第30話 恋人の聖地

「ついに館山たてやま市に入りましたよ」


 道の両側に高くそびえるヤシの木を眺めながら、一直線に伸びた道をまっすぐ進む。

 夏らしい強い日差し、突き抜けるような青空、そして生命力にあふれたヤシの木。まるで南国リゾートにでも来たかのような雰囲気に、心がしぜんと弾み出す。


「律くん、お昼はどこで食べるの?」


 まもなく十二時。食事をするにはちょうどいい時間だ。


「ちょっと気になっているところがあって。海沿いにある施設なんですけどね」

「そう言えば、律くん、海の幸が食べたいって言ってたもんね。行こう行こう」


 市街地には全国チェーンのスーパーやホームセンター、飲食店などが並んでいる。便利で住みよい街のようだ。

 けれども、今僕たちが求めているのは便利さやありふれた日常じゃない。その土地でなければ味わえない、旅先ならではの非日常なのだ。

 踏切を越え、市街地を抜けると、僕たちを乗せた車はついに海岸線へと突き当たった。


「海だーっ!」


 綾さんが笑顔で声を上げる。目の前に突如開けた海辺の景色に、僕の気持ちもしぜんと高まってくる。


「サーフボードを持って歩いている人がいますね」

「千葉は今年も海開きはしないって聞いていたけれど、サーフィンはいいのかな」


 本来なら海水浴客でにぎわうシーズンなのだろうけれど、例年通りとはいかないのが寂しいところだ。けれども、地元の人たちは節度を守りながら海を楽しんでいるみたいだ。


 海沿いの一本道を慎重に走っていると、ようやく僕が目指していた施設が現れた。


「綾さん、着きましたよ」


 幸い障害者用の駐車スペースが空いていたので、今回も停めさせてもらう。

 助手席から降り立った綾さんが、両手を伸ばし、大きく深呼吸する。


「ん~っ、海の匂いがする~!」


 海に面したこの施設は、道の駅ならぬ海の駅とでも言うべき場所で、地域の農作物のほかに、千葉の海で取れた海産物や加工品を数多く取り扱っている。

 また、レストランやカフェ、博物館などが併設されており、さらには館山の海に生息する魚や生き物たちが泳ぐ巨大な水槽まで置かれていた。これなら訪れた子供たちも大喜びだ。


「へえ、スイーツもあるんだ。美味しそう」


 一階の売り場をのぞいてみると、特産品のほかにお菓子やケーキまで売られていた。見ているだけでも楽しい気分になってくる。


 レストランは二階にあった。

 受付の機械で順番を取り、メニュー表を眺めながら、呼ばれるのをしばらく待つ。

 海鮮丼やお刺身定食といった定番のものもあれば、アクアパッツァや魚介のパスタなど、洋風のメニューもある。


「お腹空いたね。律くんはどれにする?」

「やっぱり海鮮丼に惹かれますけど、金目鯛の煮つけも美味しそうですね。この『なめろう』って食べたことがないんですけど、美味しいんですか?」

「美味しいよ。『なめろう』は鯵のたたきでね、千葉ではよく食べられているよ。お醤油で食べてもいいけれど、私は梅酢をつけて食べるのが好き」

「そう言われると、ますます迷っちゃいますね」


 やがて僕たちの順番となり、お店のなかに案内された。


「わっ、すごい! オープンテラスになってる!」


 なんと、おしゃれな店内は海が臨める展望デッキとつながっており、吹き抜けのテラス席も用意されていた。海からの爽やかな風にそよがれたり、波の音を聞いたりしながらの食事も楽しそうだ。


 結局、僕は海鮮丼、綾さんは生しらす丼を注文した。

 お値段はそれなりにはするけれど、ここは思い切って奮発する。食事は旅の醍醐味だし、なにより綾さんにケチな男だと思われたくなからね。


 やがて海鮮丼が運ばれて来た。

 まぐろに海老、いくら、ウニ、鯵にしらすにと、数多くの種類のお刺身が丼ぶりにところ狭しと敷きつめられ、まさに宝石箱のように輝いている。


 それから、小さな器に見慣れぬものが盛りつけられていた。


「綾さん、これは?」

「お酢のジュレだって。さっきお店の人が言ってたよ」


 少しつまんで食べてみると、たしかにお酢の味がする。けれども、ただ酸っぱいだけでなく、柑橘類のような風味もあって、なんとも上品な味だ。


「こんなに贅沢してもいいんですかね?」

「いいんじゃない? 律くん、普段アルバイト頑張っているんだもの。たまには自分へのご褒美があってもいいんじゃないかな」

「僕にとっては、こうして綾さんと過ごしているだけで、すでにご褒美なんだけどな」

「もう、そういうのいいから。食べよう」


 気恥ずかしそうな綾さんに催促され、いただきます、と手を合わせてから海鮮丼にかぶりつく。


「美味しい! やっぱり海で食べると違いますね」

「そりゃそうだよ。だいたい、律くん、お刺身なんて普段食べるの?」

「夕方スーパーで安くなっていた時に、たまに」

「生活感がにじみ出ているなあ」


 綾さんが困ったように苦笑する。

 一人暮らしの学生にとって『割引』の二文字ほど魅惑的なフレーズはないからね。許してほしい。


 やがて食事を終え、すっかり満足すると、そのまま展望デッキへと足を運んだ。


「気持ちいい~っ!」


 広大なオーシャンビューを前に、綾さんが海の空気を胸いっぱいに吸いこむ。


 澄みわたった青い海と空を背景に、海風にさらわれた長い髪を抑え、まぶしく微笑む綾さん。まるで芸術的な絵画のように優美で、思わずドキッとしてしまう。


 こんなに綺麗な人が僕の彼女だなんて、毎度のことながら信じられない。この幸運に感謝しなきゃ。


「見て、律くん! 富士山まで見えるよ」

「今日は天気がいいですからね。ラッキーでしたね」


 遠景には、日本の美を象徴するかのような雄大な富士の姿。

 そして階下に目をやれば、陸から海に向かって突き出した長い桟橋の上を、子供たちや家族連れが楽しそうに歩いている。


 こうして綾さんと一緒に海辺の絶景を眺めていると、なんだか恋愛映画のなかにいるかのような錯覚に陥ってしまう。

 映画のヒロインは、もちろん綾さん。

 そして、主人公は僕……って、ちょっとずうずうしかったかな?


 綾さんはアイドルのように可愛いから絵になるけど、僕はそうはいかない。綾さんとつり合いの取れる彼氏になるには、あと何年くらい必要だろう? 


「ん? なんだ、これは?」


 展望デッキをゆっくり歩いていた綾さんが、建物に飾られたあるプレートを目ざとく見つけ、首をかしげる。


 そこには、立派な文字で『恋人の聖地』と書かれていた。


「ははあ。律くん、やったな」

「な、なんの話です?」

「どうりで律くんが私をここに連れて来たかったわけだ。律くんって、意外とロマンチストだもんね」

「だから、違いますって。たまたまです」


 僕は顔を赤らめながら否定する。


 そして、想像を膨らませる。


 将来、斜陽がきらめく夕暮れ時のオレンジ色の海を背景にプロポーズをしたら、綾さん、OKしてくれるかな? 


 海風に吹かれながら、ふとそんなことを考えていると、綾さんがすっと手を伸ばしてきた。

 綾さんの柔らかい手が、僕の手と重なる。

 驚いて、綾さんの顔をふり返る。

 綾さんは甘く蕩けるような笑みを僕に向けてくれ、ぎゅっと恋人つなぎをしてくれた。


「律くんのことだから、こうしてまた手をつなぎたかったんでしょう? しょうがないなあ」

「手をつなぎたかったのは綾さんでしょう?」

「じゃあ、離す?」

「……いえ、もう少しこのままで」


 僕は自分の気持ちに素直に従い、綾さんの手をそっと握り返した。

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