第六十五話 夏と姉と光の花(前編)










 二度目の夏は、こうして慌ただしくも平和に過ぎていった。


 朝起きて、訓練をこなして、夜眠る。

 これに週二、三本の取材やら取引やらを加えれば、あら不思議、いつのまにか凶一郎君の夏休みの完成だ。

 やだー、きもーい。休みどころか過労死レベルの激務をこなしているというのに、夏休み扱いとかちょーウケルんですけど―、一日百二十時間の模擬戦とか意識高すぎて冥界っちゃいそーなんですけどー。


 ……いや、本当によく耐えたわ俺。

 時の女神の加護を受けているおかげで肉体的なダメージこそ現実時間相応で済んでいるものの、豆腐メンタルは毎回悲鳴を上げてたからな。


 真面目な話、毎晩の遥さんだっこがなければ、確実に頭がおかしくなってたと思うの。


 そういう意味ではマジであいつには頭が上がらない。

 ていうか、修行とかダンジョンとか関係なしに、ずっとあの柔らかさの中で眠っていたい。


 

 朝から晩まで良い匂いのするふにふにに包まれたならきっと、目に映る全てのものが綺麗に見えるのではなかろうか。






◆清水家・凶一郎の部屋






「おっぱい」




 そんな幼児レベルの寝言をほざきながら目を覚ますと、そこにおっぱいはなかった。



 一瞬の空白の後、ここがダンジョンの借り家ではなく、慣れ親しんだ我が家の寝室であることを悟り、落胆する。



 ……そうだ、今日からしばらく休養日オフなんだった。


 ははっ、嬉しいことのはずなのに、なんだか無性に切ない気分。


 おっぱいがない。

 良い匂いがしない。

 心地の良い心音が聞こえてこない。

 ……ちょっと探してみたけれど、やっぱりおっぱいはどこにもない。



 

「うっ……、うぐっ……、ふぇっ……」



 気づけば俺は部屋のベッドで一人寂しく泣いていた。



 ようやく地獄を抜けたというのに、あれほどこの日を待ちわびていたというのに。


 今の俺は、心の底から昨日、いや一昨日の夜に戻りたいと願っていた。


 くそ、ダメだ。感情のコントロールがうまくできない。地獄の特訓の後遺症と、天国のようなおっ――――添い寝ロスのせいで、豆腐メンタルが弱りに弱りきっている。



 このままではいけない。五日後の決戦日までに、なんとしてでも正常な情緒を取り戻す必要がある。



 その為には、まず……



「寝るか」



 羽毛布団をかけ直して、夏休みの中坊らしく二度寝の快感に酔いしれる。



 時間に追われることなく、日がな一日ゴロゴロと。久しく忘れていたおひとり様の天国は、それはそれは気持ちの良いものだった。









 そして俺が再び目を覚ますと、そこには見事なおっぱいがあった。




「おはようございます、キョウ君」




 小川のせせらぎのような美しい音色を奏でる我が家の大天使が、なぜか俺の部屋で微笑んでいる。


 あぁ、我が姉ながらなんという神々しさ。

 貴女の見姿を拝んでいるだけで、私のドブのような心が浄化されていきます。



 じゃなくて



「えっと、姉さん。どうしてここに? というかカギは?」

「朝ごはんのお知らせに参りました。部屋のドアならば解錠されていましたよ」


 言われて、昨晩の記憶を思い返してみる。

 確か真夜中に一度トイレに行ってその後……閉めた覚えがないな。



「あー、忘れてたっぽい」

「沢山頑張ったんですね。キョウ君はとっても偉い子です」

「いえいえ、とんでもない」



 考えるよりも先に謙遜が口から出てしまった。

 確かに俺は頑張ったし、間違いなく偉い子だが、いざこうして面と向かって言われると、なんだか無性にくすぐったい。



 なので、話が膨らむ前に感謝の言葉を述べることにした。



「わざわざ起こしにきてくれてありがとう、姉さん。すぐに支度するよ」

「はいっ」




 春の陽だまりのような笑顔が、真夏の朝に咲き誇る。


 いつ拝んでも、姉さんの笑った顔は最高だ。





◆清水家・居間




 高級旅館の朝を彷彿ほうふつとさせる多品目かつ豪勢な朝食を終えると、アルとユピテルが揃って出かける準備を始めた。



「どっかいくのか、お前達」

「買い物いく」

「買い物?」

「ゲーム買ってもらう」

「誰に?」

「アル姉」



 そんな馬鹿なと思い裏ボスの方へと視線を送ると、めかしこんだ格好のアルがおはぎ片手にこう言い放ったのだ。



「私のおごりです」



 衝撃という他ない。

 

 まさかこの女から『おごる』という言葉が出てくるだなんて。


 いや、待て。なんか前に遥が言ってたな。



『――――後そのゲーム、なんかアルちゃんに買ってもらったゲームらしくってさ……お姉ちゃんから貰ったものを大事そうに遊ぶ妹の時間を邪魔するのが忍びなくて』



 あの時はついスル―してしまったが、よくよく考えてみたら色々おかしい。


 そのゲーム代は一体どこから捻出ねんしゅつされたというのだ。



「一応言っておくけど、俺の金でユピテルにプレゼントを買ったとしても、それはお前のおごりじゃないからな」

「失敬な。ちゃんと私が副業で得たお金です」



 副業って……お前そもそもがニートじゃん。まさかアレか? 時の女神を本業扱いカウントしているわけじゃあるまいな。




「…………」




 無言でスネを蹴られた。どうやら図星だったらしい。

 邪神さんは今日も絶好調だった。

 読心からの暴力コンボとか、中々できる事じゃないよ。きっと将来は、立派な当たり屋になれると思うぜアルさんよ。




「で、副業って何さ」

「神の声を衆庶しゅうしょに届け、給金をもらうお仕事です」

「なにそれこわい」


 宗教でも立ちあげたっていうのか? 聞く限りだとやばい臭いしかしないんだけど。




「誰か通訳ぷりーず」

「アル姉は、ネット声優やってる」



 お子様の告げたその言葉に、俺は本日二度目の衝撃を受けた。




「えっ、ネット声優って……ASMRとか音声作品とかのアレ?」

「アレです」



 アレらしかった。




「なぁ、その話詳しく聞きたい――――」

「おや、もうこんな時間です。妹よ、買い物にでかけましょう」

「りょーかい。ふたりとも、いってきます」



 お元気に手を振るツインテールチビちゃんに手を振り返しながらも、俺の頭は先程の衝撃発言にやられてろくすっぽ機能していなかった。



 アルがネット声優……いつからやり始めたのかは知らないが、実は俺の推しだったとか、そういうオチだけは勘弁願いたい。





 






 朝食を終え、居間で一時間程くつろいでいると、姉さんが「一緒にお買い物にいきませんか」と誘ってくれた。


 行き先は、ウチから少し離れた場所にあるショッピングモール。

 なんでも今日は精肉の特売日らしい。



「しかも今日はポイント五倍デーですよ! これはもう、お祭りと言っても過言ではありません!」



 わっしょい! という擬音が聞こえてきそうな程興奮している姉さん、いとをかし。


 そのあまりの尊さに思わず脳が破壊されかけたが、なんとか踏みとどまって「喜んでイエス」と一言告げたのだった。





「こうして二人でお出かけするのも、随分と久しぶりですね」




 目的地への道中、姉さんが額にうっすらと汗をにじませながら、そんな言葉を口にした。




 うだるような灼熱の猛暑にさらされながらも、この人の周りに漂う清らかなオーラは微塵みじんも失われていない。



 二十四時間三百六十五日あらゆる場所と角度からどのように拝んでも常に清楚。


 青い空に丸みを帯びた入道雲。そして隣を歩くは本物の天使。

 実に風流である。




「キョウ君?」

「――――あっ、うん。確かに久しぶりだよね、こういうの」



 若干早口になりながら、我らが天使に言葉を返す。



「なんだかんだで最近は三人とか四人で行く買い物が多かったし、俺と姉さんだけってシチュエーションは……」



 ……あれ、ほとんどない。


 俺の記憶の中に眠る姉さんフォルダ(外出用)の中には、常に白髪のおまけがついている。

 不自由のない範囲でアルをボディーガードにつけていた弊害が、こんなところで現れようとは、いとねんなし。





 




◆ショッピングモール『エクシズ桜花』




 真夏のショッピングモールというのは天国だ。


 空調がガンガンに効いた屋内、心落ち着くバックグラウンドミュージック、カラフルな装飾に満ちた多様な娯楽施設に、目と胃袋を刺激し続ける魅力的な飲食店の数々。


 そんなあらゆる“快”の詰まったこの欲張り施設を、今俺は姉さんと二人っきりで周っている。


 なんたる幸甚こうじん、なんたる至福。


 天にも昇る気持ちとはまさにこの事だ。




「ふふっ、良かったです。キョウ君が元気になってくれて」



 

 大量の食料品が詰められたショッピングカートを転がしながら、姉さんが慈愛の溢れる笑みで俺に語りかけてくる。




「ごめん……てか今朝の俺、そんなに元気なかった?」

「はい。まるで失恋でもしたかのような」



 失恋はしていない。ただロスはしていると思う。おっぱいというか、遥というか。



「あらあら、キョウ君もすっかりお年頃ですね」



 俺の反応から何かを察したのだろう、姉さんはカートをゆるゆると押しながら楽しそうに笑う。



「お相手は遥ちゃんですか?」

「いや、いやいやいやいや! それは誤解だよ姉さん。あいつと俺はそういう関係じゃないよ」

「だったら、どうしてお姉ちゃんから目を背けるんですか?」



 直視すると(姉さんの)おっぱい(から遥の)を連想してしまうので、とは口が裂けても言えない。

 だから俺は目に入った穀物酢のコーナーに焦点を定めながら、さりげなく話題の転換を図る事にしたのだ。



「今日は暑いね、姉さん」

「キョウ君は話を逸らすのが下手ですねぇ」

 


 普通に失敗した。









 姉さんは人から話を聞き出すのがうまい。

 その女神じみた包容力と天性の聞き上手スキルが成せる技なのかどうかは定かではないが、この人と話していると大抵の人間は口のチャックを緩めてしまう。




「――――で、今は二人で一つのベッドを使っているというわけデス」



 かくいう俺もその例に漏れず気がつけばモール内の喫茶店で洗いざらい遥との関係性について話していた。



「とりあえず遥ちゃんとキョウ君には、お姉ちゃん印の保健体育補習を受けてもらうとして」



 とても一人では食べきれないようなパンケーキタワーを流麗に切り分けながら、姉さんが言う。



「ズバリ聞きますけど、キョウ君は遥ちゃんの事が好きなのですか」



 ド直球な火の玉ストレートが飛んできた。



「えっ、あの、そのなんというか人として尊敬はしているよ、仲間としては普通に好きだし、頼りにもして――――」

「そんなズレた回答をお姉ちゃんが求めていないことは、キョウ君もご存じでしょう?」



 ……逃げ場がなかった。

 なぜだろう。店内に流れる洒落た感じのボサノヴァが、今は無性に耳に障る。



 どうしよう。どうしよう。




「正直、分からないんだ」



 ひり出した本音に我が事ながら気が滅入めいってしまう。

 なんて煮え切らない男なんだ、俺は。



「遥はとても魅力的な奴だし、一緒にいるとものすごく楽しい。だけど風に意識すること自体がはばかれるというか、なんか怖いんだよ」

「なにが怖いんです」

「その……俺達のかんけーせーが変わっちゃう気がして」

「まぁ、まぁまぁまぁ!」


 喜色満面の表情で、頬を上気させる姉さん。



「あの、俺なんか変なこと言った?」

「いえいえ、全然変ではありません。お年頃だなぁと思ってお姉ちゃん、ついホッコリしちゃいました」



 目尻を柔らかく細めながらメープルシロップのかかったパンケーキを美味しそうに頬張る姉さん。可愛い。



「でもちょっとだけ不安だったりもするんだ」


 そこで一度区切り、糖質ゼロのアイスティーで喉を潤す。

 あぁ、うまい。甘ったるくないからゴクゴクと飲める。




「俺があいつに抱いているワケの分からないこの気持ちが恋だったとして、それをあいつにぶつけたら気持ち悪い……というか迷惑なんじゃないかって」

「まぁ」

「だってそうだろ? 俺って爽やかじゃないし、イケメンでもないし、ユピテルにはゴリラ扱いされてるし」

「まぁまぁ」

「そんな男に、あんなモデルとアイドルを足して二で掛け合わせたような奴が釣り合うのかって思っちゃうんだよ」

「まぁまぁまぁ!」

「これじゃあ、とんだ美女と野獣――――って姉さん!?」




 なんということでしょう。

 我らが麗しの大天使文香様の鼻腔から、赤い糸が垂れているではありませんか。



「姉さん、鼻血! 鼻血出てる!」

「すいません。ちょっとキョウ君のお話があまりに尊――いえ、興味深かったものでお姉ちゃんつい興奮してしまいました」



 ふきふきと紙ナプキンでお鼻周りを綺麗にふき取り、仕切り直しとばかりにパンケーキをぱくりと口に入れる。

 一挙手一投足が本当に可愛いなぁ、この人は。




「さぁキョウ君、貴方の若々しくも甘酸っぱいお悩みを、もっとお姉ちゃんに聞かせて下さい」



 そうねだる姉さんのまん丸な瞳には、特大のお星様がきらめいていた。







 結局、がっつりと話し込んでしまった。



 自分でも驚いたのだが、どうやら俺は遥に対して凄まじいまでのクソデカ感情を抱いていたらしい。



 もうね湯水のように湧きあがって来るのよ、奴への想いが。


 ……いや、想いって言うとなんかロマンチックすぎるかな。執着? 依存? 安易に恋愛感情だと決めつけてもいいが、白状すると、どうにもその表現にはピンとこないんだ。



 好きか嫌いかでいえばもちろん好きだし、あいつが魅力的かと問われればノータイムで「当たり前だ」と答えるだろう。




 綺麗で、強くて、抱きしめてくれて、おまけにおっぱいが柔らかい――――だけど、だから「愛している」と断じてしまうのは、俺がどうこう以前にあいつに対して失礼なんじゃないかって思うのよ。


 容姿と能力が優れているから彼女を愛しているとか、ソレ完全に相手をアクセサリー扱いしているパターンじゃん。



 かといって盲目的な信者になって「遥はうんこをしない」とか抜かすのも馬鹿げているしな。


 どんな人間でもうんこはするし、汚い部分もある。そこを無視してアクセサリーや神様扱いするのは、なんか違うと思うんだよね。

 まぁ、姉さんは種族天使なのでうんこなんてしないけれども。トイレに行ってもそれは、神々しい御尻おしりから香しいお花を生成しているに過ぎないのだけれども。




「お待たせ致しました」




 女子トイレから帰ってきた姉さんに、「いえいえ」と紳士的なスマイルを浮かべる。



 喫茶店の会計は姉さんが席を立っている間に済ませてあるので、後は二人でのんびり帰るだけだ。



「モール外も含めて他に寄っておきたい所とかある?」

「大丈夫です、目当てのものは大体手に入りましたので」




 買い物袋を両手に握りしめながら力強く頷く姉さん。とても愛くるしいのだが、頼むから荷物は俺に持たせておくれよ。



「ダメです。お姉ちゃんだけ楽をするのはよくありません。一緒に汗水たらしながらお家に帰りましょう、キョウ君」



 強がっているわけじゃないんだよなぁ。正直、買い物袋の十や二十くらいなら全く苦にもならんのだが、弟としては可能な限り姉さんの意見を尊重してあげたい。




「わかった。その代わり辛くなったらいつでも頼ってくれよ」

「はーい」



 朗らかな返事と共に暖色系のタイルカーペットを歩き始める姉君様。

 真夏のモールで両手にいっぱいの買い物袋をぶら下げながら、二人で並んで歩いていく――――それがどれだけ奇跡的で幸せなことであるのかを、俺のウチに宿る誰かは良く知っていた。





「あー、ごめん、姉さん」




 凶一郎オレは言う。


 それは唐突で、衝動的で、けれども、あらん限りの勇気と誠実さを振り絞った声だった。




「急で悪いんだけど、もう一軒だけ付き合ってくれないかな」















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