第一話 鏡

真夜中の校舎

 歩くたびに、カチャカチャ音がする。

 まるで、後ろをつけられているように。




 今日は5月5日。初夏を迎えたと言っても、既に日はとっぷりと沈んで肌寒い。

 コート着ていてよかった。そう思いながらわたしは懐中電灯の光を頼りに、学校の廊下を歩く。

 電灯ではっきりと照らされた、真新しい壁と床。白い円の外は、なにもわからない闇が広がっている。

 もはや夜すら征するようになった現在でも、人は闇を恐れる。光のそばにある闇や影を探して、それに恐怖する。

 遮られた視界が生み出す警戒心。照らし出した途端、見たくないものを見せられるんじゃないかという恐怖。その二つが、ゆらゆらとやわい心をゆりかごのように揺らす。その不安定さに、人は耐えられない。安定させるために、人はわからないものを知りたがる。

 怖くて見たくなくても、確かめずにはいられない。わたしも、例外ではなかった。


 止まる。――同時に、音がしなくなった。

 歩いた途端、またカチャ、という音がする。


 思い切って、振り向いてみる。


 懐中電灯に照らされた廊下は、誰もいなかった。


「……」

 わたしは、恐る恐る、自分の上履きを脱いでみる。



 踵のところに、画鋲が刺さっていた。



 はああー、と長いため息が出た。

 上履き履いててよかったけど、垂直に立つ画鋲とかもう使わないでほしい。これがかかとに刺さったら、とか想像するだけで痛い。

 現在地は、階段の踊り場。少し古く曇った鏡には、立派な彫刻が施された木の枠があり、懐中電灯の光を強く反射させながらも、わたしの姿をしっかり映していた。

 チラ、と見えたアナログの時計は、今は7時15分を少し過ぎたころ。

 わたしは、ふうとため息をついて言った。

「――ソメさん?」

 ……しかし、返事は来ない。さっきまで声はしていたのに。

 マズったな。急いでここを出た方がいいだろう。



 先程通った1階は、職員室や保健室だった。2階から教室と言ったところか。静かな階段を登り切り、一つずつ教室を確かめる。

 1-7と書かれたプレートの教室。そこの机の上に、ガラケーが置いてあった。

 これ、今も使えるガラケーなのかしら……と思いつつ操作してみる。電池は満タンだったが、電波は立っていない。

 パスワードがないホーム画面から、連絡帳やメール画面に移動した。スマホだったらとっても危険な状況だ。


「……ガラケーを落としただけなのに」


 呟いてみる。誰も笑ってはくれなかった。

 ガラケーの時計は、2021年4月25日19時16分で止まっている。――今から10日前のことだ。

 わたしは片手でガラケーを閉じて、教室を出る。

 同時に奥の方から、かすかにピアノの音がし始めた。

 そう言えば、音楽室がこの階にあるんだっけ。




 三つの教室の前を通ると、しっかりと閉じられた扉が現れる。ここが音楽室か。

 さすがに扉の前に立てば、はっきりと音楽が流れる。

 繰り返される音階。切り替えられる音域。どこか切なげなメロディ。『エリーゼのために』だ。けれど……。


「あんま上手くないなー」


 ダン! と鍵盤を叩きつけた音が聞こえた。

 それからピアノの音はしなくなる。


「……あの、ごめんね? 聴こえちゃった?」


 気分悪くさせたかな、と、弾いている相手の姿を確認しようとした時。

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