「断食芸人」を読んで感じたこと

@turugiayako

第1話

「美味いと思う食べ物が見つからなかったからなんだ。見つかってさえいればな、世間の注目なんぞ浴びることなく、あんたやみんなみたいに、腹いっぱい食べて暮らしていただろうと思うけどね」

 これは、フランツ・カフカというヨーロッパの男性が書いた「断食芸人」という小説に出てくる言葉である。カフカは、世界的に有名な小説をいくつか書いた人であるらしい。私は、「変身」という小説の作者として、カフカの名前を聞いた。「変身」を読むために、私は何年か前、岩波文庫から出た「変身・断食芸人」という、カフカの小説二作品を日本語訳した本を買った。山下肇と山下萬里という人が翻訳した本だ。

 正直なところ、私は「変身」という小説から、特に文章にして語りたいと思えるような魅力を感じ取ることはできなかった。結局のところ、私は文学と世の中で言われているものに耽溺する力が、欠けているのかもしれない。私が今まで読んできた小説の中で、最もそれを読んでいた時間が重要な時間であったと断言できるある小説は、世間が文学とは呼ばない小説である。

 私は「変身」を読んだきり、ふううんと感じただけで、「断食芸人」の方は読まずに、本棚の一角に置いた。それから数年が過ぎた。カフカの書いた小説を、それ以上読むことはなかった。

 しかし、この文章を書き始めた日の朝、布団の上で目を覚ました私は、特に理由もなく、傍らの本棚から「変身・断食芸人」を取り出して「断食芸人」を読み始めた。短い話だったから、すぐに読み終えることが出来た。読後、「ああ、この本を買ってよかった」と、私は感じた。

 文学を研究する人たちの間では、どんな評価をされているのかはわからないが、少なくとも私にとっては「変身」よりも「断食芸人」の方が、重大な小説であると感じ取れた。

 断食芸人は、断食を芸として行う芸人を描いた短い小説である。彼は、40日に渡る断食の様子を大衆に公開することを唯一の芸とし、それによって熱狂的な人気を獲得した。しかし、その人気も次第に衰えて、彼は、サーカスの片隅で断食の様子を見せても、誰からも注目されないような境遇になってしまった。誰にも注目されない中、断食芸人は断食を続けて、遂には命を落としてしまう。

 死の前に、彼は他人と最後の会話を交わす。

「俺は、断食をし続けることで、あんたたちを感心させたいってずっと思っていたんだ。だけど、もう、感心してほしくはないんだ」

「どうして感心してほしくないのだい」

「俺が断食をしていたのはね、そうするしかなかったからなんだよ」

「どうしてそうするしかなかったんだい」

 この問いに対して、断食芸人は、このエッセイの冒頭に書いた言葉を口にして、命を落とす。

「美味いと思う食べ物が見つからなかったからなんだ。見つかってさえいればな、世間の注目なんぞ浴びることなく、あんたやみんなみたいに、腹いっぱい食べて暮らしていただろうと思うけどね」

 この言葉を読んだ時、私は、雷が落ちたような、衝撃を感じた。

 この「断食芸人」という小説は、孤独についての小説なのだ。文学的に正しい解釈なのかどうかはわからないが、少なくとも私は、孤独についての小説として、「断食芸人」を読んだ。

 孤独。

 振り返ってみれば、私がこれまで読んできた小説の中で、私の心に何か重大に感じられる印象を与えたものは皆、世界の中での孤独という問題を扱っていたような気がする。

 奈須きのこの「空の境界」

 アルベール・カミュの「異邦人」

 宇佐美りんの「推し、燃ゆ」

 ラブクラフトの「アウトサイダー」

 これらの小説は、もしかしたら大学で文学を学んだ人にとっては、並べて語ることが不適切だと考えられるくらい、かけ離れたタイプの小説であるかもしれない。もしかしたらこうやって語る私のことを、文学も小説のこともわかっていないおろか者だといって笑うかもしれない。それは仕方がない。何が正しくて何が間違っているかなんてことは、今の私にはわからないし、例え人類の中で最も賢明な人に聞いたとしても、その人の答えが正しいかどうかはわからない。最近の私は、正しさなんてものは誰にもわからないのでないかと思い始めている。私は、私に感じ取ることが出来たことをただ正直に語ることしか、出来ることがないのだ。

 奈須きのこの「空の境界」

 アルベール・カミュの「異邦人」

 宇佐美りんの「推し、燃ゆ」

 ラブクラフトの「アウトサイダー」

 そして、フランツ・カフカの「断食芸人」

 これらの小説は、私にとっては、一つの問題を描いているという点で、共通したものがあるのだ。

 孤独、という名の問題を。

 そして、孤独、という問題を、程度の差はあれ内包したことで、これらの小説は、私の心に恐らくは一生消し去れないであろう傷をつけた。それはきっと、私自身もまた、幼き日から世界において孤独であることを感じ続けたからではないだろうか。両儀式も、ムルソーも、推しアイドルに熱狂する女子高生も、地下世界に閉じ込められたアウトサイダーも、餓死によってその人生に幕を下ろした断食芸人も、どこか、私にとって他人だとは思えない部分を持っているのだ。彼らは皆、私なのだ。

 断食芸人は、人々から誤解されていた。断食という苦しみを、芸のために耐えているのだと誤解されていた。しかし彼本人にとっては違った。彼にとって、断食は決して苦しいことではなかった。彼はその気になれば、いつまでも断食をし続けることが出来た。何故ならば彼にとっては食事という行為は、例え何を食べようが、楽しいことではなかったのだから。彼はうまいと思える食べ物を見つけることが出来なかったから、断食をするしかなかったのだ。

 食事は、快楽である。少なくとも私にとってはそうだし、世界の多くの人々にとってもそうであることは、料理という文化が世界中で発展した事実からも明らかだ。だけど断食芸人は、食事に快楽を感じ取ることが出来なかった。だから他の人間のように生きることは、出来なかった。断食芸人として生きることでしか、彼は生の虚しさに耐える道を見出すことが出来なかったとまで書くことは、断定的に過ぎるだろうか?

 空しい? そう、快楽の無い生を、僕は空しいと呼ぶことしかできない。

 僕は、いつか必ず死ぬ。あなたも死ぬ。僕たち人間は、いつか必ず死ぬ。いつか必ず死ぬのに、僕たちはなぜ生きているのだろう。僕には、理由はない。ただ、死にたくないから生きているだけだ。生きていることに理由はないし、僕が生きていることが世界にとってどんな意味を持っているのかもわからない。いやきっと、意味なんてないのだ。ただ生まれ、ただ死ぬ。そこには、空しさだけがある。その空しさを埋めるために、僕は快楽を求めるのだろうと思う(もしかしたらたまたま僕がそうであるというだけで、他の人たちは違うのかもしれない)。

 食事は、その快楽の一つだ。ただ生きるためだけが目的なら、実は、美味しい食事を食べたいと思う理由はない。だけどたまたま食事に快楽を感じ取れたというだけで、僕は断食芸人と何ら変わりはないのだ。客観的に言えば無価値としか思えない行為にしか生きる実感を求めることが出来ず、大衆のきまぐれに依存し、やがてはあっけなくその生涯を閉じる断食芸人と、僕は同じなのだ。

 そしてきっと、あなたたち全ての人たちが、どこかで、断食芸人と同じなのだ。

 誰かが書いた文章によれば、カフカは、きわめて現代的な作家なのだそうだ。現代とは、人がその生に、一切の根拠を見出すことが出来なくなった時代だと、私は思う。かつて人は、神に根拠を見出していた。自分が生きているのは全て神様の思し召しなのだと無根拠に信じて、共同体の中で自分に与えれた役割をこなすことに少しの疑問も抱かずに、一生を過ごすことが出来た。生きる意味なんてものは考えることもないくらいに、愚かでいることが許されていた。

 だけど、今は、きっと違う。

 今の僕たちは、神も伝統的な共同体も信じることが出来ないくらいに、賢くなりすぎた。僕たちは多かれ少なかれ、何の疑問も抱かずに生きるなんてことは、出来なくなったのだ。他の人たちのようには生きることなんてできないという気持を、多かれ少なかれあなたたちだって僕のように持っているはずだ(あるいはそんな気持ちを持っているのは僕だけかもしれないが)。

 インターネットの発達によって、僕たちは誰もが他人の気持ちを知ることが出来て、自分の気持ちを世界に対して伝えることが出来る。でも伝え合うことが出来たからと言って理解しあえるとは限らない。むしろ僕たちは自分の気持ちを語れば語るほど、他人の言葉に耳を傾ければ傾けるほど、自分と他人との違いがいかに大きいかを、実感し続けているはずだ(あるいはこれも、僕だけの話なのかもしれないが)。他人と同じように美味しいと思える食べ物を見つけることが出来なかった断食芸人のような気持に、なっているはずだ。

 だから、そんな現代に生きているから、僕は断食芸人を読んで、雷が落ちたような衝撃を感じたのだろうと思う。

 フランツ・カフカは、前世紀の前半に、この世を去った男である。しかし彼が書いた「断食芸人」は、むしろ現代でこそより一層、人々にとって読むことが人生にとって重要な経験となりうる小説であるのかもしれない。きっと僕が読んでいないだけで、カフカという人が書いた小説は、みんな似たようなところがあるのではないだろうか。

 これまで書いてきたことは、全てが僕の妄想にすぎず、文学を大学で学んだような人にとっては、笑ってしまうような戯言であるのかもしれない。しかし繰り返すが、おろか者と思われようとも、僕が感じたことを語り続けることしかできないのだ。何が正しくて何が間違っているのかなんてことは、僕にはわからないし、もしかしたら誰にもわからないのかもしれない。賢い人が言っていることが正しくて、愚か者が言っていることが間違っているのかどうかもわからない。

 わかっていることはただ一つ。いつか僕は死ぬということだ。だから僕は、語り続けようと決めた。僕が口にする言葉の中に、例え1リットルでも真実が含まれていることに賭けて、語り続けようと僕は決めた。いつか、断食芸人のように、僕の瞳が閉じられて、二度と開かなくなる時が来るまで。

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