僕は十二、十三の時、絵を描いていた。友人は小説を書いていて、挿絵のようなものを彼の小説に寄せて描いたこともある。


 はじめは特別熱心というわけではなく、流行りだったので、道楽としてやっていたまでだった。ところが、十五の時、恋をすると、僕はすっかりこの遊戯に心を打ち込んでしまい、そのためいろんなことをすっかりすっぽかしてしまったので、みんなは僕にそれをやめさせなければならないと、何度も考えた。彼女のことを一目見たら、学校の時間でも、食事の時間でも、何もかもが手につかなくなった。休暇になると、彼女と言葉を交わすことを目的に、用もないのに彼女の家の周りを歩き回って、彼女の兄に頬を殴られた。


「どうなさったの?」

 そんな時に彼女が僕に声をかけてくれたのを、よく覚えている。あの艷やかな黒髪、桃色の唇。そして、鈴がなるような可愛らしい声。

 彼女は一つか二つだけ年上だったのに、僕には彼女が大人びて見えていた。そんな彼女が少女らしいあどけない表情で僕を見つめるのだ。

 緊張で口もきけない。口を開いたとしても「あ」だの「う」だの言葉という言葉にはならない。言葉を発しようとすると殴られた頬が痛む。僕が痛みで顔を歪ませると、彼女は大口を開けて笑った。不揃いに並んだ白い歯をむき出しにして、女性らしからぬ大声で親父のように笑うのだ。

 その時、僕は彼女の笑顔が何よりも好きになった。


 結局、その日は何も話せなかった。けれど、あの日のような幸運に巡り会えるのではないかと、休暇やそうでなくとも暇を見つければ彼女の家の周りを歩き回り、それを繰り返すといつしか彼女とは友人と呼べるような関係になっていた。



 今でも彼女のような黒髪の乙女の姿を見かけるたびに、あの届かなかった高嶺の花を思い出す。彼女と出会った時の、彼女に抱いたはつ恋の感情は、どんなに老いても忘れることはないだろう。それよりも忘れられないのは、はじめて抱いた自分の赤ん坊の微笑だ。それはどんな父親だろうときっと変わらない。


 手に入らなかったこそ、惜しくって、悔しい。だから、きっと忘れられない。そんなことは妻には言えない。だから、墓場まで持っていくつもりだった。


 僕があの頃に描いた黒髪の乙女たちの中に、彼女の姿はどこにもなかったのは、僕が彼女を心底愛していたからだろうと思っている。彼女は僕の理想だった。理想であればその通りに描くことなんて出来やしないからだ。彼女の笑顔は、僕の鉛筆では描くことすら難しかった。あの色白の肌にそっくりな白い歯は入り組んでいて複雑でお世辞にも美人とは言えない人だったけれど、それでも彼女が歯を見せて笑う姿に僕はとりこにされていた。


 思えば、友人が書いた彼女は現実の彼女そのままで、僕は理想に恋をしていたのだなと思い知らされた。



 僕の両親は立派な道具なんてくれやしなかったから、ちっぽけな古びた鉛筆と兄が気まぐれによこしたスケッチブックが、僕のキャンバスだった。


 兄が父の会社の跡取りだったから、次男坊の僕は兄と比べて好き勝手できた。兄は気まぐれに僕の部屋を覗き込むと、スケッチブックを見せろと言って、ぺらぺらとそれを見物して、スケッチブックが終わりに近づくと次のをよこした。正直、僕は兄のことをよく覚えていないが、スケッチブックの思い出だけは覚えている。


 友人は僕のスケッチブックに何行かの短い小説を書き込むと、僕に絵を描いてくれと頼んだ。言われなくたって僕のスケッチブックなのだから、当然僕が絵を描くものだとふてくされて、そのページにはエロチックな絵を描いてやった。思い返せば、友人は僕がどんな絵を描こうが喜んだものだった。


 こんな性分だから、僕は彼女を手に入れられなかったのだろう。

 そんな絵を描いたときに限って、彼女は僕らの目の前を通りがかって、「見せて」と可愛らしくねだる。友人は特別なものを見せるときのように随分と焦らしてから、僕の絵を見せるのだ。だから、「助平野郎」と呼ばれてからかわれるのはいつも僕で、友人はその文章の出来の良さからいつも褒められていた。


 友人憎しの思いで、余計、僕は絵を描くことに打ち込んだ。彼女が桃色の唇で、僕のことを称賛するのが見たかったのだ。


 今思えば、幼稚な絵を描いたものだ。デッサンは狂っているし、遠近法もおかしい。中心に描かれた人物のポーズは、人体の構造とは異なる変なポーズをとっていた。背景なんか、どこにもないような場所を、現実ではあるはずがないような色で描いていた。それをただ一人だけ褒め称えたのは友人だった。肝心の彼女は「気持ち悪い」というばかりで僕の絵には目もくれなかった。


 友人は、そんな絵を見て、「素敵だね」なんか言うものだから、思わず、「おまえの目は節穴だ!」と怒鳴りつけたことさえあった。

 自分の浅学と非才性は自分でよくわかっていた。友人はよく僕の才能を称賛し、「プロになればいい」と言ったので、彼への嫌悪が何度も芽生えた。悪意が無いのを知っていたから、その芽が芽生えたと知れば、すぐさま引き抜き、「なんでもない」と誤魔化した。



 友人の豊かな才能は、その頃にははっきりと理解していた。小説という点でも、学校の成績という点でも、その他にもたくさんのことで彼は秀でた成果を残していた。優れた人格と、豊かな才能は、彼を優秀模範という四文字で表現することを可能にした。


 友人の書く小説は、太宰よりも芥川よりも漱石よりも、特別だった。特別に優秀で、特別に模範的で、特別に面白かった。特別に欠点というものはなく、特別に心に残る場所はなかった。彼女が彼の書く文章を褒めるのも理解できた。僕が勝てるところなどさっぱり見当たらなかった。


 だというのに、彼は自分の書く小説を卑下し、自分の価値を自分で下げた。

 「しょせんは道楽だよ」なんて言うものだから、僕はその分、僕の価値は彼より下なのかと惨めな気持ちになった。彼への気持ちは、彼女を想う気持ちよりも強くなっていた。

 

 友人に見せつけるために、小説を書くことにした。僕が友人より劣った人間であることを彼に理解させたかったから、小説を書いた。その思いの中に、運が良ければ、友人の小説にも勝る小説を書けるのではないかという期待が無かったわけではないと思う。


 物語は「私」がある青年に恋する場面から始まる。彼をひと目見た時から彼の優しさに好きになったのだと、「私」は証言した。とはいえ、「私」は少女である。青年のあの穏やかな眼差しと声ばかり、毎晩の夢で思い出す。初潮を迎えるまで、それがなんなのか知らなかった彼女は、ある日の夢で青年と接吻すると、その感情が下品な「恋慕」であったと知る。



 そんな物語を書き終えると、僕の頭には激しい後悔ばかりが襲いかかった。


 まかり間違っても、これをいいとは思えない。これは友人の目には素晴らしい小説に思えるだろう。それは彼が僕のことを好意的に思っているからだ。しかし、この小説が彼の目につまらない路傍の石のようなものに思えたとしたら、彼は僕を軽蔑するだろう。そうなったら僕は、一生彼に悔やんでも悔やみきれない思いを抱えて、このまま大人になっていくのだろうと思った。

 仕事を得て、妻を得て、子を得て、どんなものを得ても、彼を失った心の穴は埋めきれないだろうと。


 見知らぬ作品と作者のことを考える場合、一番に考えるのは作品の優劣だ。作者の人格や生活などは考えるの必要はない。だが、見知らぬ作品と見知った作者のことを考える場合、まず考えるのは作者の性格だと、僕は考える。作者自身を気に食わないと思っていたら、読者はその作品でさえ気に食わないだろう。坊主が憎ければ袈裟さえ憎い、神が憎ければ鳥居に小便をかけたくなる、そんなものだ。そんなもののはずだ。


 だから、彼にはこの小説を読ませたくなかった。僕が友人に自分より劣った人間だと思われるのはいい。しかし、彼とのぼんやりとした友情がはっきりと薄れていくのだけは嫌だった。

 僕は女でもないのに、女々しいものだと自嘲した。


 黒髪の乙女と僕が喩えた彼女は、僕が小説なんかを書いているうちに、すっかり大人になっていて、僕と友人の野暮ったさを見て笑った。

 成熟して大人になった彼女からは我々は幼稚で馬鹿馬鹿しく思えたのだろう。歯を隠して笑うその笑顔は、いやらしい大人そのものだった。


 僕はここではっきりと恋に破れたのを感じた。彼女の笑顔に少し前までの魅力はまるでなかった。

 僕が絵を描かずに何やらくだらない小説を書いているというのは、この田舎の若者の間では有名な話だった。そんなものだから、彼女は僕にその小説を見せるようにねだった。友人も口には出さなかったが、見せてほしそうにしていたので、僕は「つまらないものだよ」と前置きして、原稿用紙の束を見せた。


 消しゴムで消した跡が生々しく残るそれを見た彼女は、鼻で笑って、「恋なんかしたことないのに、こんなものを書いて。いやらしいったらありゃしないわ。それに、この女もみっともないわね」なんて何か見透かしたような顔をして、言った。

 その声色には僕を見下す色が混じっていた。

 友人の小説を読んだときのような色は、どんな言葉にも込められていなかった。つらつらと小説を批判して、満足したら、「恋のひとつもしたことないくせに」とだけ呟いて、同じ年頃の女たちのところに行って笑った。


 友人が「僕は好きだよ」と笑ったから、僕は彼の手にある原稿用紙を奪い取って、彼の眉間を拳で殴って、逃げた。


 彼がくれた言葉のうち、この時の称賛ほど不要なものはなかった。批判であればよかった。罵倒であればよかった。僕を認めないでほしかった。僕はこの世で一番惨めな人間だなんて考えて、橋の欄干に足をかけて飛び降りて死のうとさえ考えた。


 家にも帰らないで、走って逃げた。こんなみっともない人間の姿を、家族の前に置いておきたくなかった。どうしたのと声をかける人もいたが、何も言わずに逃げたら、そのまま追いかけてこなかった。


 日が暮れてくると、太陽が僕を見ているようで、太陽から逃げるように橋の下に潜った。川の流れは穏やかで、手を突っ込むと川底の石がこつんと指に当たった。

 暗くなってくると、月がのんきにこちらを眺めていた。太陽は夜の波に追いやられて、遥か遠くで僕を睨んでいた。ざまあみろ、僕なんか見ているからだ。手を叩いて喜んで、そうしているうちに寂しくなってきて、涙が流れた。


 月の白が、あの彼女の白によく似ていて、好きだったのにと惜しくなって、もう一度会いに行こうかと考えて、やめた。彼女は僕の彼女ではない、そう思ったのだ。


 僕はあの原稿用紙を一枚一枚破いて、川に流した。そうすれば、川の魚があの小説によって生きると思い込んでいたから。


 僕はそのまま一夜を過ごしたら、満足して家に帰った。その時の両親の顔は今となっては思い出せない。深い反省ばかりが先に立って、家族の心配なんか気にもしていなかった。


 友人とは学校で会っても、道端ですれ違っても口を聞くことはなかった。お互い、顔を合わせたとしても、どちらが先に口を開くのかばかり気にして、どちらかが口を開けるのを待っている間に時間が過ぎていった。

 ある日の晩のこと。友人が僕を訪ねてきた。

「父さんの酒を盗んできた。僕も大した人間じゃない」

 彼の盗んできたウイスキーを、台所から盗んできた茶碗になみなみと注いで飲んだ。二人して薬でも飲むかのように、舌の先で少しずつ舐めて飲んだ。一口舐めるたびに、飲み慣れぬアルコール分のおかげで血の巡りがずんずん良くなっていくのを感じた。

 二人の男が、ぽつりぽつりと偽らざる本心をじっと静かに語り合った。

 友人の父のウイスキーは酷く不味くて、ウイスキーを飲むたびに、友人と彼女のことを思い出すのだ。

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