第1章 愛しい人

第1話 憧れの女性

 初秋の夕暮れ時、背の高い男が バス停から少し離れた場所に立っていた。標識には「トヨトミ自動車本社ビル前」と書かれてある。バスが何台も通り過ぎて行ったところを見ると、彼がバスの利用者で無いことが分かる。


 1時間近くが経過し、夕方の6時を少し過ぎた頃、本社ビルの正面玄関から、多くの社員にまぎれ 若い男女が出てきた。仲睦まじくカップルのように見える。


 背の高い男は、この男女を追いかけて行った。



「沙耶!」


 男は 2人の行く手を遮り、女を見て話しかけた。



「何だ、君は! 望月、おまえの知り合いなのか?」


 連れの男に言われ、女は少し動揺しているように見える。



「知らないわ。 行きましょう」


 女は、冷たく言い放った。


 女の言葉を聞き、背の高い男は驚いたような顔をして立ち尽くした。



 男女は、背の高い男から逃げるように 急いで離れた。


 女は少し心配そうに遠くから振り返り、背の高い男の様子を見た。



「さっきの男なんだが …。 沙耶と名前を呼んだが、本当に知らないのか?」


 男は、怪訝な顔をして言った。



「大学時代にいたかも知れないけど、私の知らない人よ。 心配してくれてありがとう。 ねえ、今日は 泊まって良い?」



「ああ、良いとも。 ストーカーとか、最近は物騒だから気を付けろよ」


 男は、女の肩を抱き寄せた。




「やはり、…」


 背の高い男の目から涙がこぼれ落ちた。男は 逃げるように、この場から立ち去った。


 

◇◇◇



 俺の名前は 百地 三瓶、東慶大学の大学院に在籍している。専攻は精密機械工学だ。おりしもの就職氷河期で職にあぶれてしまったため、両親を拝み倒し大学院に進学させてもらった。


 大企業に就職できず夢破れた形だ。人生初にして挫折を味わっていた。



 俺には素敵な恋人がいる。望月 沙耶香 といって大学の同級生だ。彼女から家族を紹介されるほどの仲で、将来は結婚したいと思っている。


 美人で成績優秀な彼女は、日本有数の大企業であるトヨトミ自動車に就職した。彼女が就職してから逢えない日々が続いていたから、その分 頻繁に電話していた。



「あっ、沙耶! やっと電話が繋がったよ。 なあ、今度の日曜、久しぶりに映画を見に行かないか?」



「学生は気楽で良いよね」


 不機嫌そうな、第一声だった。



「私、今 凄く忙しくてさ。 日曜も、暇じゃ無いよ。 それより、三瓶。 遊んでる場合じゃ無いでしょ! 将来どうするのよ?」



「遊んでいる訳じゃ …」


 沙耶香の冷たい口調に落ち込んでしまい、次の言葉が出なくなった。



「三瓶の考えは甘いと思うよ。 やっぱ、社会に出ないとダメね。 会社の先輩とか見ても凄く立派だし、多くの事を学べるわ。 ゴメン、忙しいから切るね」



プツ


 いきなり、電話を切られてしまった。


 以前の彼女は こんな感じでは無かった。優しくて思いやりがあった。社会人になった途端、まるで別人になってしまった。





 時は、大学4年の秋頃に遡る。



「なあ、三瓶。 おまえ、内定は取れたのか?」


 同じ、工学部の 佐々木 剛 だ。彼は、この学校で心を許せる友だ。



「11社受けたが、全てダメだった。 将来を考えると凄い不安だ」


 俺は、下を向いた。



「そうか。 俺も15社受けたが全てダメだった。 大企業は諦めた方が良いかもしれない …」


 剛は、泣きそうな顔をした。

 


 大学生の4割が就職できないという異常事態で、政府を含め 皆がてんやわんやしていた。


 結局、剛は 自動車関連の中小企業に就職した。



「ところで、工学部のマドンナ 沙耶ちゃんは、どうだった? 彼女は優秀で しかも美人だから、企業が欲しがるはずだ」


 剛は、興味ありげに聞いてきた。



「ああ。 トヨトミ自動車から内定をもらったと言ってた」


 俺は、小さな声で答えた。



「スゲー。 日本有数の大企業だぜ! でも、彼女が就職できて、おまえがダメだと辛いよな」



「そうだな。 沙耶から励まされるたびに落ち込んでしまう」


 俺は、肩を落とした。



「まあ、そう言うな! あの美人と付き合ってるんだから、それだけでも自慢じゃねえか! 就職できるまで面倒見てくれるさ」


 剛は、ニカッと歯を見せた。



「それじゃ、俺のプライドが許さん」



「何がプライドだ。 いつもお熱い2人を見て、俺は火傷してるんだぜ! ハハハハハ」


 剛は、大声で笑った。




 沙耶香とは、いつも一緒だった。彼女は、いつも俺の事を気にかけてくれていた。


 最後の11社目に落ちた時もそうだった。



「三瓶、落ち込む事はないよ。 就職だって運不運があるんだし、それにこんなご時世だからしょうがないさ。 ご両親は、大学院に進んでも良いって言ってるなら、それに甘えるべきよ。 私も応援するからさ!」


 沙耶香は、俺が落ち込まないよう励ましてくれた。俺は、そんな彼女に救われていた。





 俺と 望月 沙耶香の出会いは、高3の時に通った進学塾だった。


 彼女は、難関国立大学の工学部を目指しており、俺と同じコースに在籍していた。女子が少ないコースで凄く目立つ存在だったため、男子は皆 彼女に注目していた。


 俺は、積極的に話しかけられるタイプでなかったから、遠くから見るだけが精一杯で、彼女の高校が どこなのかも知らなかった。



 進学塾では 接点が無かったが、恋のキューピットは、大学の合格発表の時に現れた。



「ヤッター。 ワォー!」


 俺は、無理だと思っていた 東慶大学に合格できて、喜び叫んでいた。



「合格おめでとう!」


 背後から、誰かが声をかけた。



「ああ、奇跡が起きたんだ! ダメ元で受けたのに受かったよ。 もう、人生の運を全て使い果たした!」


 俺は、叫ぶように返事していた …。


 よく見ると、それは憧れの女性だった。

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