二.出陣
翌朝、篤次郎は母に揺り起こされるよりも早くに床を跳ね起きた。
興奮してなかなか寝付けずにいたのが、いつの間にか眠りについていたらしい。
ふと枕元に起き抜けの視線を振れば、昨夜のうちには無かった、晴れ着の一式が揃って用意されていた。
陣羽織の鮮やかな朱色は、差し込む曙光を受けて輝いて見えた。
その衣装の裏には、墨で黒々と「二本松藩士 岡山篤次郎」の名が記されている。
昨日の注文通りに母が筆を取り、一針一針糸を通してくれたのだろう。上着の肩には丹羽直違紋の肩印が縫い付けられ、白木綿の鉢巻の端にも同じように記名がなされていた。
(母上、ありがとうございます)
綺麗に折り畳まれた陣羽織を両手に取り上げると、篤次郎は暫しその衣装に見入った。
一人でも多く敵を倒し、一発でも多くの弾丸を敵軍へ撃ち込んでやる。
母の字でくっきりと記された「二本松藩士」の文字に、自らに与えられた役目の重さを実感する。
二本松の立派な武士として勤めを果たさなければ。
そんな覚悟の思いも新たに、篤次郎は一枚、また一枚と揃えられた晴れ着に袖を通したのだった。
「銃太郎さんや他の皆さまにご迷惑のないようにするのですよ」
敷地の門の前まで見送りに出た母は、そう諭した。
「はい! ご安心下さい母上、きっと敵の大将を討ち取ってみせます!」
篤次郎がにっこりと笑うと、母は何かを言いたげに口を開きかけたが、唇を引き結んで頷いてみせた。
「母上、どうぞいつまでもお元気で――」
深く一礼してくるりと背を向け、篤次郎は駆け出した。
「篤次郎!」
母の呼ぶ声がして足を止め、振り返る。
篤次郎を追うように一歩進み出て、そこに留まっている母の姿が見えた。
だが、母がそれ以上何かを言うことはなく、篤次郎はもう一度ぺこりと頭を下げると、再び駆けて行ったのだった。
***
「若先生、おはようございます!」
朝霧の漂う中を道場に駆けつけると、門前には既に銃太郎の姿があった。
緋色の袴に、白地に雲龍を描いた陣羽織、柄の長い大刀をたばさんだ姿は堂々たるもので、秋口の朝霧の中ですらも目に映える。
「早いな篤次郎。ほう、見違えたな、よく似合っているぞ」
「えへへ、でもやっぱり若先生のご立派なお姿には及びません」
晴れ姿を認められたことが嬉しく、少々気恥かしくも思う。照れ隠しもあって俯いたところへ、弾む足音が聴こえた。
「おはようございます、若先生!」
「ああ、才次郎も来たか。おはよう」
やや遅れて駆け込んだ才次郎は挨拶もそこそこに、篤次郎に到着を越されたことを悔しげに嘆いた。
「くっそー、絶対おれが一番だと思ったのに」
「残念でした~、一番乗りはやっぱり若先生の一番弟子が頂きました!」
「おまえたち、そんなことで競い合っていたのか」
銃太郎が呆れて笑う。悔しがる才次郎をよそに、続々と集まり始めた門下の少年たちが銃太郎に声を掛けた。
門弟たちの装束はまちまちで、陣羽織あり力紗羽織あり、義経袴があれば立附の者もいた。殆どが笠を被らず白木綿の鉢巻を用い、髪は打ち糸で髻に結っている。急遽用意したであろう大刀は、腰にたばさむ者あり、背に負う者あり。多様な衣装が見られた。皆に共通するのはただ一つ、肩に付けた違い棒の印だけだ。
やがて道場へ集まった門下生を点呼して確認すると、銃太郎を先頭に、皆が学館へと向かって行った。
「あんな小さな子たちまで……可哀想に」
道場を離れていく皆を見送りに出ていた銃太郎の家族が、ほんの小さく呟いたのが篤次郎の耳に届く。
思わず振り返って見れば、銃太郎の妹であろう。篤次郎よりも年上ではあるが、まだ二十歳には及ばぬだろう娘がじっと隊列を見守っていた。
(可哀想なものか)
武士ならば当然、危急の戦においては主君の馬前に身を投じるもの。
そうすることが家中の務めであると教えられてきたし、そうするために生まれ、そうなるべくして育ったのだ。
だからこそ母も、しっかりおやりなさい、と送り出してくれたのだから。
もう立派に一藩士を名乗れる者に、同情や憐れみなどは必要ない。
主君の為に命を擲つことの出来ない者など、武士ではない。
そんな臆病者が、銃太郎の門下にいるわけがない。
憐憫を跳ね返すように一心に意気込んで、篤次郎は再び学館へと向かう列に駆け戻った。
***
二本松城、その別名を霞ヶ城。
古くは霧ヶ城とも呼ばれた城の正門は箕輪門と呼ばれ、藩校敬学館はその正面にある。
そこまで来ると隊列は止まり、銃太郎が子どもたちに向き直る。
「まずはここで、おまえたちに紹介する方がある」
そう言った銃太郎の後方より、あまり見慣れぬ藩士が一人、前へ出た。
身の丈五尺一、二寸。銃太郎よりも背はないが、年齢は見た目からも銃太郎より上であることが窺い知れた。
「我々の隊の副長を務めてくださる、二階堂衛守殿だ。皆、私と二階堂殿の指示にはよく従うようにな」
銃太郎の紹介を受け、副隊長はにこりと笑みを見せる。穏やかで人の良さそうな印象であった。
更に、藩から与えられる銃と支度金が配られ、銃太郎はそれらが門弟の一人一人に行き届いたことを確認する。
こうして、木村銃太郎門下の一隊は、丹羽右近を番頭とする二本松藩第八番組の大砲方として、城下東方、大壇口の守備に当たることとなったのである。
学館の前から大八車に乗せた大砲を牽いて出陣して行く少年たちの姿を、未だ城下に残る婦女や年老いた者たちが見送った。
憐れむような表情で見送る者も多かったが、それはやはり篤次郎にとって、いや出陣する少年たち皆にとって、心外なものに過ぎなかった。
***
隊列はやがて松坂御門を出た。
銃太郎の側にぴたりと寄り添うようにして門の向こうへ出た篤次郎の眼下には、長く緩やかにうねる新丁坂が続いていた。
坂の左右には道なりに家中屋敷が軒を連ねているが、坂を下りきれば桑畑を挟んで鍛冶町に入り、そこを抜けるとさくら谷の足軽町に出る。
「よーし、行くぞみんな!」
誰が先に坂を走り出したものか、一人が隊長を追い抜いて駆け出すと、皆が一斉に坂を下り始めた。
逸早く大壇の陣地に辿り着こうと、牽いて来た大八車共々、少年達は坂を勢い良く駆け下っていく。
無論、篤次郎も遅れを取るまいとそこに加わった。
「こら! 無茶だ、そんなに走ると止まれなくなるぞ!」
「止まれ止まれ! 大砲ごと突っ込む気か!?」
駆け出した背中に銃太郎と衛守の声が響くが、速度を上げ始めた足は急に止めることなど出来ない。その上、他の仲間たちの足も制止を無視するかのように益々速度を上げていく。
先を競って風を切るのが、沸き立つ胸に尚心地よく感じた。
砲を載せた車の重みが速度に拍車をかけ、緩く湾曲する坂道を猛烈な勢いで下る。車輪は軸を外れんばかりに軋み、がらがらと轍を転がった。
「隊長っ! 止まれませーーん!!」
「うわああ! 前、前っ、畑だぞ!?」
最早誰にも止められなかった。勢いづいた車輪は轍を外れ、大砲もろとも青々とした桑畑に向かって突進していく。
「あ、危な…っ! うっわぁあ!!」
大八車はがらがらと激しく車輪を軋ませながら、畑へと突っ込んだ。
篤次郎は咄嗟に身をかわして車の巻き添えになることを免れたが、仲間内の何人かは見事に桑の繁る中へと雪崩れ込んでしまったのだった。
「だーから言っただろう! 大砲が使い物にならなくなったらどうするつもりだっ!」
「おまえたち、怪我はないか!?」
後から血相を変えて追いかけて来た銃太郎と衛守の声がした。
大砲はこれ一門のみ。これが駄目になったらどうやって敵軍に応戦するのだと、銃太郎は駆けつけながらに怒鳴る。
逆に衛守は大砲云々よりも、皆を心配しているようだった。
とはいえ、突っ込んだのは幸いにも畑で、特に怪我など負った者もなく、道から外れた大砲を軌道に戻すことのほうが一苦労だろう。
「だから止まれと言ったんだぞ! 指示に従うように、あれほど言っただろう!」
「まあまあ、銃太郎。大砲も無事なようだし、誰にも怪我がなかったんだ。それで良しとしようではないか」
「当然です。布陣前から負傷するなど、以ての外だ」
銃太郎のお叱りを受け、はしゃいでいた一同も一気にしょげ返る。
「ご、ごめんなさぁい」
「もうしませーん」
詫びる少年たちの前で腕組みした銃太郎は、呆れ顔で息を吐いた。
「分かればよろしい。さて、それじゃあ全員で砲を押し上げるぞ。ほら、篤次郎。おまえも手伝え」
傍らに立って眺めていた篤次郎を、銃太郎はついでとばかりに自らの方へ手招く。銃太郎は相変わらず呆れたような面持ちだったが、それでも何となく篤次郎の頬は弛んだ。
若先生に呼ばれると、嬉しい。どういうわけか、それだけで誇らしい気持ちにもなった。
「こら、篤次郎。笑ってないでちゃんと手伝え!」
「あ、はぁい!」
「そうだぞ篤次郎! おまえだって走っただろ、こっち側に回って手伝えよ!」
「やだねー! 俺、若先生のほうをお手伝いするんだ!」
銃太郎と衛守とが畑側に降りて主力となり、重厚な大砲を車ごと押し上げる。道の上からは門下の少年数人がそれを引っ張り上げるという、大仕事。
篤次郎は銃太郎の隣に陣取り、掛け声とともに目一杯押し上げた。
やがて大八車が完全に道の端へと押し戻されると、篤次郎の頭の天辺に大きな掌が乗った。
「やあ、助かったぞ、篤次郎。おまえも力がついたな」
額に微かに汗の滲んだ銃太郎が、そう言って笑う。その笑顔につられたのと、誉め言葉が嬉しいのとで、知らずと頬が弛んだ。
いつかきっと、銃太郎のようになりたい。
入門の日から今日まで、その思いは強まるばかりだった。
***
大壇口、後方の砦。
立ち並ぶ杉の森が開けた場所が、布陣場所であった。付近には数軒の民家があるのみ。防風林の役目を果たしているのか、家屋の脇には杉の大木が数本空へと伸びていた。
奥州街道を眼下に見渡せる小高い山の斜面だが、周囲は田畑が多く、正面から向かってくる西軍の目を遮るものは木々や僅かな岩陰の他に何もない。
高く聳える杉の木の傍に大砲を据えると、銃太郎は民家から畳を持ち出してくるように命じ、隊士総出で堤を築く。急ごしらえであっても、盾もなく砲撃戦に挑むより数倍ましであろう。
「なあに、敵のへろへろ弾なんか、当たるもんか!」
「そうそう、あっという間に蹴散らしてやろうぜ!」
「何せ俺たちは銃太郎先生の砲兵隊だもんな!」
仲間たちの間では、作業の合間にも相変わらず威勢の良い言葉が飛び交った。
寄せ集めた古畳を二枚ずつ重ねて丸太へしっかりと結わえると、それなりに防御壁に見えるようになる。
括った縄を最後にもう一つしっかりと結ぶと、篤次郎はふと奥州街道の南方を眺め渡した。
もうじき、この街道を敵の大軍が押し寄せる。
今年、例年よりも長く続いた梅雨のせいか、空気はやや湿気を含み、篤次郎の鼻先を重く掠めた。
ライフル大砲一門と、一人一挺のエンピエール銃。
これまで銃太郎の一番弟子として日々砲術を叩き込まれてきたが、初めての実戦で果たしてうまくやれるのだろうか。
微かな懸念が胸を過ぎったが、それを不安と認めてしまうことが嫌で、篤次郎は
「うん? どうかしたのか、篤次郎?」
掛けられた声に振り向くと、平素のままの落ち着き払った銃太郎がいた。銃太郎は気遣わしげに、おや、と眉を上げる。
「何か気にかかることでもあるのか?」
「いえ、何でもありません」
「そうか? それなら良いが、あまり気負い過ぎるなよ。おまえの腕ならば、いつもの通りにやれば大丈夫だ。心配することはない」
不思議だ、と思った。大らかに笑う銃太郎の激励一つで、沈みかけていた思考を振り払うことが出来てしまうのだから。
「はい、若先生! 砲手には私をつけてくださいね!」
「ああ、元よりそのつもりだよ」
篤次郎に再び笑顔が戻り、銃太郎はそれを見届けると大きく頷いてみせた。
【三.大壇口の戦い】へ続く
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