プシュケの運命ごっこ

あまつむり🐌

プロローグ

 4日前、父であるロゾール・ヴァニタスが亡くなりました。

 テロリズムの犠牲者の一人でした。

 3日前にはお化粧と着替えを済ませて棺に入ってしまい、つい昨夜にお別れの会を終えたばかです。


 生前はご立派なお医者様だった父の葬儀には、お花を抱えた沢山の人たちが、最期のお別れに来てくださいました。

 涙ながらに言葉をかけてくださる方々に、のこされた私は、ちゃんとご挨拶をお返ししなければならなかったのでしょう。

 でも、悲しくて今にも胸が張り裂けてしまいそうな私は、父の服にくるまり、棺の傍らに膝をついてただ泣きじゃくるだけでした。


 人様ひとさまの前で、こんなみっともない姿を晒してしまった私を、立ち振る舞いには特に厳しかった父は"はしたない"とお叱りになるでしょうか。

 それとも、呆れかえって溜息すらわずらわしそうに、ただ黙って瞼を伏せられるのでしょうか。

 しかし、そんな情けない私を叱り飛ばしたのは、成人にも満たない私に代わり、父が亡くなった後のことを仕切っていた父の兄。私の伯父にあたる方でした。

 伯父はすぐさま、そんなお行儀の悪い私を人気ひとけの無い場所に連れ込んで、ピシャリと頬を打ちました。

 「こんなおおやけの場で、父親のつらに泥を塗るつもりか? ……このっ、恥知らずが!!」

 そう叩きつけられたことに貫かれ、私のすくんだ小さな心は、一夜が明けた今でも滴る血を止められないままです。

 目まぐるしく変わってゆく環境にただただ目を回す私を追いやって、今日から我が家のお片付けが始まってしまいました。


 力ずくで木目を裂く大きな音と、燃え盛る業火の中で乾いた木や紙のぜる音が、ひっきりなしに聞こえています。

 父と私の思い出が、次々と打ち壊されているようでした。

 もう涙も声も枯れ果て、この悲しみを心の外に追い出すことすらままなりません。

 布を噛まされ、埃っぽい物置小屋の隅に繋がれた私は、自身の無力さを呪いながら、ひたひたとこの身を濡らす後悔の海に深く溺れ沈んでゆきます。

 「らないものは、全て燃やしてしまいなさい」

 まるで、血も凍ってしまいそうな程に冷たい声で、伯父は引き連れて来た人達に指示を出しています。

 少し身じろぐだけで、みぞおちよりもこぶしひとつぶんだけ右下のお腹が鋭く痛みました。

 拙いながらも精一杯の抵抗を見せる私に、伯父が下した容赦ない鉄槌てっついは、この身体に一生消えない傷を与えてしまったことでしょう。


 それでも私には、なさなければならないことがあります。

 目を閉じ、耳をすませ、物置小屋の外の光景を想像してみます。

 遠くから、伯父を呼ぶ誰かの声が聞こえました。

 そしてすぐさま、あらかじめ示し合わせたからの"合言葉"が聞こえます。


 ____さぁ、作戦開始です。

 

 すぐさま、多くの足音が遠のきました。私は隠し持っていた小さな刃物で、手首を固く縛る麻縄を切り捨てました。

 伯父たちは、とても耳が良いのです。それは扉を挟んで隠れていても、ほんの僅かな衣擦れの音だけで見つかってしまうくらいです。

 積み重なった古い家具や荷物を足場にして、物置小屋の上段によじ登ります。

 そこには、昨夜のうちに用意されていた荷物と、埃を払って皺を伸ばした一着のドレスがありました。


 "俺があの人の気を引いている間に、この服に着替えてお逃げなさい"

 昨夜の作戦会議がよみがえります。

 私は彼の言いつけの通りに服を着替え、古びた鏡の前で、父を真似まねて笑いました。

 視界に長いまつ毛が映り込むほどまぶたを落とし、口を開けすぎないように気を付けながら、頬を持ち上げて表情を整えます。

 父によく似た鋭い眼差まなざしをさらに尖らせて、「さぁ、どんな悪戯いたずらをしようか」と意気込んで息を吐けば______鏡に映った私は、まるで別人でした。


 頭からつま先まで、丁寧に作り込まれた豪奢ごうしゃなドレスを揺らし、鏡像きょうぞうの私と目が合うと、試しにクイッとあごを持ち上げてみます。

 ほんの少し立ち振る舞いを変えて、父が捨てられずに仕舞い込んでいたドレスを身にまとっただけなのに、普段から父の2歩後ろをついて歩いていた控えめな私は、どこを探してもみつからないのです。

 

 でもこれで、伯父をあざむいて逃げられるかもしれない。

 私は嬉しくなって、レースを重ねたすそひるがえしながら、くるりとその場で回って見せました。

 ぶわりと舞い上がった綿埃わたぼこりが、ふわりふわりと宙を漂いながら私に降り注ぎます。

 そのやわらかい存在を手のひらに優しく迎え入れながら、私は以来初めて、心から微笑んだのです。


 「ねぇ、世界で一番お美しいお父様。私はようやく、あなたの美貌びぼうにかなうことができましたか?」

 私は、古ぼけた鏡を覗き込んで問いかけます。

 父は、とても美しい方でした。これはたとえ話でも身内贔屓でもなく、"世界一"と謳われるだけの努力と研究を重ねられた結果です。

 整った顔立ちはシルクのように滑らかな白い肌に包まれ、すらりと伸びた手足はいつも、爪の先まで気持ちを乗せた上品でしなやかな所作でした。

 しかし不思議な事に、男の人にしては少し高い父の優しいお声が、もう思い出せないのです。

 「"私は、世界で一番美しい"」

 まるで小鳥のさえずりが掠れるように薄れてゆく記憶に怯え、私は父の口癖を繰り返します。

 もう思い出せないけれど、私の声はちっとも似ていませんでした。

 「鏡よ鏡。もしお前が"こちら"と"あちら"を繋ぐ架け橋だというのならば、私をお父様の待つ場所へ導いておくれ」

 まるでわがままな王女様のように、他人ひとを見下すような冷たい声でした。

 その声に驚いたのは、他でもない私自身です。

 でも、その声音に似合うような振る舞いを突き通し、夢すら見せてくれない古ぼけた鏡に背を向けました。


 父は今、どこにいらっしゃるのでしょう?

 信仰に篤かった父は"死後の世界"について、何度もこう仰いました。

 「肉体を離れた魂は、神の御膝元である"ルグレの街"に辿り着き、そこで真実の安息を得る」

 でも、その話はまやかしでした。盲目に父の言葉を信じ、あのとろけるような微笑みに絆されてしまっていた私は、今までずっと騙されていたのです。

 だって、もしもその言葉が本当ならば、どうして父はあの時、私を庇ったりなさったのでしょう?

 聖典の内容を全て暗記なさっていた父は、きっとご存じだったのです。

 人々に説かれた導きの言葉は、誰かがでっち上げた"虚像の神"の言葉なのだと。

 それを知っても"嘘"を囁く父は、真実の神に背を向けた"異端"だったのかもしれません。


 脱いだ服を小さく畳み、鞄の隙間に押し込みます。

 何度も大きくまばたきをして、人差し指を立てて私に為すべきことを言った彼の言葉を思い起こしました。

 "目指すのは隣国のキルシュライ。首都のガルデンは人が多く、色々な国の人がいます。できるだけ人目を避けて、ひっそりと息を殺し隠れ住むのですよ"

 キルシュライの言葉は父の書いた論文や、お知り合いの方の手紙を読んで沢山勉強しました。基本的な文法や単語はもちろんのこと、日常に根付いた言い回しから言葉遊びまで、読み書きには自信があります。

 ですが、濁る音の発音がどうにも苦手で、隣国に渡った後の生活が不安でたまりません。


 重たい気持ちを胸の奥に仕舞い、蝶番ちょうつがいも錆びついた窓枠に、そっと手をかけます。驚いたことに、冷たい雨風に晒され続けた金属は、ほんの少しの力で音もなく朽ち落ちました。

 "関所の西の森に、秘密裏に入国を手伝ってくれる人達がいます。俺が話を通してあります。必ず、相手が言った以上のお金を渡して、すぐにその場を離れなさい"

 お財布はみっつ用意されていて、どれも膨れ上がって今にもはち切れてしまいそうです。

 "……お兄様は? 一緒にとはいかずとも、またすぐにお会いできますよね?"

 そう問いかけた私に、彼は少しためらってから緩く頷きました。右頬だけが、不均等につり上がっています。

 "…………えぇ、俺もじきにキルシュライに向かいます。傍に行くまで、良い子で待っていられるね?"

 私は笑顔を満開に咲かせて、彼の胸に飛び込みます。


 ________嘘つき。

 でも、その優しい嘘を面と向かって暴くことなど、弱虫な私にはできませんでした。

 "えぇ、えぇ。ずっと、何年でもお待ちしております。夜空が見える日はの星に手を振って、雨の日は軒先から滴る雫に囁きかけましょう"

 彼は私の頭を優しく撫で、額にそっとキスを落としてくださいました。

 "主よ、どうかこの子を守り、明るい未来へお導きください"

 彼の手は震えていました。私はそっと手を重ね、温めるようにキュッと握ります。

 "愛しています、お兄様。どうか、無理はなさらないで"

 私はお返しに、彼の頬に唇を寄せました。

 "俺も、愛しています。……あぁ、許してください。どうして、どうして……"

 彼の涙を見るのは、これがきっと最初で最後になるのでしょう。

 愛情の涙は暖かいと言いますが、それはとても冷たい悲しみの涙でした。


 外れた窓枠を静かに床に倒し、遮るものがなくなった穴から外を見回して空を見上げます。

 西風が運んできた黒い雲は、もう間もなく彼の涙のような雨を降らせるでしょう。その雨音に紛れて、真っ直ぐに隣国を目指します。

 怖くないはずなんてない。だけど私は、きゅっと唇を引き結んで、泣き声のひとつもらしませんでした。

 (私が物置小屋から逃げ出したことを知ったら、伯父様はどれほどお怒りになるでしょうか)

 想像したくもありません。連れ戻されれば、きっとむごい仕打ちを受けることでしょう。

 (でもこの旅が終わったら、立派になった私を見て、お父様はきっと褒めてくださるはず)

 の星のお傍にいらっしゃるであろう父に向けて、私は誇らしげに笑いかけました。

 めいいっぱいに詰め込まれた鞄を胸に抱き、覚悟を決めて宙に身を投げようと固く目を瞑ります。


 「おやめください!!」

 しかしその瞬間、物置小屋の扉の向こうから息巻いた彼の声が聞こえました。

 その声に従い、私は床に膝をつきました。

 でも、まるで縋り付いて引き留めるようなその声が、私に向けられたものではないとすぐに気がつきました。

 「邪魔をするな。苦しませはしない」

 心臓が縮み上がりました。伯父の声です。

 真っ黒に塗りつぶされた視界はぼやけ、まるで炎に包まれた建物に取り残されてしまったかのようです。

 いつもは温厚であまり口数の多くない彼が、あの恐ろしい伯父と激しく口論をしています。

 「大切なおとうとぎみを亡くされた、貴方あなたの心中はお察しいたします。……しかしながら、罪の無い"あの子"に対する非行は尊重できません!!」

 なんてよそよそしい言葉遣いなのでしょう。彼はどうして、いつものように"叔父おじうえ"とお呼びにならなかったのでしょうか。

 まるで、"お弟子さん"としての立場をわきまえたようなその物言いが、寂しい私の心に突き刺さるようでした。


 その途端、扉の向こう側は水を打ったように静まり返りました。

 あまりにも不自然です。

 どうしようもなく恐ろしい予感がして、物置小屋の扉へと向かおうとしたその刹那____。


 ______空気を引き裂くような怒号と共に、血が流れる音が響きました。

 感情に任せた、伯父の声にならない心の叫びクライシス・コールとどろきます。

 そこで、私は理解しました。

 伯父にとっての

 次は、私の番だったのです。


 物置小屋の扉が木っ端みじんに消し飛びました。宙に身を投げた私の背中越しにでも、その凄まじい衝撃を感じます。

 転げ落ちるように着地した私は、すぐさま立ち上がって暗い森の中へと走りました。

 私の背後から、いくつもの足音が聞こえるような気がします。

 しかし、私の知らない恐ろしい声を張り上げ、より口論を激しく繰り広げる彼の声に背中を押され、振り返ることはしませんでした。


 ぐるりと、視界が回りました。眩暈めまいでしょうか?

 髪が、ドレスの裾が、手を離れた鞄が、空に吸い込まれるようにしてなびきます。

 気づいた時には、私は自然と空へ手を伸ばしていました。

 (お父様が、お迎えに来てくださったのですね)

 私は嬉しくなって、抱きしめて貰おうと両腕を大きく拡げます。

 だけれども、鞄の隙間からこぼれた銀のモノクルは、どうしてか悲しげに私を見つめておりました。

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