第5話 今日という日を忘れない

 カーナビが示すのは、国道十六号線をまっすぐ南下するルートだった。

 そして、北総鉄道の線路と交錯したら左に折れ、今度は国道四六四号線を一直線に走っていけば、成田に着くらしい。


 よかった、直線が多くて運転が楽そうだ。

 ……と、思うじゃないですか。


 実際は、そんなに簡単な話でもなかった。

 まず、直線が多いからか、運転に慣れている人たちが車をビュンビュン飛ばしてくる。

 それに、主要道路だけあって大型トラックも多く、圧迫感がものすごい。

 だから、ハンドルを握る手にも、肩にも、つい力が入ってしまう。


「律くん、大丈夫? ゆっくりでいいからね」


 僕の緊張が伝わるのか、綾さんが優しく労わってくれた。


「大丈夫です。それと、ありがとうございます」

「なにが?」

「となりにいてくれて。おかげですごく安心します」


 本音だった。

 綾さんがとなりに座っていてくれる。

 ただそれだけで、僕の心は不思議と幸せな気持ちに満たされてしまうのだった。


「ねえ、律くん」

「なんですか?」

「車のなかでキスしたら、どんな気持ちだろうね?」


 キキーッ! 動揺のあまり車が蛇行し、あわててブレーキを踏んだ。

 赤信号で止まり、青い顔を見合わせる。


「綾さぁん」

「ご、ごめん律くんっ。運転に集中してっ」


 綾さんにそんな甘い誘惑をささやかれたら、ドキッとするに決まっているじゃないですか。

 とはいえ、運転が不慣れな僕に余裕などあるはずもなく、ふたたびハンドルを固く握って先を目指す。


 千葉ニュータウンの近くに差しかかると、道路沿いに大きな商業施設が一気に増えてきた。


「律くん。ちょっと休憩していこうか」


 綾さんのさりげない気遣いが嬉しい。

 僕たちは、偶然通りかかったスーパーに立ち寄った。


「意外と混んでいますね、駐車場」

「しょうがない。そこに止めさせてもらっちゃおう」


 綾さんが指さしたのは、地面が青く塗られた障害者用の駐車スペースだった。


「いいんですか?」


 綾さん、障害者と見なされるのを快く思っていないんじゃ?


「いいんじゃない?」


 それなら、と店の入り口にほど近い駐車スペースに止めてしまう。

 綾さんはゆっくりと車を降り、んーっ、と大きく伸びをした。


「ほんとうは、私なんかよりもっと使ってもらうべき人がいるんでしょうけどね。今回はありがたく止めさせてもらいましょう」


 僕から見れば、綾さんだって障害者用の駐車スペースを使う権利は十分ある。

 けれども、綾さんは他者を思いやり、謙虚に感謝を口にする。


 辛い経験をした人は、他人に優しくなれると言うけれど、綾さんもそうなのかもしれない。

 やっぱり綾さんは素敵な人だ。僕の彼女にはもったいないくらいに。


 僕は、誰かにとがめられないよう、駐車している間だけ障害者用のステッカーを貼り、店へと入っていった。






 コーヒーを飲んで体力を回復し、ふたたび車を走らせる。

 成田山のお寺に到着したのは、十一時頃だった。


 入口にそびえる大きな総門をくぐり、なかへ。敷地には出店が立ち並び、奥には階段、見上げれば仁王門。目指す大本堂は、さらにその上にある。


 綾さんは固い顔で頂上を見やり、ぱしゃり、とスマートフォンで写真を撮る。


「綾さん、こっちです」


 僕は正面の階段から大きくそれ、脇道へと綾さんを案内する。


「あっ」


 綾さんがある標識を見つけ、短い声を発した。

 それは、エレベーターの標識だった。


「律くん、知ってたの?」

「はい。調べたら、車椅子用のエレベーターがあると書いてあって。だから綾さんでも上まで行けるなって」


 初詣では、階段を嫌がって下から手を合わせていた綾さん。

 でも、ここなら神様の正面できちんと手を合わせられるはずだ。


 僕たちはエレベーターを乗り継ぎ、大本堂までやって来た。

 二人で賽銭箱に小銭を投じ、並んで手を合わせる。


 よかった。初詣ではできなかったことがようやく叶った。


「ねえ、律くんはなにをお願いしたの?」

「綾さんとずっと一緒にいられますようにって」

「私も、律くんとずっと一緒にいられますように。それと、今日という日を一生忘れませんようにって」


 綾さんは照れくさそうにそう打ち明け、僕の腕を取り、細い身体を寄せてきた。


 それから、僕たちはお守りを買い、おみくじを引いた。

 まあ、わざわざ引かなくたって、綾さんと一緒なら僕の人生は大吉に決まっているのだけど。


 そして、三重の塔の前で記念撮影。

 画面を見せてもらうと、そこには充実した笑みを浮かべる二人が写っていた。


「綾さんって、ほんとうに写真を撮るのが好きですよね。もしかして、SNSにアップしたりしているんですか?」

「ううん、あくまで自分用。あとでふり返って眺めるの、楽しいから」

「それならいいんですけど」


 自分の顔がSNSに上がっているのを想像すると、ちょっと恥ずかしい。

 綾さんはアイドルみたいに可愛いから映えるだろうけど。


 綾さんは美しい街並みが見下ろせる場所まで進み、息をのんだ。


「綺麗……」


 いえいえ、そういう綾さんの横顔も綺麗ですよ。

 歯の浮くようなセリフなので、言いませんけど。


「ありがとうね、律くん。私をここまで連れて来てくれて」

「綾さんが喜んでくれてよかったです」

「お礼にお昼をごちそうするよ。うなぎでいい?」

「そんな高価なもの、いただけませんよ」

「大丈夫。ママからお金をもらってるから。二人で美味しいものでも食べてきなさいって」


 僕たちを見送ってくれた、お母さんのにこやかな笑みを思い出す。

 ありがとうございます、

 ……って、さすがに気が早すぎるか。


「律くん、どうしたの? もしかして、なにか変なこと考えてる?」

「いえ、なにも」


 こうして、僕たちはお寺を離れ、参道に沿ってゆっくりと歩き出した。






 参道はゆるやかな坂道になっていて、綾さんには少し歩きづらそうだった。


「大丈夫ですか?」

「うん。すぐそこだから」


 綾さんは晴れやかな顔で微笑み、うなぎ屋さんを指さす。

 まもなく目的のうなぎ屋さんに到着すると、出迎えてくれた店員さんに、綾さんがはつらつとした声でたずねた。


「すみません。二名なんですけど、お座敷ではなくテーブル席は空いてますか?」


 その一言に、僕はまたしてもハッとした。

 足が悪くて膝があまり曲がらない綾さんには、お座敷の席は座りにくくて辛いんだ。

 店員さんも、綾さんのバッグについた『ヘルプマーク』を見て事情を察したらしい。僕たちをテーブル席へと案内してくれた。


 やがて二人分のうな重が運ばれてくると、僕たちはキラキラと目を輝かせた。


「うはぁ。美味しいね、律くん」


 綾さんはホクホク顔で頬を緩める。


「はい。すごく美味しいです」


 一方、僕はうな重をしみじみと味わっていた。


 階段が苦手で、坂道を歩くのも大変で、お座敷での食事もままならない綾さん。

 今僕が目にしている綾さんのまぶしい笑顔の裏側に、はたしてどれほどの苦労が隠されているのだろう?


 僕は甘いたれのかかったうなぎを味わいながら、胸が締めつけられるような思いをも飲みこむのだった。






 ふたたび車に乗りこみ、帰路につく。

 行きとは異なり、今度は利根川の土手沿いを通って帰ることにした。


 田畑に囲まれた昔ながらの細い道を走るから、かえって時間はかかってしまう。

 けれども、猛スピードの車に急かされたり、大型トラックに怖い思いをしたりする心配はなさそうだ。


 それに、僕のとなりには綾さんがいる。

 綾さんと少しでも長く一緒にいたい。

 そう願うのは、いけないことだろうか?

 綾さんも同じ気持ちでいてくれたらいいな。


「ねえ、律くん。今度はもっと遠くまで行こうよ。それこそお泊りしてさ」

「綾さんとお泊りですか?」

「あら、ご不満?」

「いえ、むしろ嬉しいです。けど、夜、ちゃんと寝られるかなって」

「今夜は君を寝かさないぜっ、みたいな?」

「顔真っ赤にしてなに言ってるんですか、綾さん」

「り、律くんだって同じこと考えたでしょ!」

「考えません」

「嘘、ぜったい考えた!」


 僕たちを乗せた車は、のどかな冬の田園風景を走っていく。

 慌てず、急がず、二人のペースでゆっくりと。


 僕たちはきっと、これでいい。

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