マイ・フレイバー
三題噺トレーニング
香水
気になる人がいる。
休日の電車でしょっちゅう一緒になる彼女は決まって端の車両の優先席に座っていて、俺は大概、その近くに立つことになる。
歳は20後半の俺と同じくらい。ゆるいショートヘアと、こざっぱりとした化粧の中に見えるこだわりが心地いい。
俺は彼女を勝手に師匠と崇めて、メイクの参考にさせてもらっている。
俺はごくシンプルに女性装を趣味とする男性であるからして、日々メイクの研究が欠かせないのである。
今日みたいな休日はおめかしして街中でショッピングてなワケです。
今日のマスカラ、この前出たファミマ限定色だ。俺は買えなかったのに。
なんてことを考えながら彼女を見ることができるのは、彼女にそれを気取られる心配がないからだ。
彼女はいつも白い杖を抱えて座っている。
色なんてどうやって使い分けてるんだろうか。
その日の彼女はなんだかいつもより眠そうだった。
いつもより伏せられた瞼のシャドウも色がいい。あれも確か季節限定のフレーバーのやつ。
そして俺はようやく気付く。
彼女がコスメを選ぶ基準は、その香りなのだ。
俺が見た目から判断できる範囲の彼女のコスメたちは、フレーバーが特徴的なシリーズだ。
見えないとしても楽しめるこのコスメという概念はなんて素敵なんだと感慨深くなってしまう。
そうこうしているうちにいつも彼女が降りる駅にたどり着く。
慌てて立ち上がった彼女が杖を鳴らして下車したその座席に、定期券ケースが落ちているのを見つけてしまう。
反射的にそれを拾い上げて、俺も彼女を追いかける。数メートル先には彼女の背中。
杖の音を聞きながら逡巡する。
別に女装男なんて珍しくもない。何より彼女は目が見えないんだからそんなことは分からない。
普通に声を掛ければ、ただの親切なお兄ちゃんだ。
あぁでも今日は香水も女物だし、リップクリームもジルの限定の香りのやつだし、そんな匂いの男なんていないかも。
っていうかバレたところで何か問題ある?あるか、叫ばれたりしたら困るし。
「あの、落としましたよ」
悩んだ末に出したのは、練習していた女声だった。気をつけないとスキンヘッドのお笑い芸人みたいになるから難しい。
彼女は戸惑ったように立ち止まり、振り返る。
これ、と彼女の手に触れるように定期入れを差し出すと、彼女はそれが自分のものであることを手探りで確かめる。
「ありがとう、ございます」
「いえ、それじゃあ」
俺はホームへと踵を返す。女声はそんなに出せないのだ。
「あの!」
やっぱり女声に違和感があっただろうか。
「そのリップ、いいですね、香りが」
彼女が微笑む。
彼女が俺の姿に気づいているかは分からない。けれど、やはり師匠たる人、俺のこだわりは見抜かれている。
「ありがとう」
上擦らないようにそれだけ言って、顔が緩んでいるのが周りに見られないように両手で隠した。
去っていく彼女の白杖の音がリズミカルに聞こえていた。
マイ・フレイバー 三題噺トレーニング @sandai-training
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
関連小説
ネクスト掲載小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます