第七十五話 ポイントオブノーリターン(後編)
◆◆◆ 四次元領域 :『剣術使い』蒼乃遥
胸を締めつける鈍い痛みと共に、少女の平衡感覚が失われていく。
ポイントオブノーリターン。引き返す事の出来ない分岐点。
なぜだろうか。その言葉に込められた重さにどうしても抗う事ができない。
冗談でしょと笑い飛ばす事も、大げさだなぁと流す事も許されない。
だって本能が告げているのだ。
これは嘘でも夢でも幻でもない。
まごうことなき真実なのだと。
「
指摘されるまでもなく、遥にも自覚はあった。
彼に出会う前の自分は、良くも悪くも分を
年頃の娘のように反抗的でもなければ、物事を
ただ純粋に、諦めていたのだ。
良く言えば現実的に、悪く
無意味だったと否定するつもりはない。
無価値だったと
けれど無味ではあったと思う。
死神戦で殺されかけた理由もさもありなん。
あの時の諦めていた自分では、覚醒の扉を開く為の意志力とやらが足りなかったのだろう。
才能があれども意志
強い外側と脆い内側、総じてみればちょっと金属の棒を振るうのが巧いだけの一般人、それがあの時までの蒼乃遥だったのだ。
『よう、ゴミカスウンコのロリコン骸骨! いたいけな少女を捕まえて、随分ご機嫌じゃねぇかオイ』
今も忘れない、いつまでも忘れない、鮮烈な思い出。
よく彼は自分のことを太陽のように例えるけれど、自分を輝かせてくれたのは、燃えるような熱をくれたのは他ならぬ彼なのだ。
「そこには貴方の理想があった。困難に立ち向かい、弱きを助け、何よりも生きることに必死な冒険者。実態がどうあれ、貴方の目に映る彼の姿はとても美しかったのでしょうね」
命の煌めきを見たのだ。
生きる価値や助けたい意味なんて考えず、ただ純粋に生きたいと願い助けたいと動くその在り方が、どんな宝石よりも綺麗で尊く心を惹き付けたから
だから――――
「だから貴方は憧れた。そして同時に確信を得たのです」
この人といれば、どこまでだって行ける。
この人とならば、なんだってできる。
何があろうと絶対に負けない。
自分と彼が手を取り合えば越えられない壁は無いのだと心の底から信じる事ができた。
「そして、その想いが貴方を高みへ導いた」
術の精度の向上、冴え渡る直感と五大クランの長すら手玉に取る敏捷性、かねてより秀でていた剣術は、日を追う毎に切れ味を増し、気づけば音すらも置き去りにする領域へと立っていた。
「貴方はね遥、自分でも気づかぬ内に何度も覚醒を遂げていたのですよ」
存在のインフレーション、というらしい。
授かった覚醒の力に耐えられるようにと肉体や魂が“上のもの”へと変質する現象。
それがここ数ヵ月の内に二十度以上も起こっていたのだそうだ。
「一度目に比べて二度目以降は入りやすくなるとはいえ、貴方の覚醒頻度は常軌を逸していた。史上稀といっても良い次元ですよ、
遥の剣が音を越えたのはここ一ヶ月足らずの事だ。
その間、彼女の身に危険が迫ったことは一度もない。
ダンジョンの明らかな格下相手にひたすら技をぶつけていただけである。
「命の危機に
天才どころの騒ぎではない。
少し本気を出せば存在のインフレーションが起こり、人外の領域へと近づいていく怪物的素質。
そんな彼女が、妥当困難な敵と相対し、その敵を全力で葬り去ろうとすればどうなるか?
「断言しましょう遥。このまま邪龍王と切り結べば、貴方は致命的な変化を遂げます」
「……眷属神になっちゃうってこと?」
「少なくとも、いずれかの
本命は
そして、と時の女神が
「眷族神の資格を得た者が、他陣営の者と結ばれる事は決してありません。貴方が別陣営の
「え……」
なんで、と聞くよりも先に瞳から冷や汗が出た。
汗が止まらない。二つの目からぽろぽろと、止まらない。止まらない。止まらない。
「簡単な事ですよ、遥。アルテマといえど、我らは精霊。己を高めたいという原始的な衝動を止める事などできません」
強く、高く、上へ。精霊という種族が抱える“成長欲”とも呼ぶべき欲求に際限というものはない。
どれだけの力を得ても、たとえ全精霊の頂点に立ったとしても彼らの歩みは止まらない。
そしてその頂点の玉座が十二の欠片に分かたれていたとしたら、どうなるか?
決まっている。彼らは嬉々として争うのである。
「マスターは私に全てのアルテマとの対面を約束致しました。そしてその契約がある以上、我らは死による
つまり彼らは、いずれ遥の主になるであろう誰かとも戦う
「すぐに仕掛けるつもりはありません。現在、我らの間には停戦協定が結ばれており、これをみだりに破れば他の陣営総出で潰される恐れがありますからね。
とはいえ、多くの同胞が非活動状態にある今が好機である事もまた事実。ゆくゆくは六番目のような効率的なシステムを」
「あなた達のいざこざなんてどうでもいい」
神々が争おうが、それで世界が壊れようが本当にどうでもよかった。
声が震える。足がほつれる。血が凍りついたかのように身体が寒い。
「あたしがアルちゃんの敵になるから、凶さんはアルちゃんの契約者だから、だから結ばれないって、そういうことなの?」
「
どくん、と心臓が早鐘の様に鳴る。
生来の勘の鋭さが、今回ばかりは裏目に出た。
「あっ」
「同陣営の眷族神と契約者は、互いに強く惹かれあいます」
嘘だと願う。
「あぁっ」
「魂のレベルで心が通じ合い、愛し合えば確実に子宝に恵まれ、性差を問わず互いが互いを最高のパートナーとして認識し合う」
「ああぁっあっ――――」
「そしてその呪いとも言えるような強い
けれど少女の抱いた悪い予感は、無慈悲にも確信へと変わっていく。
「どれだけ私を
弾かれた指の音と共に真白の空間に映し出されたその光景は――――
「……これが、
「いやぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!」
心が、肉体が、魂が、その他蒼乃遥を構成する全ての要素が
彼は、その
青空の下、海の見える小高い丘の上で、幸せそうに微笑みながら女性の手を引いている。
けれどそこにいるのは自分じゃない。
桜色の長髪をハーフアップでまとめたその女は
「いや、そんなのいや、いや、いや、ぜったいに、あたし以外の女が凶一郎に、あっ、あっうぁあああああああああああああああああああああっ!」
地獄などという言葉すら生温い。
世界の崩壊よりもおぞましい。
魂が自死を望み、行き場のない感情が絶叫となって空間を切り裂く。
「なんでっ、どうしてあたしがあそこにいないの!? あたしが、あたしが一番凶さんの事を、なのに、なのにどうして、ねぇどうしてあの子なのアルちゃん!」
「……全て私の責任です。貴方の力を過小評価し、覚醒の深化を止める事ができなかった。申し訳ありません」
それはかつてない程に熱のこもった謝罪だった。
温度のない彼女が放つ精いっぱいの誠意。
「謝られたって困るよ! あたしはっ、もうっ、っひっく、こんなの、こんなの、どうすればいいのさ」
だけど、だからなんだというのだ。
遥の覚醒は止まらない。
原動力が彼への想いである以上、彼女はどこまでだって強くなってしまうのだから。
そしてその代償として彼は別の女に――――。
「そうですね。私は貴方が変わっていく様を見逃し、あまつさえ自分の利益の為に貴方以外の眷族神を生み出した薄情者です」
「だったら!」
「だからこうしてやり直しに参りました」
凛とした声が鳴り響く。
その音には、森羅万象を
「先程、覚醒には最低限二つの条件を満たす必要があると申し上げましたよね」
「才能と意志力」
「えぇ、そうです。この二つの掛け合わせた力が覚醒の扉を開き、十二の領域とのマッチングを経て、対象者に適した恩恵が授けられる」
「……そのマッチングで、あたしとアルちゃんは弾かれちゃうってことでしょ」
「はい。
時の女神は言った。
「極めて不確定であり、また活動状態のアルテマに限定した話にはなりますが、眷族神化後の所属先をコントロールする
「それは…………なに?」
しかし返って来た答えに、遥は
「それは、コネです」
「コネ?」
急に人間味のあるワードが出てきた事に困惑を隠しきれない遥を
「アルテマやその契約者との強い縁を
「要するにアルちゃんか……凶さんとの結びつきが強ければ、あたしも時の女神の眷族神になって、彼とずっと一緒にいられるって。そういう、話?」
「はい。間違いありませんよ、遥」
じわりと視界が薄くぼやける。
良かった、良かったと、何度も呟きながら遥は熱い雫を頬に
「もうっ、だったら最初からそういう風に言ってよ。凶さんと一緒にいられるなら、うっ、あたしは、ひっく、どんな事だって、するのに」
人間をやめようが、神の眷族になろうが
ただ彼の隣にいられれば、蒼乃遥はそれだけで幸せだったのだ。
彼に会いたい。
いますぐここを飛び出して力いっぱい抱きつきたい。
彼の声が聞きたい。
あの雄々しくも優しい音で沢山自分を褒めて欲しい。
彼が見たい。
だって心があったかくなるから。
彼に触って欲しい。
この高まり続ける心臓の音を伝えたくて。
彼といたい。ずっといたい。病める時も健やかなる時も富める時も貧しい時も嬉しい時も悲しい時も全部全部分かち合って生きてきたい。
――――あぁ、そうだ。
恋よりも甘く、愛よりも深く、きっと世界中の誰にも負けないくらいの熱を帯びながら、彼の全てに焦がれている。
「良かったです」
時の女神の口角をたどたどしく上がっていく。
それは未だに
「途方もなく困難な旅ではありましたが、来た甲斐はありました。下準備を整えてくれた
「この時代のアルちゃんが、なにか関係あるの?」
「えぇ、大アリです。
未来からの交信を受け取った現代の時の女神は、少しでも遥と凶一郎の結びつきを強める為にかけ回っていたのだそうだ。
「慣れない労働に身をやつし、稼いだ給金で
「……まさか、あの夜の事って」
「どの夜の事かは存じ上げませんが、今度家を借りる時はちゃんとダブルベッドをお買いなさい。今のサイズでは流石に
「……っ、アルちゃんっ!」
感謝よりも先に身体が彼女を抱きしめていた。
いつから動いてくれていたのかは分からない。
でもこの白髪の隣人は、自分達の縁の隙間を埋める為に影でこっそり動いてくれていたのだ。
「ありがとうっ、本当にありがとね」
「礼は
「ううん。忘れないよ、絶対に。あなた達があたしの恩人だってこと、絶対に忘れない」
「……やりにくいですね、どうも」
ぽんぽんとぎこちない手つきで少女の黒髪を撫でながら、時の女神は
◆
「コレを受け取って下さい」
そう言ってアルが手渡したのは、純白の光を放つ真珠色の正六面体だった。
大きさは片手に収まる程度のサイズではあるものの、その重量は存外重く、まるでリンゴのなりをした小玉スイカのようだと少女は思った。
触感は見た目通りの金属質、そして心なしかひんやりとしている。
「その中に必要な
「えっと、どうやって動かせばいいのかな?」
「軽く左胸に当てて下さい。この箱は一種の概念のようなものなので、受容の意思さえあれば簡単に浸透します」
言われた通りに光る箱を当ててみる。
「んっ……くっ……んっ」
心臓に伝わるひんやりとした感覚。
痛みはない。ちょっと冷たくて、くすぐったいだけだ。
「お加減はいかがですか?」
「大丈夫。ちょっと、んっ、気持ちいいくらい、だよっ」
その感覚も一分足らずで消え去り、特に違和感もなく箱の受容は終わった。
「うんっ、もうバッチシ! ……あっでも、これって後で副作用とか来たりするパターンじゃ」
「ご安心なさい。その様な粗悪品を渡したりはしませんよ。無添加安全ノーダメージ。不自由負担を一切かけずに人間を辞められますよ、遥」
「……………………」
一番最後で全部台無しだった。
(人間を辞める、か)
今更ながらに言葉の重みがのしかかる。
「ねぇ、アルちゃん。これからあたしはどうなるの? 角とか翼が生えたり、目が沢山になったりするのかな?」
「肉体的な変化はあまり。強いていえば、寿命が伸び、老化とは無縁の身体になるといった程度でしょうか」
「へー」
「後、覚醒が進む度に貴方の身体的な魅力が増幅していきます。幾つか例を挙げますと、①肌が綺麗になって②ムダ毛に悩まされる事がなくなり、③どれだけ暴飲暴食を重ねても不要な脂肪はつかず、④呼吸消化循環代謝神経免疫ホルモンバランスその他あらゆる内臓機能が健全になる、とまぁこんなところでしょうか」
「……へー」
「それと時々髪から綺麗な粒子が飛ぶようになりますが、生命に害はないので気になさらないで――――」
「いや、十分すごいよ!」
予想の斜め上を行く人間の辞め方だった。
というか、そんな変化の形であれば、むしろ大歓迎である。
しかし
「残念ながらメリットばかりではありません。当然、悪い方向性に変わるものもあります」
「……教えて、アルちゃん。あたしの何が変わっちゃうの?」
躊躇いがちに時の女神の唇が動いた。
「精神です。眷属神化に伴い、貴方の心は大きな変容を遂げるでしょう。そしてそれは客観的に言って、酷く悲惨で絶望的なものです」
胸の内がざわつく。
精神の変容。なんて暗い言葉だろうか。
「つまり身体は綺麗になっても、心が怪物になっちゃうってことか……うん、確かにそれは辛いね」
「心中、お察しします。けれど、こればかりはどうしようもありません」
「わかってる。それであたしの心は、一体どんな風に変わっちゃうのかな」
「……………………」
アルの口が開かない。
余程おぞましい内容なのだろう。
けれど……。
「アルちゃん、教えて。あたしは絶対に逃げ出したりしない。凶さんと一緒にいられるのなら、どんな代償だって支払うから」
「……分かりました。話しましょう」
遥の熱意にほだされたのか、アルは不本意そうに顔をしかめながらも、その重々しい唇の扉を開けてくれた。
「契約者と眷属神は互いに強く惹かれ合います」
「うん」
「そして私は貴方と
「そうだね」
「眷属神としての特性と精霊との契約、この二つが合一された結果、貴方は、貴方は……」
声を震わせながらアルが放り出したその答えは
「貴方は今後一生あの
「願ったり叶ったりだよ!」
えっ? みたいな顔をされても困る。むしろこっちがえっ? だ。
「ここまで散々苦労と
……アレですよ、アレ? 世界数十億の中で性愛の対象があの男だけになるなんて、どんな呪いよりも過酷な罰ですよ。もしも私が首謀者ではなく傍観者の立場であったのならば、その非人道性に怒りを覚えていた事でしょう」
「お言葉を返すようで恐縮だけど、あんなスゴくてカッコよくて可愛くて優しい人他にいないよ?
ていうか、たとえ世界中の誰とお付き合いできる権利をもらったとしても、あたしは絶対に凶一郎しか選ばないし、選びたくない。それだけ彼は素敵で特別なの。分かるかな? それとも神様には難しい?」
「それ同姓同名の別人の話ですよね? 残念ながらウチの主は、そんな大層なタマではありません。我が主の総合スペックは、ゲームのチュートリアルで主人公達にフルボッコにされる小悪党程度のものです」
「……アルちゃん、目が腐ってんじゃないの?」
「恋は盲目と言いますが、貴方の
平行線だった。
やはり人と神は分かり合えないものなのだと、その時遥は悟ったという。
◆
「さて、これで粗方の目的は果たせました。大変名残惜しいですが、そろそろ店じまいと致しましょうか」
「その前に一個質問があるんだけどいいかな」
「どうぞ」
自分の左胸を指しながら、遥はふと感じたモヤモヤを問うた。
「この箱って元はアルちゃんの力なわけじゃん。しかもこれからのあたしはアルちゃんの領域で覚醒するんだよね」
「ですね」
「それってさ、凶さんへの負担にならない? 霊力の供給とか能力の発現とか、そういうのをあたしが奪っちゃったら」
「彼にしわ寄せが行くと?」
「……うん」
少女は弱々しく頷いた。
ここで納得する答えを得たところで、外に出れば、全部忘れてしまうのだ。
だからこの質問に意味などない。答えがどのようなものであろうと遥にはどうする事もできず、知ったところですぐに手放さなければならない無駄知識。
得られるものはその場限りの納得と自己満足だけ。まさに時間の無駄というやつだ。
しかしそれでも彼女は問わずにはいられなかった。
彼の負担になるかもしれないというモヤモヤを抱えたまま、この空間を出るのは、なんか違うなと思ったのである。
「ご安心なさい。貴方に対しての力の譲渡は全て覚醒領域を介して行われます。要するに大昔に預けていたものを貴方に渡すだけなので、この時代の私にデメリットはありません。好きに使って頂いて構いませんよ」
「……そっか」
ならばいい。ここにいる自分が覚えていなくとも、彼の負担にならないのであれば何も問題はない。
唯一の不安も解消された今、ここに留まる理由はもうないだろう。
「もう行くよ、色々ありがとね」
「承知いたしました。では
時の女神の人差し指が天を向く。
「一つ目、先程も申し上げましたが未来は幾重にも分岐します。故にこの時代の貴方が邪龍王に打ち勝つ保証はどこにもありません。私が保証できるのは、あくまで貴方の覚醒先が私の領域に固定されたという一点のみです。その事をゆめゆめ忘れないように」
「忘れないようにって…………ここを出たら全部忘れちゃうんでしょ?」
「えぇ、忘れます。ですから脳ではなく、貴方の心に刻みつけておいて下さい」
「無茶言うなぁ」
それでも一応、善処はしてみようと遥は自分の胸に誓った。
脳ではなく、心に刻む。
やり方なんてさっぱりだけど、とりあえず強く思う事から始めてみようかしら。
「二つ目、こちらについては忘れて頂いて構いません。むしろ私の立場からすれば、そちらの方が都合が良い」
続けて中指を天に立てながら、とても奇妙な事を言い出すアル。
「変なの。だったら言わなきゃいいじゃん」
「これでも私は貴方を高く買っているんですよ。だからこうして自分の利益に反する事を言わんとしている。美しい隣人愛だと思いませんか?」
「そんな
「アレは周りがイエスマンばかりだと実力を発揮しないタイプなんですよ。貴方がアメで私がムチ、それ位のバランスが丁度いいんです」
「じゃあ、あたしはもっともっと彼を甘やかしちゃおうかな」
「いいですとも。その分に応じた拷問を私が加えればいいだけの事です」
バチリと火花が散った気がした。
アメとムチ、水と油、北風と太陽。
まるで混じり合う事のない、真逆のスタンスを持つ二人。
彼女達が互いの価値観を尊重できるようになる日は…………きっと永遠に来ないのだろう。
さておき。
「……まぁいいでしょう。貴方は貴方で好きにやればいい。私も私で自由に動きます
「例えば
「おや、お気づきになられていたのですか」
「そりゃあね」
少し考えれば分かることだ。
アルがこんな手間の込んだ策を講じたのは、自分の眷族神を作る為である。
もちろん、当人の言うように遥への義理や情も多少はあったのだろう。
しかしそれらはあくまでおまけ。
彼女の最優先事項は、自身の勢力強化であり、その優先順位が変わる事は決してない。
「こんな
「
「ふぅん。いいんじゃない」
そのあまりにも身勝手な宣誓を遥は笑顔で受け止めた。
「意外な反応ですね。怒号の一つや二つは覚悟していたのですが」
「泣いて喚いてつっかかったところで、あなたは自分の意見を変えないだろうしね。それにあなたの
――――あぁ、けれど。
黒髪の少女は華のように可憐な笑顔を浮かべて言う。
「あたしはあたしで、勝手にやらせてもらうから」
彼は絶対に渡さない。
特にあの翡翠の目をした桜髪の女には、絶対に。
「その決意はご立派ですが、何度も申し上げた通りここでの記憶は凍結されます。貴方は彼女を敵だと認識することさえできない」
「ううん。覚えてるよ。だって頭じゃなくて
脳ではなく、心に刻め。
先程までは全くピンと来ないアドバイスだったが、今なら良く分かる。
氷点下の凍土よりも冷たく、されど煮えたぎる溶岩よりも熱いドロドロとした感情。
嫉妬、後悔、怒り、独占欲。湧き出る気持ちはどれも暗くて汚くて、思わず目を背けたくなるものばかりである。
だが、だからこそ強いのだ。
たとえ記憶を忘れても、心に刻まれた暗闇の情動は消え去らない。
彼は誰にも渡さない。
そしてその為に遥がまずやらなければならない事は――――。
(うんっ、決めた。あたしはもう、なりふり構わない)
脳ではなく、心に刻んだ絶対の誓い。
その意志の強さが
「……やはり貴方はものが違う。まさかあちらの世界に戻る前に至ってしまうとは」
「? なんのことを言ってるのか良く分かんないけど、アドバイスはちゃんと胸に刻んだよ、アルちゃん。お互い色々と譲れないものはあるけれど、恨みっこなしでいこうね」
「願ってもない話だ。是非ともその清い方針を貫いて下さい。……本当に、お願いします」
かくして長い長い幕間は、終わりを迎える。
白の世界は崩落し、時の女神は己の時代に帰還した。
そうして残された彼女は――――。
◆ダンジョン都市桜花・第三百三十六番ダンジョン『常闇』最終層・邪龍王域
迫る無数の剣閃が、少女の真横を通りすぎた。
割れる台地。吹き荒れる衝撃。頬を掠める霊力の
けれど少女にとってそんなことはどうでもよかった。
いや、最早邪龍王すら眼中にない。
それがなぜなのかは遥にも分からないが、とにかく一番大事なことは他にあった。
(夢をみていた気がする)
ぼうっとまるで幽鬼のようにゆらゆらと前を歩きながら、少女は自分の身に起こった変化を考察する。
(とっても苦しくて切なくて、だけど大事な何かを教えてくれた夢。一体アレはなんだったのかな?)
幻覚? それとも走馬灯? 一体全体何がなんだかワケが分からない。
そもそも、こんな戦場の只中で白昼夢をみる程自分はお気楽な子だったかしら?
そんな風に頭を悩ませていると、いつの間にやら紫黒の斬撃波が眼前まで迫って来ていて――――
(うーん、本当になんだったんだろう)
それを
「――――――――!?」
ここにきて初めて邪龍王が表情を変えた。
薄らと、けれど確かに驚愕の色がみて取れる。
でも、だから何?
貴方の顔がどうなろうと自分には関係が
(……いや、関係はあるのか)
そういえば戦っている最中だったな、と今更ながらに認識を改める。
間髪入れずに飛来する紫黒の剣閃。
暴風雨のように吹き荒れるザッハークの連続攻撃を、
自分に何があったのか、それとも何もなかったのか。
それすらも不明瞭なままに少女は歩き、気づけば敵は目と鼻の先。
(敵は、倒さなくっちゃ)
機械的に刀を握る。
邪龍王の四肢がそれを阻止すべく猛烈な拳撃を放ってくるが、これを
“あたしはもう、なりふり構わない”
「あっ――――」
そして誓いを思い出した。
翡翠色の瞳に桜髪のハーフアップ。
あぁ、そうだ。自分は負けない。絶対に負けない。
あんな女に、彼の魂の一欠片だって渡してなるものか。
「邪魔」
そうして振るわれた音越えの刃を秒の隙間に千撃程詰め込んで、それを一本の
どういう原理で自分がこんな事をやっているのかなんて、遥自身にも分からない。
ただできると思ったからやって、そして予感通りにできただけ。
そこに
振るわれた刃は一にして千。
かつて彼が教えてくれた『百の斬撃を一つに束ねて打ち込んだ剣士の逸話』を、彼女なりのアレンジを加えて再現してみた
【判定終了。挑戦者の力量が邪龍王を上回りました。よって階層守護者にペナルティを発令致します。簒奪対象:
――――そして遥は、己の失敗を悟った。
天を舞うザッハークの右腕。ほとばしる鮮血。むせ返るような匂い。
頸動脈を狙った少女の必殺は、
右腕と大腿部の一部を損傷し、龍麟の加護と防御スキル全般を奪われこそしたものの、邪龍王はまだ生きている。
(……あっ、ヤバ)
対して自分は満身創痍だ。
さっきまで
急にやってきた異常な疲労感に抗えず、少女の手から愛刀が抜け落ちた。
崩れる身体。闇へと消える蒼穹のコピー達。
最早、遥を守るものはなにもなく、そしてその致命的な
「――――」
言葉はない。
けれど彼の殺意に染まった双眸が、雄弁に物語っていた。
“今、ここで、必ず殺す”
(……うん、だろうね)
とっても悔しいし、残念だけれど、どうやら
(あぁ、でも、死にたくないなぁ)
もう何もできないけれど、あの時みたいに諦めたりはしない。
指一本動かせなくたって、意志だけは
「させるかクソがぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!」
そして少女は、奇跡をみた。
雄々しき咆哮と共に邪龍王を蹴飛ばして、いつかのように自分を助けてくれたその男の愛称を、少女は万感の想いを込めて叫び上げる。
「凶さんっ!」
彼だ。彼が、凶一郎がここにいる。
何よりも大切で、誰よりも大事で、いつまでも一緒にいたい、特別な
「悪い、助けるのがギリギリになっちまって」
「ううん。最高のタイミングだった」
頬が熱い。
鼓動が高まる。
闇に染まった世界がなぜだか不思議と色づいて見えた。
(やっぱり君は、特別だよ)
こんな事、他の誰にも出来っこない。
遥の事を信じられず、勝手に助太刀に入るタイミングはいくらでもあっただろう。
あるいは逆に無責任に信じると
だが、彼はどちらもしなかった。
遥の誇りを踏みにじらず、そして同時に命も救ったのだ。
その理解の深さに、分かってくれてるんだという安心感に包まれながら
「ちょっと、ここは危ねぇから距離取んぞ」
「ふぇっ?」
本当に包まれてしまった。
彼の男らしい両腕に抱きかかえられながら(ついでに落ちた蒼穹を優しく鞘に戻してもらったりもして)、少女は戦場から離されていく。
「旦那っ!」
「今、<
末尾の言葉を告げるよりも先に、深紅の閃光を宿した機関銃がうなりを上げた。
◆
「やっぱ、すげぇなお前。一体どうやってザッハークを斬ったんだ? アレ滅茶苦茶硬かっただろ」
「自分でもよく分かんないんだ。なんか、……できちゃった」
暗闇の中、彼はしきりに
すごいって、ありがとうって、よくやったなって。
いっぱいいっぱい褒めてくれた。
鍛えられた上腕、グローブ越しに伝わる暖かい体温、良い匂いのする荒々しい吐息。
あぁ、どうして彼は彼なんだろう。
優しくって、カッコ良くって、面白くって、欠点すらも愛らしい。
ずっとこうしていたいなと思う。彼の腕にくるまれながら朝を迎え、昼を過ごし、夜は一緒にまどろむの。
「ねぇ凶さん」
でもその夢は、このままでは叶わないと知ったから。
だから少女は震える声を振り絞る。
「あのね、こんな場所で言うべきじゃないってことは、もちろん分かっているのだけれど、それでも君に聞いて欲しいんだ」
「言ってみ」
彼が優しく微笑みかける。
その笑顔があまりにも可愛かったものだから、やっぱり誰にも渡したくなくなって。
「……っ」
気づいた時には涙が頬を伝っていた。
嬉しいはずなのに、ドキドキしているはずなのに、なぜかたまらなく胸が切なくなる。
「おい、遥っ大丈夫か」
「ううん、大丈夫じゃない。あたし、君がいないと全然大丈夫じゃないんだ」
ぽたぽたと心の雫をこぼしながら、少女は一世一代の勇気を振り絞って彼に言う。
温めていた想いを。
彼女の最愛に向けて。
解き放つ。
「好きだよ、凶一郎」
―――――――――――――――――――――――
明日、次話の更新に合わせて近況ノートを公開致します。
タイトルは「蒼乃遥という女について」
お楽しみに。
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