員が出迎えてくれた。聖歌隊は推薦生とハンドベル部の部員で構成され、聖書の先生の管轄の元に活動している。

まずは讚美歌。理花子先輩はパイプオルガンを弾いてくれた。私は理花子先輩がパイルオルガンを弾く隣にすわって、一緒に賛美歌を歌った。ハンドベル部がパイプオルガンに併せてハンドベルの演奏をしてくれた。


    いつくしみふかき ともなるイエスは

    つみ とが うれいを とりさりたもう

    こころのなげきを つつまず のべて

    などかは おろさぬ おえる おもにを


    いつくしみふかき ともなるイエスは

    われらのよわきを しりて あわれむ

    なやみ かなしみに しずめるときも

    いのりに こたえて なぐさめたまわん


    いつくしみふかき ともなるイエスは

    かわらぬ あいもて みちびきたもう

    よの とも われらを すてさるときも

    いのりに こたえて いたわりたまわん


 賛美歌はシンプルで綺麗なメロディの繰り返しから成る音楽で、暗唱するのは容易だった。私が賛美歌を直ぐに暗唱したので、理花子先輩はパイプオルガンの弾き方も教えてくれた。私はハンドベルの可愛らしい音色にももちろん、パイプオルガンの荘厳な音色にも感激した。

そのあと、聖書の先生の元、チャペルに敬意を払ってお祈りの言葉を捧げた。


    天にまします我らの父よ。

    願わくは御名をあがめさせたまえ。

    御国を来たらせたまえ。

    御こころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。

    我らの日用の糧を今日も与えたまえ。

    我らに罪を犯すものを我らが赦すがごとく、我らの罪をも赦したまえ。

    我らを試みにあわせず、悪より救いだしたまえ。

    国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。

    アーメン


 私は推薦生の習わしに従って理花子先輩と同じ図書委員会に所属することになった。私は本が好きなので、図書委員会に入って、放課後を図書室で過ごせるのは嬉しい。

 図書室は3階建て分の吹き抜けになっていて、棟全体が図書室のような作りになっている。座席数は少なめだが、窓が小さく蔵書に偏りがあるために利用者が少なく、居心地が良い場所だ。

 放課後の図書室で、理花子先輩がこっそりと秘密を打ち明けてくれた。

「弥生ちゃんには私のとっておきの秘密を言っておかなければならないわ。私、剣道部員の男子生徒とお付きあいしているの。一年生の時からの付き合いよ。でね、実はね、私たちのお付き合い、プラトニックなラブではないのよ、ふふ。シスターには秘密よ」

 私は理花子先輩の秘密の告白に驚いた。返す言葉が思い付かない。

「そうそう、剣道部員も坊主だから、守りは超強力よ」

 理花子先輩はそう言って微笑んだ。坊主かどうかが重要なのか?ディズニープリンセスに何を倣うというのか。乙女の誓いは辛くも既に瓦解しているではないか。

 

 

 

 

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