青春ウイスキー

ヤチヨリコ

「つまりはモラトリアムゆえだね」

 父はそう言って、煙草に火をつけた。彼は何度も禁煙に成功したそうだが、煙草を吸っていない姿を私は知らない。


「父さん、この部屋はまるで産業革命時代のロンドンだね」

 私は顔をしかめて、遠回しに苦言を呈した。

「つまらない比喩だね」

「つまらない、ってなによ」

「産業革命時代のロンドンになんか行ったことないくせに、産業革命時代のロンドンと言ったことがつまらないんだよ」

 父は灰色の煙をため息とともに吐き出すと、明らかに見下した表情で私を見た。


 ただの表現にこうまでされると、実の父であっても腹が立つものだ。実の父であるから腹が立つのか、ただの表現を非常識であるかのように扱われたから腹が立つのか、あるいはその両方に腹が立つのか。


 ものを知らないあどけない子供に言われたのならばこうまで不快感を抱くことはないのだろうが、言ったのは、私より年長の、人生半ばに差し掛かった、還暦を超えた肉親である。私よりも先に死ぬのだと思っていても、灰色の古びた考えを自慢げに振りまく、この男がうざったかった。


 父は、私の建てた家の、私の書斎の、私の籐の椅子に腰掛けて、私の所有する多くの本に煙草の悪臭を焚きしめた。

「一酸化炭素中毒になって早死しても知らないからね」

 私がそう言うと、「そうか」とだけ言って、私が誕生日に贈ったウイスキーをグラスに注いだ。昼間の明るさはすっかり消え失せて、遠くの空が橙色にほのかに染まっているような時間のことである。


「時にだね、青年の時分のことを覚えているかね」

「私に青年時代なんてあるわけないでしょ。私、女よ」

「どんな人間にだって、青年時代というものはあるさ。おまえにだって、私にだって、聖人だろうが、犯罪者だろうが。大人であれば必ず」


 父が二本目の煙草に火をつけたので、私は静かに窓を開けた。追い出したところで煙草の毒ガスを吐き散らして家中に蔓延させる。ならば、ほとんど飾りのような本たちを犠牲にして、それを阻止するほうがよっぽどいいと思った。


「私は覚えている。はつ恋や、恋した人の愛おしさを」

 父の目には私はもう映っていなかった。映っているのは、はつ恋の人への憧憬とわずかばかりの未練と、それから不確かなやわらかな思い出ばかりであった。


 父は棚に整然と並んだ本の数々を見回すと、火のついた煙草を灰皿に押し付けて消して、「もう、いいだろう」と呟いた。


 その思い出が不愉快なものであるかのように、口早にそう呟いた。その直後、ウイスキーを一口、口に含むと、彼は私を睨みつけて、「不味い」ときっぱりそう言った。


 「悪く思わないでくれたまえ」と、それから彼は言った。

「心が青年の頃に戻っているんだよ。あの頃に飲んだ酒はどれも酷く不味かった。人が思い出を心が繰り返すときは、心はその頃の自分に戻っているんだ。僕も若い頃はどんな酒の味もわからなかった。あの頃はブルーで、グリーンだった。未熟で、ものを知らない若者だった」


 彼は私の父ではないのだなと思った。なるほど、そこには青年が座っていた。

 彼は私にウイスキーの入ったグラスを譲り渡すと、煙草の箱を手頃な本の上に載せた。私たちの顔は、彼の時代の夕暮れにはありえないくらいはっきりとよく見えた。

「実際話すのも恥ずかしいことだが、ひとつ聞いてもらおう」

 そう言った彼は、眩しいものでも見ているような目をしていた。

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