第3話 箱庭の王女様・1

 朝、開け放たれたカーテンから差し込む自然光で目を覚ます。けたたましいベルの音はならない。侍女としてのあらゆる知識と技術を習得し、この王宮中での序列も最高位に近い彼女がそんな愚を犯すはずがないのだ。


「おはようございます。レーナ様」


「おはよう、エマ。それから、ソフィアも」


「はっ、はい! おはようございます。レーナ様」

 緩慢に起き上がり、まだ眠気が抜けきらない目元を左手で擦る。そんな私に朝の挨拶を返したのはいつもどおり、同じ制服に身をつつんだ二人の女性だ。優雅で落ち着いた一礼。くすんだ長めの赤髪を後頭部で団子にまとめた妙齢の女性はエマ・オルソン。執務や外交で多忙な私の父、母に変わり幼い頃からずっと面倒を見てくれた侍女。


「ソフィアもう一カ月になるのですから、いい加減慣れなさいと言っているでしょう? 朝からそんなせわしない姿を見せられては、レーナ様も落ち着きません」

 つまり私にとっては、実の母親以上に母親のような存在である。いつも私ににこにことした笑顔しか見せないお母さまと違い、彼女の見せる表情には嘘がないから、私も気を許しやすい。少々口うるさいところはあるけれど。


「はっ、はい! 申し訳ありません」

 先程と同様、勢いよくがばっと頭を下げたのは、少し前からエマとともに私の身の回りの世話をこなしてくれている若い侍女だ。名をソフィア・エクルース。肩の十センチ上できっちり切りそろえられた鈍色の髪と絵に描いたような童顔が特徴。


「いいんですよ、エマ。恐縮されるのには慣れているので。ソフィア、気にしないでくださいね」


「あ、ありがとうございます! すぐにお召し物の準備をしますので」

 言い残してぱたぱたと小走りに、ソフィアはベッドのそばを離れた。その姿は小動物のようで実に愛らしい。とはいえ、私はまだ十七になったばかりだから二十歳の彼女を童顔だとか、愛らしいとか表現するのは少々おかしいのかもしれない。けれど愛らしいものは愛らしいのだ。


「出過ぎた注意でしたか? 私ももう年ですから、いつまでこの職を全うできるかわかりませんし。彼女は、レーナ様とこれから長い付き合いになるのですから、あまり甘やかさない方がよろしいかと」

 王宮内で私にこんな風に意見する者は珍しい。けれどだからこそ私は彼女を信頼しているし、できることならもう少し甘えていたいと思っていた。


「エマの言う通りね。でも私のことを心配してくれるなら、エマが長く私の傍にいてくれるのが一番です」


「レーナさま……」

 この程度で、よよよ、と袖口で目元を拭うのはどうかと思うけれど。最近は少し涙腺が緩いのだと何かの雑談の中でぼやいていたのを聞いた記憶がある。


「あ、あのぉ、お着替えの準備が出来ました」

 そうこうしているうちに、上司のそんな姿を見てはいけないと思ったのであろうソフィアが、天蓋カーテンの陰から遠慮がちに顔をのぞかせていた。


「ああ、ありがとう。こちらへ持ってきてくれればいいわ」


「は、はい」

 近づいてきたソフィアからフォーマルで豪奢な衣装を受け取り、小さく唾を飲みこんでから私は少し緊張して告げる。


「では、私は着替えを済ませますから、エマ達は飲み物の準備をしてもらえま……」


「そんな!! とんでもない。何をおっしゃるのです!? ソフィア。はやく準備なさい」

 しかし、やはりと言うべきか、予想どおりというわけか、私が密かに昨晩から計画していたそれは、鋭いエマの言葉に制されてしまった。はぁ、と視線を反らしながらバレない程度の溜息をつく。すると、これまたぱたぱたと駆け寄ってきたソフィアが私に告げた。


「では、レーナ様、まずは上着を脱いでこちらへ」


「あ、あのね? ソフィア。それからエマも聞いて欲しいのだけど。私、着替えくらいもうひとりでできるのよ? 脱衣から靴下をはかせるところまで手伝ってくれなくても」

 熱心かつスパルタな王宮内の侍女教育の賜物か、はたまた弊害か。侍女たちは基本的に王族である私に少々過保護である。でも、いかな国王であるイエルド・アイブライトの娘とはいえ、五人きょうだいの末の子で、しかも女であり、継承権など数えるのも時間の無駄だと私自身が思っていることを鑑みると、そこまで大事にされてもなぁ、という思いがどうしても先に立つ。


「えっ……、私もしかして何か、お着替えの折にレーナ様の気に障ることをしてしまっているでしょうか」

 けれど、私の言葉を聞いた途端に、おろおろとソフィアが瞳をうるませてしまった。彼女がエマに変わって私の着替えを直接的に手伝うようになったのは、つい先日のことである。せめて着替えだけでも、この過保護すぎる侍女たちの過度なお世話を卒業するにはちょうどいいタイミングだと思ってのことだったのだが。


「レーナ様、朝のお着替えの手伝いは私共がレーナ様のお身体になにかしらの異常がないか確認するための大事なルーティンでもあるのです。もし、ソフィアが気いらないのだとすれば、すぐに代わりの者を。……本日はひとまず私が」


「ほ、本当に申し訳ありません‼」

 がばっと、ソフィアは頭を下げる。確かにこのタイミングでは彼女がそういう思考に陥ってしまっても仕方がないか。


「い、いえ。そういうわけではないのよ。ソフィアはきちんとやってくれています。そういうわけではなくて……」

 成長に伴い着替えくらい自分ひとりで済ませたいと思うようになるのはおかしなことなのだろうか。まあ、お母様やお父様は未だに侍女や近侍に着替えを手伝わせているから、王族の規範に当てはめればおかしなことなのか……。


「それでは、いったいどういった……」

 しかし、私にとって、今まで最も身近にいた大人はエマなのだ。掃除や食事の準備、パーティ用の身支度や時には勉学の指導まで。侍女としての技術を徹底的に叩き込まれた彼女の姿は私には実に家庭的で気立てのよい姿に映っていた。そして、私は正直言ってそんな彼女に憧れている節がある。彼女に憧れる余り、自分も誰かのために食事を作ったり、身支度を手伝ってみたり、甲斐甲斐しく世話をやいてみるのも悪くないとさえ思っている。しかし王族という立場上、侍女のように誰かに尽くしてみたいのだなどとは、口が裂けても言えなかった。


「ええとですね……」


「レーナ様……。どうか私共にもう少しおそばにいさせてください。許されるなら、私たちのたちのお仕事を取り上げないでくださいまし」

 言葉を詰まらせた私に、エマが言った。そんな風に泣きそうな表情をされてはどうしようもない。


「ごめんなさい。ちょっと出来心で言ってみただけなの」

 仕方なく私は苦笑いで誤魔化して、大人しく素足をソフィアの前に差し出す。


「ソフィア、今日もお願いね?」


「は、はい‼ もちろんです」

 丁寧にソフィアがシルクの長靴下ロングソックスを引き上げる。実に満足そうだ。その分私の自立は遠のきそうであるが……。ひとまず気持ちを切り替えるとしよう。


「それで、エマ。今日の予定はどうなっているかしら?」


「はい、本日はまず、玉座の間にて国王陛下からお言葉をいただきます。その後、午後からは、王立魔法研究所の技術市場テック・マーケットへ出席いただくことになっております」


「魔法研の技術市場ですか」


「ええ。こちらに資料が届いております。もちろん絶対というわけではありませんが、魔法研の成果発表の儀は毎年難解な内容ですから、先に目を通してある程度概要を把握されてからの方が、分かりよいかと思いまして」


 礼を言って、私は束になった羊皮紙を受け取る。それぞれに、成果発表者である魔法技術師マギ・エンジニアの名前と簡単な経歴、そして魔法研究の概要が記されていた。


「ひとまずはメインとなる口述演題オーラルセッションの内容をご覧になるのがよろしいかと」


「ええ……、一題目は『大規模気象操作魔法構築の基礎理論と課題』。二題目は『無意識下における魔法の複記述マルチグラマー仮説の提唱』……?」

 口に出して読み上げてみるが確かに難解そうであった。最近アイブライト王朝周辺の土地では数年規模の異常気象による大規模飢饉で貧しい人々の暮らしが圧迫されていると言うから、気象操作の魔法が話題に挙がるのは自然な流れとして……。


「複記述仮説……?」


 私と同じく、聞きなれない単語にソフィアが小首を傾げていた。

「エマさま。複法則仮説とは何のことですか?」


「ええと、そうですね……」

 するとエマは、彼女にしては珍しく、眉間に皺を寄せて難しい表情をしていた。


「エマ? どうかしたの?」


「ええ、なんと言いますか。私もざっと文献に目を通しはしたのですが、俄かには信じがたいもので。私のように古い魔法教育に慣れ親しんだ者の口から上手く説明するのは少々難しい内容なのです」


「へぇ……。エマにも出来ないことがあるのですね」

 驚く私に、ベテラン侍女は申し訳なさそうに頭を下げた。


「私の不勉強にございます。申し訳ありません」


「い、いえ、別に責めているわけではないの。ただ少し驚いただけで。そもそも最新の魔法研究など、侍女としての職務の中で触れる機会はほとんどないだろうから」


「そ、そうですよ! エマ様が不勉強だというなら、私の頭なんて綿菓子がつまっているも同然です!」

 ソフィアは少しかわったフォローの仕方をする子なのだとその時知った。


 コホン、と咳払いを挟んでからエマが再び口を開く。

「とにかく、ソフィアやレーナ様がもしご興味をお持ちでしたら、一度ご自身で説明を読んでみるのがよろしいかと。他所から下手な思考が入らない方が理解も早いかもしれません」


「ええ、そうね」

 素直に頷いて、再び私は手元の資料に視線を落とす。発表者の顔写真は随分と若い男だった。経歴を見てはっとする。男というよりは男の子。私と同じくらいの年齢だ。私たち王族は基本的に一般の学校には通わずに、王宮内で家庭教師のような役割の人物から教育を受けることになっているから、同じ年の友人というものの存在を私は持ったことがない。


 男の子にしては少し長めに伸びてしまっている漆黒の髪の奥に隠れた、これまた漆黒の少し気だるげな瞳が、私のことを真っすぐに見据えている。


「レイフ・カールフェルト……」


「気になるのですか?」

 純真で真っすぐなソフィアの瞳が私の顔を覗き込んでいた。


「え、ええ。少し、ね? 私と同じくらいの年で、もう技術市場で登壇するほどの成果があるのかと、驚いて」


「そういえば、魔法研は王宮のお隣ですし、二階は渡し廊下でつながっていますから、数年前、向こうの職員を通じて、非常に若い研究員に関する噂がひっきりなしに聞こえてきておりましたね」


「噂ですか? どのような?」


「なんでも、我が国で魔法研究が始まって以来の天才、なのだそうですよ」


「へぇ……。魔法研究の天才、ですか」

 幼少のころの教育で、私に魔法の才があまりないことは既に承知している。気のない返事をしてみたものの、才能ある同年代の子供が、現段階でどのような思考、どのような魔法技術の域に至っているのかにも少し興味が湧いてくる。だからなのだろうか。私にしては珍しく、午後の執務が少しだけ楽しみになっていた。

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