第41話 王女様の言葉が聞きたくて
深夜の王宮の回廊を進む。先日レーナ様のために構築した外見変化の魔法。あれに僕の研究室に侵入して来たグレースーツの男の魔法の要素を融合させて、このためだけに僕は透明化の魔法の心象を完成させた。幸いにも気配の遮断も有効に機能しているようで、衛兵の隣を通り過ぎても彼らが僕に気づく様子はない。
こんなことをしている時点で僕は馬鹿なのだろう。月明かりにのみ照らされた重厚な両開きの扉を前にして。今更ながら、そんな思いが頭を過った。引手に手をかけて僅かに扉を開けると同時に部屋の中に身体を滑り込ませる。扉が自重で閉まるのを待って、自身にかけた透明化の魔法は解いた。清潔な、石鹸のような香りが漂っている。それがどこか懐かしい。
部屋の中は外の回廊と同様暗く、けれど今夜の明るい月のおかげで真っ暗ではない。予想どおりだった。時刻は既に午前零時を回っていたから、普通、部屋の主はすっかり寝静まっているころだ。しかし――。
木製の揺り椅子に腰かけた華奢な少女のシルエットが僕の瞳に映りこんだ。
僕の気配に気づいたらしい彼女が緩慢な仕草でこちらに顔を向ける。
「エマなの? それともソフィア? こんな夜更けに……」
「あっ……」
目が合った瞬間、僕は口を開けたまま静止して、レーナ様は大きく目を見開いていた。夜独特の淡い光源を反射した艶やかな銀髪は、より一層幻想的に僕の目に映る。久しぶりに真正面から見据えたその瞳に、初めて彼女を見たときと同じように、時間が止まってしまったような感覚に陥る。
「レイフ様!? どうして……」
かたりと、椅子を鳴らしてレーナ様は立ち上がった。ばつが悪かったけれど、仕方なく僕はその疑問に答えた。
「来て、しまいました。いつまでたってもレーナ様が、研究室にいらっしゃらないので」
「ど、どうやって。王宮の中でもここは厳重な警備が」
僕はもう一度魔法で姿を消して、それから、すぐにその魔法を解いた。
「魔法で姿と気配を消して……」
なっ、と短い感嘆の声をレーナ様が漏らす。その隙をつくように、こくんと一つ唾を飲んでから、僕は一思いに口にした。
「少しでいいんです。僕と話をしてくれませんか?」
「ダメです! 不法侵入ではないですか。すぐに帰ってください」
間髪入れずに否定の言葉が返る。
「聞きたいことがあるんです。本当にすぐ済みます」
けれど、この程度で諦められるはずもなく、僕は言葉を続けた。すると、苦々し気に僕から視線を反らしてから、レーナ様が口を開く。
「ひ、人を呼びますよ? 私がレイフ様の研究室にいるのとはワケが違います。もし今王宮の衛兵が来れば、あっという間に拘束されて……」
「そうなってしまうなら仕方がないと思って来ました。それくらい覚悟していないと、王女様のお部屋に侵入なんて試みません」
「……っ。では、お望みのとおりに」
ちらと、レーナ様が部屋の隅に置かれた連絡用の水晶に視線をやる。けれど、
「レーナ様?」
「できると思いますか……」
「え……?」
「レイフ様の立場を危うくするようなことを、私ができる思っていらしたんですか?」
そう告げたレーナ様の表情には、呆れたような苦笑いが浮かんでいて、僕はほっと胸を撫でおろす。やっぱりこの人はとても優しい。
「すみません。ですが、よくないことをしているという自覚はありましたので」
はぁと、控えめなため息がレーナ様の唇から零れた。
「分かっているなら……もう私を困らせないでください。こんなところを人に見られたら言い訳ができないのは事実です。お願いですから、すぐに研究室に返ってください」
「分かりました。レーナ様が僕の質問に答えてくださるなら、すぐにでも」
じっと、レーナ様の顔を見つめる。せっかく危険を冒してこんなところまで来たのだ。首尾よくお会いできたレーナ様の表情も、一挙手一投足も、おいそれと見逃すつもりはなかった。
そうすること数秒。諦めたようにレーナ様が再び揺り椅子に腰かける。相変わらず僕の顔を見てはくれないけれど、徐に口を開いた。
「記事を見たのでしょう? 私と、アルベルト殿下の」
「そっ……それは」
あまりにも核心をついた問いかけに、言葉を詰まらせる。そんな僕を尻目に、レーナ様は続けた。
「あの内容が、全てですよ」
「どういう、ことですか?」
レーナ様の視線の先には、窓があった。もっと言うと、おそらく、彼女は今窓の向こう側にある明るい月をぼうっと眺めていたのだと思う。
「レイフ様が聞きたいのは、どうして私が研究室に足を運ばなくなったのか。どうして誕生祭翌日の約束を反故にしたのか。そんなところではないのですか?」
「それは確かに、知りたいと思っていますが」
数秒の間を置いてから、レーナ様は続ける。
「近々……。そうですね、おそらく今年中にでも、私はアルベルト殿下に妃として迎えられます」
「……っ」
例の記事で既に仄めかされていた内容ではあるけれど、本人の口から聞くのではまた驚きの質が違う。
「研究室に通うことをやめたのは、もうすぐ妻となろうという王女が殿下以外の男性の部屋へ頻繁に出入りするわけにもいかなくなったから。これまでもそうでしたが、これからはいっそうです。祭りの日の約束をお断りしたのは、その日殿下と会う約束になったから。それだけの話です」
淡々と語られる理路整然とした理由。顔を見せてくれないレーナ様。都合のいい解釈だろうか。それが僕には逆に、彼女が自らの気持ちを無理に押さえつけている姿に見えた。
「どうしてあの日、そのように僕に教えてくれなかったのですか」
ぴくんと、レーナ様の肩が跳ねたのが分かった。
「……どうして、でしょうね」
「え……?」
「直前まで、全部お話しようとは思っていたのです。事情をすべてお話して、レイフ様と気軽にお会いできなくなることを伝えて、それで終わりにしようと思っていたのですが……」
小刻みに、レーナ様の背中が震えているのが見えた。ああ、これはあの日と同じ姿だ。また、僕の見えないところで、この人は。そう思いかけた矢先。
「ですが、『アルベルト殿下と結婚する』たったそれだけの一言を、レイフ様にお伝えするのがどうしても……。自分でもよくわかりませんが、それだけが喉につかえたまま言葉にするこができませんでした」
不意に、レーナ様がこちらを向いた。
「れ……」
名前を呼び掛けて、言葉が止まる。多分それは。あの日僕がレーナ様を咄嗟に追いかけられなかったから、見られなかった顔だ。そして、今日、ただ素直に自分の想いに従って、この部屋に乗り込んだから、ようやく見られた顔だ。
涙が二筋。レーナ様の両の頬を伝っている。見紛うことはない。
驚いて目を見開いた僕の様子を見て、はっとしたようにレーナ様が自らの頬に手を触れる。そこが湿っていることに気づいてすぐ、くしくしと目元を手の甲で拭った。
「こ、これは……、その、違いますから」
その様子を見て、僕は、余計なことだと理解しながら、尋ねずにはいられなかった。
「レーナ様は、アルベルト殿下のことを好いているのですか?」
「え……」
「レーナ様は、アイブライトを出て、オレガノの新しい王妃として迎えられる未来を望んでいるのですか?」
感情が乗って、少し震えた僕の声。一方で、それに返答しようとするレーナ様の表情は先ほどまでとは打って変わってどこか冷静さを取り戻しているように見えた。多分それは、彼女自身が何度も考えて、既に答えが固まっているからだ。
「私の意思など、どうでもいいことなのですよ」
「どうでも、いい? そんな」
「私は王族として、この国で生まれ王族としてのあらゆる恩恵を享受しながら今日まで生活してきました。だから、恩恵を受けると同時に、私は義務も負っているのです。政治で国を動かしたり、魔法の才で軍を率いたり。とにかく、この身を捧げて国を支える『何か』を見つける必要があります。私にとってのその『何か』が、今回の結婚なのですよ」
きゅっと唇を一度引き結んでからレーナ様は続けた。
「私が本気で嫌がれば、もしかすると今回の結婚の話をなかったことにするのは可能かもしれません。ですが、それは私にとっての『義務』を先延ばしにできただけのこと。きっとまた、国のためになる別の縁談が持ち上げるでしょう。それを私はいつか受けなければなりません。確かにそんな結婚は私の望むところではありません。ですが、それ以上に……」
「それ、以上に……?」
「国から恩恵だけを享受して、義務を果たさない。そんな無責任な行為は私の望むところではないのです」
普通の市民として生を受け、運よくエイノに拾われて魔法研に所属できた僕には、想像しづらい感情だと思った。たとえ王族や貴族であったとしても。レーナ様のように自らの義務を意識して生活している者は少数ではないだろうか。往々にして彼らは、恩恵を受けることだけに夢中になっている。
「今回の結婚はレーナ様自身の望みではないけれど、王族としての義務を果たしたいという想いは本物だということですか?」
僕の問いかけに、レーナ様は肯定も否定も返さなかった。ただ少し、諦めたような、自嘲のような笑みを零して見せただけ。
「私が自分の本当の想いを口にしたのですから、今度はレイフ様の想いも教えてください」
「僕の、ですか? どういう」
戸惑う僕に、レーナ様が質問を重ねる。
「レイフ様は、私がアルベルト殿下の妻となることを、どう思いますか?」
「……っ。そ、それは」
「どう、思いますか?」
先ほどとは逆に、今度はレーナ様がじっと僕の顔を覗き込んでいた。耐えかねて僕は視線を外す。
「そ、それこそ、僕の想いなんて今は関係ないことでは」
「確かにそうかもしれませんね。だから、これはただ私が聞きたいから聞いているだけ」
「えっと……」
自分自身の気持ちを整理する。レーナ様が、誰かの妻となる。今のように気軽には会えなくなるだろう。国外に出るのであれば言葉を交わすことも難しくなるかもしれない。部屋は以前のように好き放題散らかるだろうし、どんなに疲れていたとしても自分で紅茶を淹れなければいけない。
だけど、それ以上に、僕は。ああ、とようやく納得する。レーナ様が部屋に来てくれなくなってから。例の記事を目にしてから。ずっと自分の中にわだかまっていた正体の分からないもやもやした気持ち。
ただ、彼女が他の誰かと一緒になるという誓を交わすことが……。
「教えてはいただけませんか?」
控えめに首を傾げて、レーナ様が純真な双眸をこちらへ向けていた。
「嫌です……」
「え?」
「レーナ様が結婚されて、もう僕の研究室に足を運べなくなるというのは、僕にとってとても、その……。残念な……。喜ばしくないことです」
くすりと。その時、実に久しぶりに、僕はレーナ様の嘘ではない笑顔を見た気がした。
「どうして笑うんですか」
「いいえ。ごめんなさい。でも、最後にそれが聞けただけでも私はとても嬉しいです。エイノ様やレイフ様が望んだような、私たちがずっと一緒にいられる未来というのはどうやったって訪れることはないのですから」
けれど、それもほんの束の間だった。結局最後は、最近見慣れたどこか憂いの残る表情でレーナ様は語る。
「そんなことっ……」
すくりと、レーナ様が立ち上がった。話を切り上げるように、さぁ、と小さく口にして僕の肩に手を触れる。
「さすがにそろそろ、レイフ様もお戻りになったほうがいいと思います。ここは私の私室ですが、定期的に見回りもきますので」
「あの、でもっ」
「質問に答えたら、戻るという約束でしたよね?」
そのまま背中を押されて、気づいた時には扉の前まで連れられていた。
「それでは、今度こそ、本当に。さようなら、です」
「あっ、あの、レーナ様!」
彼女一人を部屋の中に残して、自重でひとりでに重厚な扉が閉まる。その向こう側を見つめたくて、しばらくその場に立ち尽くしたけれど、間もなくすぐ近くまで衛兵が迫っている気配を感じて、僕は魔法で姿を消した。
どうやったって、ずっと一緒にいられる未来が訪れることはない。あの言葉にはどういう意味がこもっていたのだろうか。裏を返せば、叶うのであればレーナ様はそんな未来を望んでいるということではないのだろうか。
ふるふると、僕はかぶりを振る。もう僕はつまらない逡巡をすることは止めにした。最後まで決定的な言葉は聞けなかったかもしれないけれど、僕が判断に迷わないだけの彼女の言葉を引き出すために、今日僕はこんな無茶をした。そして、十分な理由を得たはずだ。
何よりあんな泣き顔を見せられて、関係ないなどともう僕に言えるはずがなかった。レーナ様があんな顔をしなくても済むように、僕にできることは。そればかりを考えていた。
そして静かに結論する。
望まない結婚などしなくても、彼女はちゃんと義務を果たせるのだと、すっかり諦観してしまったお姫様に教えてあげなければならない。
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