十九【着物】(2021/12/19)

 日の暮れた裏手の井戸で母に洗われ、髪と衣を整えた父は、帰ってきたばかりの姿と比べるといくらか見れるようになった。

 それでも髭が顔のほとんどを占める大柄な父の姿は、確かにシュリンが母が食べられてしまうと怯えたほどには熊や山賊っぽい。

 結局今もそんな父に背から抱えられている母は「シュリンちゃん、大丈夫だからね」と怯えるシュリンを慰めはするものの、隙を見て父の腕から逃げ出そうとしているので、タンザから見ても説得力がなかった。

 ずっと疑わしそうにびくびくしているシュリンに、タンザは「害はないから」と声をかけ、座るように促す。


「で?」


 タンザは、突然帰ってきた父のクマに聞いた。


「ここ出てった後、父さんはどうしてたわけ?」

「いやぁ、伝説の魚はいなかったよ」


 げっそりしている母のユノを後ろから抱きしめたまま、父のクマはのんびりと言った。


「いないらしいことがわかったら、ユノちゃんが恋しくなって急いで帰ってきた」

「あたしが止めるの聞かずに出てったくせによく言うわね、この口は。全然帰ってこないし、どんだけ心配したと思ってんの」


 にこにこしているクマの髭面をユノはべしべしと叩く。

 物心ついた時から常にこの感じなので、タンザは両親のやりとりを無心で受け流した。


「でもね、ユノちゃん。おかげで帰りに一人見つけてね、謝られたよ。お金の目処がついたって言ってたから、一人分は大丈夫」

「「え!?」」


 声をあげた妻と息子に、クマは大きく頷いた。


「本当だよ。さっきソリくんまで一緒に着いてったから、安心して」


 まずは一人分なんとかなった、とクマはのんびり言った。


「あと、伝説の魚はいなかったけど、道すがら川で獲った魚がこの間、なぜかやたらと高値で売れてね。他にもぬかるみに嵌っちゃった荷馬車を動かすのを助けたら、それが随分よいところの人だったみたいで、謝礼をたくさんくれたんだ」


 それでまぁ泥だらけだったんだけど、と言い訳する。


「その分も、ソリくんに返してきた。ユノちゃんとタンザもこの間、随分稼いで返済してくれたんだってね。おかげで、あとちょうど三十五万イエンだって言われたよ」

「三十五万イエン……」


 大分、現実的な数字になってきて、タンザは腕を組み黙り込んだ。

 およそこの家の三月みつき分の稼ぎだ。

 時間さえあれば返せない額ではないが、問題は期限が約十日後に迫っている点だった。


「もしかしてお金が必要なのですか?」


 静かにあがった疑問の声に、タンザとユノは、ぐっと押し黙った。

 クマだけが「そうそう。困っててね?」と素直に返答し、ユノにまたべしりと叩かれる。

 シュリンは、タンザの袖をついと引っ張った。


「わたしの着物、どうでしょうか。前に、ユノさんが教えてくださりました。ここではとても値打ちのある、上等なものだから大切にしたほうがよい、と。よいものならユノさんの商品みたいに、市場で売れませんか?」


 小首を傾げたシュリンに、タンザとユノは揃って首を横に振った。

 そのせいで余計にはっきりと売れると悟ってしまったのだろう。

 タンザ、とシュリンが袖を掴む力が増した。


かんざしはお渡しできませんが、着物はなくとも、さほど問題はありません。これまでタンザとユノさんからは、たくさんたくさん、いただきました。お返しに、なりませんか?」

「ダメ!」


 ユノは厳しい顔をして、シュリンの言葉を遮った。


「シュリン」


 タンザは、隣に座る少女を嗜める。


「シュリンの気持ちは嬉しいけど、おれらはお返しがほしくてそうしたんじゃないよ」


(そりゃあ売れそうだなって、考えなかったといったら嘘になるけど)


 内心でぼやいて、タンザはほろ苦く笑う。


「あれはシュリンが持っていた数少ない物のうちの一つでしょ。いつか手放したこと、シュリンに後悔もさせたくない。それにつくったツケは、自分らで払わないといけないから」

「ですが」


 言いながら、シュリンはユノに目を向ける。ユノからも再び首を振られ、シュリンは悄然となった。


「やぁ、いい子だねぇ」


 クマはユノの肩を引き寄せて、笑った。


「残念だけど、ユノちゃんとタンザがダメって言うなら、君の着物は受け取れないかな? タンザのいうツケは、もともとおれのだしね?」

「でも」


 言い募るシュリンを前に、そうだねぇ、とクマは首を捻った。


「えっとね、シュリンちゃんだっけ? それ以上ごねたらユノちゃん食べちゃうけど、いい? だから嫌なら、諦めな? ね?」


 急に何言ってんだこの父親は、とタンザが呆れれば、その隣でシュリンがぴしりと固まっていた。

 目の前でまさにユノの頬に向かって口を開いたクマを見て、シュリンが震えながら声にならない悲鳴をあげる。


「ぶくくっ……かわいいね、この子。しばらく、はまってしまいそう」


 身体を曲げて笑い出したクマに、タンザとユノは全力で殴りかかった。


「ふざけるのも大概にしろ、このクソ親父!」

「信じらんないっ! シュリンちゃんになんてことすんの!? 真っ青になっちゃったじゃない、かわいそうに!!」


 その夜、シュリンはことあるごとにユノの頬がなくなっていないか確かめて、そのたびに隣で笑いを噛み殺すクマを、タンザは後ろから無言ではたくことになった。

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