飼いならされた兎は高く跳べない

高宮 紅露

第1話 病院にて

「全治2か月。お大事に」

 分厚い眼鏡の向こう側からどこか無機質さを感じさせる淡々とした声で私の怪我について、診断結果が告知された。

「ありがとございました……」

 今時珍しいくらい不愛想で、でも子供の頃からずっと通っているある意味『慣れ親しんだ』個人経営の病院の院長先生にお礼を述べて私は診察室を退室……できなかった。

 何せ右足の骨を盛大に折ってしまっていて、一人では歩くこともままならないから。

「あ、付き添いますねー。その後で松葉づえ持ってきますので待合室でお待ちください」

「あ、はい。ありがとございます」

 院長先生とは対照的にコミュニケーション力が高い看護師さんが肩を貸してくれたおかげで、私はようやく立ち上がって、『ケンケン』の要領で診察室から待合室へと移動する事が出来た。

 それにしてもギプスって、やっぱり重いなぁ。

「ちょっと! 大丈夫だったの? 先生はなんて仰ってたの?」

 付き添いで来てくれているお母さんが隣に座った私に向かって口早にそんな質問を投げかけてくる。

「あ、うん。骨折だって。全治2か月って言われたぁ~」

 ふにゃ、と顔を崩すと。

「この馬鹿! りょうちゃんだって今が大変なこの時期にっ!」

「にゃんっ」

 軽く頭を小突かれたので思わず目をつぶって両手を頭の上に上げたけど、しっかりと拳は軽く私の頭に触れる。

 確かにね、お母さん。

 育児は本当に大変。

 ちょうどイヤイヤ期に差し掛かった最愛の息子『亮ちゃん』は元気真っ盛り。

 まぁ……そのやんちゃ坊主を庇って階段踏み外して骨折した訳ですが。

「で? どうするの? 美兎みうの怪我が治るまで。啓介けいすけさんに頼むのかい?」

 啓介さん……私の夫。

 この世で最も愛しているべき殿方で、最も頼るべき人物で、私が尽くすべき夫……なはずなんだけど。

「う~ん? 相談はしてみるね」

「そうしなさい。あんたほんといい人と結婚したんだから……お父さんなんてねぇ」

 いつものお父さんへの不平不満をだらだらと話し始めるお母さんにうんうん、と適当に相槌を打ちながら私は今後の事を考えて精神的な意味で頭が痛かった。

 啓介さんは明るくて、誰に対しても腰が低くて、誠実な人だ。

 

 私から見たあの人は……。

「津上さん。松葉づえ持ってきましたよ。ここに受領のサインお願いしますね」

 さっき肩を貸してくれた看護師さんが松葉づえを抱えてきてくれたおかげで私はそれ以上考える事をやめることができた。

「じゃ、お母さんは会計してくるからね。美兎は先に車に戻ってなさい」

「はぁい」

 ドラマとかで見て松葉づえの使い方は知ってたけど、見るのとやるのじゃ大違い。

 元々運動神経が鈍すぎる私にとってはちょっとどころではなく大変な作業だった。

 慣れるの、かなぁ。

 啓介さんのみたいに松葉づえにも少しずつ慣れていくのかなぁ?

 私が頑張って、不便さを受け入れて我慢すればいいだけだもんね。

 ずっとやってきた事だし、大丈夫。簡単簡単。

 ずっと一人で頑張ってきたんだし、今度もきっと上手く行く。

 私がトロいから、子供っぽいから周りがイライラしちゃうんだし。

 それは仕方のない事。だって私が『出来ない』のが悪いんだもの。

 そうさせないように私が頑張らなきゃね。

 子供の頃から通いなれていて間取りや段差までしっかりと覚えている、小さな病院だけど足が不自由な状態で外に出るのは一苦労だった。

 よたよたと、ようやく靴箱に差し掛かった時。

「あんた、まだこんな所にいたの。早くしなさい! 夕飯だって作らなくちゃなのに」

「あ、はい。ごめんなさい……」

 会計を済ませてきたお母さんに怒鳴られる。

 ごめんなさい。

 出来の悪い子供でごめんなさい。

 なんにも上手くやれなくてごめんなさい。

 小さい頃から何十万回と心の中で繰り返してきた台詞をまた一回繰り返す。

 どうして私はこんなにも、何も出来ないで怒られてばかりなんだろう。

 遅くに生まれた末っ子で、一番上の兄とは15歳も離れている家庭で育ったと言えばとても甘やかされて育ったのかって思うかもしれないけどそんな事は全然、いえ多少はあったかもだけど、そういう自覚をした覚えはない。

 両親が既に定年退職を迎える年齢に達しているということは、同年代の子の親と比べたらずっと厳しいをされてきたわけで……。

 だから私にとってさっきの質問に対する選択肢は2つだけど、どちらを選んでもたいして変わりはないんだ。

 自宅で、夫からの精神的なDVに耐えて療養するか。

 実家で、両親や兄弟からのモラルハラスメントに耐えて療養するか。

 ね?

 たいして変わらない選択肢だと思わない?

 強いて言えば実家なら少しは育児も手伝ってもらえる人手があるから楽、ってくらいかな。

『貴女が生まれてくる日に、真っ白でとても可愛らしい兎がお母さんのお腹の中に入ってくる夢を見たから、美兎って名付けたのよ』

 以前、私の名前の理由をそういう風に話してくれた事があったけど。

 でもね、お母さん。

 人間に飼われるために品種改良された アナウサギRabbitノウサギHareよりも走るのが遅いし、高くも跳べないの……。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る