第24話 ティア・ドロップ
円形のセンターステージを囲むように、パイプ椅子が規則正しく並んでいる。段差のない平面だから、綾さんには歩きやすくていいけれど、後部座席だと見えにくそうで、ちょっとハラハラする。
僕たちは観客の波に流されるように、前の人に続いてゆっくりと進んでいく。
「どの辺ですかね? 僕たちの席」
「こっち、こっち。Aブロックって書いてある」
綾さんが会場に立てられた表示を頼りに僕を導く。表情は真剣そのもので、このライブにかける綾さんの熱意が伝わってくるかのようだ。
やがて、綾さんが僕たちの席を見つけてくれた。幸運にもステージが比較的見えやすい通路側の席だった。
「よかったね、いい席で。律くん、引き良すぎだよ」
「今回は綾さんのために運を使い切った気がするなあ」
「ありがとう。次の機会には私の運を分けてあげるからね」
綾さんは機嫌よさそうにコロコロと笑う。ライブまでまだ時間はあるけれど、綾さんのテンションはすでに高まっているようだ。
パイプ椅子はびっしりならんでいるものの、密にならないよう、一つずつ間隔を開けて座るように指定されていた。ゆとりがあるのは、ライブ初心者の僕には嬉しい。
「よいしょ、と」
綾さんはとなりの空席に荷物を置くと、パイプ椅子へと慎重に腰を下ろした。
普段はテーブルや肘かけを支えにしながら座るけれども、簡素な作りのパイプ椅子には身体を支えてくれるような肘かけがないから、ずいぶん座りにくそうだ。
「綾さん、大丈夫ですか?」
「ありがとう、気にしてくれて。それより、律くんってライブ初めてだったよね?」
「はい。綾さんが連れて来てくれなければ、永遠に来ることはなかったかも」
「いい経験ができてよかったね、律くん。もっと私に感謝してくれてもいいよ」
「調子いいなあ」
「で、どう? 初めてのライブ会場は?」
「女の人だらけで圧倒されています」
僕の返答に綾さんが笑い出す。
周囲に目を向ければ、観客の九割は女性である。さすがは男性アイドル育成ゲームのライブ。僕みたいな男が軽い気持ちでやって来る場所ではないらしい。
「ところで、律くん。推しは見つかった?」
「僕の推しは綾さんですけど」
「もう、そういうのはいいから」
「昔はもっと恥じらってくれたんだけどなあ」
「律くんにさんざん言われて慣れました。それより、律くんはどのキャラが好き?」
「僕が男性アイドルを好きになってもいいんですか?」
「もちろんだよ。きっと需要あるよ」
「なんの需要ですか」
男性アイドルを推してライブにまで来てしまう男性ファン。男が男に惚れることもあるのかもしれないけれど、ちょっとBLっぽい世界を想像してしまった。
観客席には入れたものの、開演まではまだ一時間近くもある。
僕は周りの見学もかねて、トイレへと向かった。
途中、車椅子用の観覧席があるのを僕は見つけた。センターステージからはやや距離がある壁際の席だけれど、視界をさえぎる物はなく、ステージの様子はよく見えそうだ。
綾さんもいつかはこういう席でライブを鑑賞する日が来るのだろうか?
今でも足は悪いのに、自分の足で歩けるのだから、といつも気丈にふるまう綾さん。そんな綾さんの未来に暗い影が差す時、僕は胸を締めつけられるような、たまらない気持ちになる。
万が一、綾さんが歩けなくなったら――その時は、僕が綾さんの足となっていろんな景色を見せてあげよう。
席に戻ると、綾さんがたずねてきた。
「どう? トイレ混んでた?」
「男性側は空いていましたけど、女性のほうは列ができていたかも」
「それじゃ、私も今のうちに行っておこうかな」
綾さんがパイプ椅子から立ち上がろうとする。
僕も一緒に立ち上がり、綾さんに手を差し伸べた。身体を支える物がないのなら、僕が支えになればいい。
綾さんは一瞬驚き、僕を見上げると、柔らかく微笑んだ。
「ありがとう、律くん」
綾さんが、高貴なプリンセスのような優雅さで、僕の手にそっと自分の手を添える。僕は綾さんの手を強く握り、身体を引き起こしてあげた。
手のひらから、綾さんの温もりが伝わってくる。見つめ合う僕たちの目が、互いに笑い合っていた。
それから、およそ一時間後。
頭上の大きなモニターが光り、映像が流れ出したかと思うと、ついにキャストたちがステージ上に勢ぞろいした。いよいよライブのはじまりだ。
座席に座っていた観客たちが、一斉に立ち上がる。
本来なら「ワアァーッ!」と大きな歓声が沸き立つのだろうけど、コロナ禍とあって声は上げられない。
けれども、ペンライトをふる観客たちの一糸乱れぬ挙動からは、声なき声が不思議と響きわたるのだった。
綾さんもやや遅れて立ち上がり、まばゆいステージに釘づけになりながら、取りつかれたように懸命にペンライトをふっている。
――『退院したら、絶対に現地に参戦するって心に決めて、今日まで生きてきたの』
かつて綾さんに告げられた言葉が、僕の耳によみがえる。
綾さんが闘病生活の最中に夢にまで見たライブだもの。雪斗に綾さんの心を奪われるのは悔しいけれど、それ以上に、綾さんには今日のライブを楽しんでもらいたい。
雪斗を演じる声優さんは、王子様のような白い衣装を身にまとい、圧巻のパフォーマンスを僕たちに見せつける。
その軽やかな舞いに、芯の通った美声に、光り輝く爽やかなきらめきに、綾さんはおろか僕まですっかり魅了されてしまった。
はじめに二曲が披露されると、自己紹介をかねたMCパートがはじまり、今度は観客が一斉に座りはじめた。どうやら歌の時は立ち上がり、MCパートは座って眺めるシステムらしい。
「はあぁ~……」
雪斗の声優さんが話し出すと、綾さんはご神託を受けた宗教の信者みたいに手を合わせ、うめき声をもらして感動に打ち震えていた。
綾さん、オタクっぶりがにじみ出ちゃってますよ。
やがてMCパートが終わるとまた次の曲がはじまり、綾さんも周囲にならって立ち上がった。
こうして、立ったり座ったりをくり返していた綾さんだったが、ライブが終盤に差しかかる頃、ついに異変が起こった。
MCパートが終わって曲が流れ出しても、綾さんがまったく立ち上がろうとしなくなったのだ。
――綾さん、やっぱり足が痛くなって、動けないんじゃ……。
別に立ち上がることは強制ではないから、座ったままライブを楽しめばいい。けれども、いくら見通しが効く通路側の席とはいえ、立ち上がった観客たちの壁に視界をさえぎられては、ステージの様子はまるで見えない。
綾さんは顎を上げ、なんとかステージをのぞきこむようにしながら、健気にペンライトをふり続けている。
気づけば、綾さんの目からは涙が溢れ、細い肩が震えていた。
僕は心臓をぎゅっと握られたかのような息苦しさに襲われた。
――綾さんはなぜ泣いているんだろう?
ずっと心の支えだった雪斗のライブを生で見られて感動したから?
それとも、せっかくライブに来ておきながら、立ち上がることさえままならない己の運命を嘆いているから?
綾さんの胸の内は、はっきりとは分からない。
けれども、僕には後者なのではないかと感じられるのだった。
病気にさえならなければ……。
障害さえ抱えていなければ……。
普段からなんでも健常者と同じように生活を送っている綾さんが、よりによって、夢にまで見たライブで他の観客と同じようには動けない残酷な現実を突きつけられるなんて……。
僕はそんな綾さんの悲痛な思いを想像し、ひとり胸を痛めたのだった。
三時間のライブは無事閉幕し、会場を包みこんでいた熱気も、祭りの後はしだいに熱を失っていく。
僕たちはライブ会場を離れ、雨が降る夜を傘をさして歩き出した。
「律くん、今日はありがとうね。律くんのおかげで夢が叶ったよ」
綾さんがライブをふり返り、噛みしめるように語り出す。
「演出も神がかってたなー。レーザー光線もすごいし、炎が噴き上がった時はびっくりしちゃった。投げキッスもウィンクも、も~ありがとうございますって感じで……」
けれども、綾さんの声はしだいに湿り気を帯びはじめる。
「セトリも卑怯だよね、あんなの絶対泣くじゃん……最後のほうはちょっと見えづらかったけど……歌声はしっかり聞こえてきたし……最高のライブだったよね……」
綾さんは今にも泣きだしそうな顔で、僕に微笑みかけてくる。
そんな綾さんの、なにを恨むでもない無垢な微笑が、僕にはあまりにも痛々しくて。
僕の足が、しぜんと綾さんへと歩み出す。
気づけば僕は傘を放り、綾さんの細い身体を強く抱きすくめていた。
「えっ!? ちょっ、律くん!?」
綾さんが焦ったような声を上げる。
けれども、僕は綾さんの身体を離しはしない。道行く人たちが僕たちを不思議そうに見返したって、関係ない。
だって、僕は今、綾さんを励ましたくて仕方がないのだから。
「綾さん、よく頑張りましたね」
「うっ……うっ……うわあぁあん!」
綾さんは僕にしがみつき、声を上げてぼろぼろと泣いた。
幕張の雨風が、綾さんの泣き声をさらって吹き抜けていった。
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