第28話 旅立ち
尚書右僕射シスムの主導する講和策は、順調に進んでいるように見えた。
翼人の軍は帝都北方で軍を止め、和睦交渉に応じている。
巨額の賠償金の支払い、後宮の美女をはじめとする帝国人の奴隷の献上、そして皇女リーファの人質としての提供、という屈辱的な条件ではあったが、ともかく帝都陥落という最悪の事態は回避されそうだった。
こうしたなか、内親王府典軍レンリに与えられた任務は重大なものだった。
一つはリーファを翼人のもとへと無事に送り届けるということ、そしてもう一つは翼人との交渉に当たるということだった。
リーファは形式上、翼人との交渉への使者ということになっている。
が、他にも外交を担当する進士派の官僚たちが翼人のもとへ派遣されているから、彼らが講和交渉の実質的な責任者だった。
最終的にはシスム自身が出向くことになるだろう。
だから、レンリが翼人と交渉しなければならないのは、リーファの待遇をいかにマシなものにするかということだった。
リーファが奴隷のような扱いを受けるということは帝国の権威に関わるし、何よりレンリ自身が耐えられない。
いよいよ出発当日の朝になって、レンリは内親王府の前に集まった面々を見回した。
護衛の兵たちがほとんどだが、中には女性が混ざっている。
第一にリーファの侍女たちで、第二に帝国後宮にいた美女たちだ。
いずれも翼人に捧げられ、奴隷としてその慰みものとなる可能性が高い。
なかでもひと際目を引いたのは、先帝の寵妃だったライラという女性だ。
彼女はもともと帝都の踊り子という低い身分だったが、年老いた皇帝の目に止まり、後宮に入れられた。
ちょうどセレカと同い年の二十三歳だが、セレカが清楚な可憐さを感じさせるのに対し、ライラは栗色の美しい髪が魅力的な肢体にかかった、妖艶な美女という感じだった。
ライラは皇后に次ぐ貴妃であり、レンリのような中堅官僚よりもよほど身分は高い。
「あなたが北辺の英雄さん?」
レンリはライラに問いかけられて、彼女の前にひざまずいた。
「そう呼ばれていることは確かですが、しかし私はただの辺境に左遷されていた武官です」
ライラはうっすらと笑った。
「そうかしら。役立たずの貴族たちの代わりに翼人を撃退したのだから、英雄と呼ばれるのもふさわしいと思うけれど」
「過分なお言葉、ありがたく思います」
このようにレンリはライラを先帝の妃として丁重に扱っているが、実のところ、レンリはライラを監視しなければならなかった。
ライラだけでなく、この場にいる女性たちは翼人のもとへ行くことを恐れ、逃亡する可能性があった。
彼女たちの身柄も講和条件の一つだから、どうしても翼人たちのもとへと差し出さなければならない。
嫌な役回りだな、とレンリは思う。
彼女たちに待つ悲惨な運命を知りながら、レンリは何も打つ手がなかった。
ライラはくすっと笑い、レンリの頬に手を触れた。
驚いてレンリがライラを見ると、ライラは綺麗に澄んだ瞳でレンリを見つめた。
「あたしが逃げると思っているのでしょう?」
「いえ……」
「心配しなくても、大丈夫よ。私はもともと奴隷みたいな低い身分から、先帝陛下のおかげで妃になれただけだし。だから、帝国には恩返しをしたいの」
「それは誠に結構な志です」
「それに、年老いた先帝陛下のものになるのも、翼人のものになるのも、それほど変わらなさそうだし」
ライラはなんでもないことのように、さらりと言った。
この女性はなかなか食わせ者かもしれない。
とはいえ、護衛の兵たちにライラたちを監視させないわけにはいかなかった。
女性という意味では、もうひとり、予想外の人物が一行には加わった。
レンリの従者のアイカだ。
レンリに言わせれば、翼人の地に赴くのは、アイカにとってあまりに危険だ。
もしレンリに万一のことがあれば、アイカも翼人に捕らえられてしまう。
そうなればアイカも犠牲となるのだ。
だから、レンリはアイカを説得しようとしたのだけれど、それは不可能だった。
「わたしはレンリ様の従者です! どうしてレンリ様についていってダメなんですか?」
「危険だからだよ。アイカはセレカのもとにとどまって、科挙の勉強を……」
「帝都だって安全とは限らないです。それに、もしレンリ様が危険な目にあっているなら、わたしはレンリ様の力になりたいですから。わたしだって、少しぐらいはお役に立てます!」
たしかにアイカは弓に秀でた能力を持っているし、それ以外の武術にも長けていた。
なにより、レンリにとって、アイカは最も信頼できる仲間の一人だった。
レンリは悩んだが、結局、アイカの同行を認めた。
アイカがいることは自分の力になるし、逆にアイカが危険にさらされるなら、レンリがアイカを守ればよい。
アイカの言う通り、帝都にいたからと言って安全とは限らないのだ。
なら、手元に置いておくというのも良いだろう。
そして、レンリはこのとき、アイカを連れて行ってよかったと思うことになる。
なぜなら、帝都はほどなくして翼人の手に落ちたからだ。
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