第2話 百蟲夜行

 深夜、午前三時。静まり返った街に人影が一つ。若い男のようなその影は、街はずれの裏路地に足を踏み入れる。

 そこは壁や地面が炙られたように少し溶けた跡があった。そして立ち入り禁止のテープで入り口を塞がれている。およそ八時間ほど前に警察が設置したものだ。


 男はそのテープを迷うことなく乗り越えると、そのまま裏路地の奥に進んで行く。曲がり角まで来ると、何かを見つけたようでしゃがみ込む。

 手にしたものは、何らかの布きれだった。バッグか何かが高熱に晒され、バラバラになった一部だろう。焦げ跡がよく目立っている。


 男はそれで満足したようで、もう一度テープを跨いで街に戻っていった。




 「う、あ……」


 深い、泥のような眠りから目を覚ます。どうやら、どこかに寝っ転がっているようだ。何か頭に違和感を感じる。


 「おお、起きたか修二」


 人形のような顔がそこにはあった。赤い瞳の金髪。心当たりなんて一つしかない。


 「イグ、ニス……」


 「そうだ、イグニスだ。意識ははっきりしてきたか?」


 まだ半覚醒だった脳が動き出す。まず自分の肉体のチェック。──問題ない。どこも怪我をしていない。手を閉じたり開いたりして、動くことを確かめる。

 次に状況確認。目を開けるとイグニスの顔。右を向くと黒いドレス、イグニスのお腹だ。左を向くと、壁掛け時計、ハンガーに掛かった制服、勉強机、つまりはよく知る俺の部屋。


 …………俺の部屋?


 「待て、これはどういう────」


 「動くんじゃない修二。まだ万全じゃないだろう」


 起き上がろうとするのを制止される。だが、もしかすると、いや確実に俺は今とんでもない体勢になっている。


 「おい、聞きたいんだが俺は今どうなっている? まさか、膝枕してるとか言わないよな?」


 「ん? その通りだ、この私が直々に膝枕をしている。喜べ」


 頭の後ろが柔らかい。ドレスの生地が滑らかで、寝心地が良い。おまけになんかいい匂いがする。だが全く落ち着かない。気持よさよりも、圧倒的に恥ずかしさの方が勝っている。


 「駄目だっ!」


 「うおっ」


 腹筋を使い勢いよく上半身を起こす。女の子に膝枕してもらうとか、恥ずかしすぎる。顔をまじまじと見られるのも大変にムズムズする。


 「そんな身体で大丈夫か? 寝ていた方がいいんじゃないか?」


 「大丈夫だ、問題ない。この通りすっかり元気だ」


 ベッドから起き上がり、身体を軽く動かす。筋肉がほぐれ、眠気もスッキリと消えていく。一通り動かしたら再びベッドに座り込む。


 「よかった。私が膝枕をしてやったかいがあったものだ」


 少し得意げな顔をするイグニス。膝枕に肉体的な治癒効果があったとは初耳だ。


 「……とりあえず、なんでお前がここにいる? 俺の家の場所知らないだろ。どうやって俺を連れてきた?」


 「うむ。知らなかったので、キミに聞いた」


 「は?」


 「これは語弊があるな。修二の記憶に聞いたんだ」


 なにかすごいことを言い始めたぞ。


 「修二が寝てたからな。記憶にこう……、ちょちょっと」


 「マジ?」


 寝起きということもあるが、勝手に自分の記憶を覗かれたという事実が衝撃的で、語彙力が急激に低下する。


 「ウソ、じゃないよな。現に俺がここに寝てるわけだし。まあ変な奴だとは思ってたけど、こんな超能力じみたことまでできるとは」


 昨日のこともある。イグニスの言う契約によって俺の身体は変貌し、圧倒的な力を得た。ならこれぐらいできるか、と俺はこの非日常を素直に受け入れていた。


 「あれ、それでその後どうしたんだ。俺をどうやって運んだんだ? 救急車でも呼んだのか?」


 俺だって体格がいいわけではないが、これでも高校二年生の男だ。決して軽くはない。それを、少なくとも大人には見えない女の子がどうやって運ぶというのか。


 「いや素手で運んだんだが」


 「ウソぉ」


 驚きの連続。受け入れるにしても、限度というものはある。もしや、これもさっきの超能力的なパワーなのか。


 「信じられないか? これぐらいなら余裕だ」


 彼女はベッドから起き上がると、俺が座ったままのベッドを片手で持ち上げた。


 「お、おいおいおい!? わかった、わかったから下せ!」


 どうだと言わんばかりににやりと笑うと、イグニスはベッドに座りなおした。


 「私を人間の尺度で考えない方がいい。キミたちと同じ姿をしているが、中身はまるきり別物だ」


 「そ、そうみたいだな。というかやっぱり、人間じゃなかったか」


 昨日から薄々そうかなとは思っていた。今日は寝起きから超能力や怪力のオンパレードだ。むしろ、これで人間ですと言われる方がショッキングだ。


 「イグニスのことについても知りたいが、まずは昨日の話だ。契約とはなにか、詳しく説明してほしい」


 「詳しくもなにも、至ってシンプルだ。私が修二に力を与え、修二はその力で敵を倒す。簡単だろ?」


 「力って、昨日のあの機械の身体のことか? 敵というのは今話題のデカい蟲、で合ってるか」


 「おおむね合ってるが、少し違うな。蟲はたしかに敵だが、あれはただの先兵だ。本当に倒すべき敵は別にいる」


 あの超巨大蜘蛛もただの先兵だと? 危うく上半身と下半身が涙の別れをするところだったんだが。もっとすごい奴がいるのか、あまり考えたくもない。


 「それでなんだ。その契約には俺に何のメリットがある? 俺に力を与えて、敵と戦って欲しいっていうのはお前の都合だろ? 俺はそれに見返りを貰えるんだよな?」


 イグニスがきょとんと、不思議そうな顔をする。おい、冗談だろ? 今度こそウソであって欲しかった。だが現実は非常である。


 「何を言ってるんだ修二。修二は私に選ばれたんだから、それだけで栄誉ある素晴らしいことだぞ。私の契約者になれる、これ以上の見返りがあるか?」


 さも当然といった断言だった。イグニスはこれを本気で言っている。唖然として、何も言い返せない。


 「そうだな、強いて言えば……。修二たちの日常が守られるし、世界は滅ばずに済む。たしかに敵を倒してほしいというのは私たちの都合だが、それはつまりキミたち人間にも影響するんだぞ」


 「強いて言えば、じゃない! 強いなくてもそこが一番大切なとこだろ!?」


 思わずツッコむ。見返りと言われて世界平和ではなく、自分と契約できることを先に持ってくるあたり筋金入りのポンコツだ。


 「というか、たしかにデカい蟲は十分な化物だけど、世界が滅ぶまでの事態なのか?」


 「ああ、間違いない。今の被害はまだかわいいものだ。そのうち人間の手に負えるものじゃなくなるぞ」


 これについては、イグニスなりに根拠があるらしい。もっと掘り下げたいが、他に聞きたいこともある。話を変えよう。


 「なあ、機械の身体の方についてもよく教えてくれ。あれはなんだ? あれは……俺なのか?」


 あの状態の俺は、人間を遥かに凌駕した動きをしていた。全身は金属だし、視界はやけにクリアだし、思考も普段より冴えるし、おまけにシッポまで生えてた。


 「あれは間違いなく修二だよ。修二が望んであの形になったんだろう? アルゲンルプスとか言ったか。カッコいいじゃないか、銀の狼」


 「……俺が望んだって?」


 「そうとも。私は火を入れただけ、それをどんな形にするかは契約者次第。私の影響も少しあるだろうが、基本はお前の願望の、精神の形だ」


 心当たりはない。ロボットになりたいなんて思ったことはないぞ。どういうことだろう。そりゃまあ男の子だし、メカとかロボとか好きだけど。


 「ざっと観察したところ、かなり攻撃的な姿だな。全身に武器を搭載しているようだ。からくり仕掛けの兵器とは初めて見たが、何というか、よい」


 イグニスがにっこり笑う。アルゲンルプスが俺そのものってことなら、アルゲンルプスを褒めるってことは俺が褒められてるってことか? 少し恥ずかしくなり、イグニスから顔を逸らす。


 壁に掛けられた時計が目に入る。時刻は十九時を指している。そうか、もうこんな時間か。あれ、蜘蛛と戦ったときも十九時じゃなかったか?


 「なあイグニス、俺ってもしかしてすごい寝てた?」


 恐る恐る訊いてみる。


 「ああ、ぐっすりだったぞ。それはもう丸一日たっぷりと」


 「なあああああ!?」


 声を上げずにはいられない。そんなに時間が経ったのか!? というかいくらなんでも寝すぎだろ!?


 「学校、どうすんだ……」


 昨日は火曜日、当然今日は水曜日。祝日でもなんでもないので、学校はある。だが今更どうしようもない。まごうことなき無断欠席だ。


 「安心しろ修二。学校には病気だと伝えてある」


 「ああそう、センキュー。ならよかった」


 いやまて。


 「ど、どうやったんだ? まさかお前が学校に電話かけたのか!?」


 「そんなことしない。私はただ修二の親に、修二は病気だから学校に行けないと言っただけだ。電話したのは修二の親だ」


 「おおおお、親ぁ!?」


 一気に汗が噴き出す。なんだそれ。それってつまり、イグニスが親と会ったってことだよな? 金髪ゴスロリのこの女の子が俺を担いでるところも、もちろん見られてるってことで────。


 「修二ー? 起きてるのー?」


 一階から階段を上ってくる足音がする。この呑気な声は、間違いなく俺の母親だ。俺が叫んでしまったばかりに、様子を見に来たらしい。

 ドアがノックされる。まずい、どうしよう。イグニスをどうやって隠せばいいんだ。いや、もう既に手遅れなのか!?


 「修二、開けていいー?」


 「あ、いや、もうちょっと待っ」


 「大丈夫だ母さん、入ってくれ」


 イグニスが立ち上がりドアを開ける。まったく躊躇のない行動。だから待て、二人きりでいるところをどう説明すればいいんだ!


 「おはよう修二。病気は治った? うん、元気そうね。よかった」


 部屋主の了解もないままに母さんは入ってくる。だが、特に入り込んでいる異物に反応することはない。


 「ご飯はどうする? 持ってこようか?」


 「ええと、もう大丈夫。動けるから一階で食べるよ」


 「そう、じゃあ準備しとくねー」


 会話は終わり、母さんは俺の部屋から出ていく。ところだったが、最後に突然振り返ってひとこと。


 「イグニスが看病熱心で助かるわぁ。ずっと弟につきっきりだものねー。服も替えてくれるし、いいお姉さんねぇ」


 なんて?


 去り際に爆弾を落として母さんは階段を下りて行った。弟? 姉? 誰が? 全てを説明できそうな、隣に座っている金髪の女の子に視線を流す。


 「親に私のことは知られたくないんだろ、修二? 大丈夫だ、その辺はちゃんとケアしてある。私も無関係な一般人と関わりたくはないからな」


 「それは、具体的にどんな……?」


 「記憶操作だ。修二の親の記憶を改竄して、私は修二の義理の姉ということにしてある」


 「ぎりのあねぇ!?」


 さっきから叫びっぱなしだ。喉も枯れる。だが、そんなことも気にしていられない。

 記憶操作って。義理の姉って。おいおい、一日寝てたら俺の知らないところで勝手に家族が増えてるぞ。


 「なんだ、妹の方がよかったか?」


 「違う!」


 確かに一度は妹にお兄ちゃん呼びされたいと思って……いや違う、姉というのも悪くはない……だから違う!

 そんな問題じゃないと言おうとしたが、その前にある違和感の正体に思い当たった。


 昨日から俺は倒れて寝た。その時、俺は学校の制服を着ていた。だが今俺が来ているのは、白い部屋着だ。そもそも制服はハンガーに掛かってる。そして先ほどの母さんの発言。


 「お前、俺の服を替えてくれたのか?」


 「うむ。汚れていたし、あの服では寝心地が悪かろうと思ってな」


 「……俺を脱がしたってこと? 見たの? 俺の身体」


 「当たり前だ。脱がさなきゃ新しい服を着せられないだろ」


 それがどうした、という顔。本当にただの善意なんだろう。だから誰が悪いとかそういうことじゃない。分かっている、分かっているが。


 俺は特に鍛えているわけじゃない。運動は嫌いな方だし、万年帰宅部だ。

 だから体はかなり貧相で、モヤシと言われることもしばしば。そんな都合で裸を他人に見られるのは恥ずかしい。それが同年代の女の子ともなればなおさら。


 「そ、そっか。それは嬉しいけど、やっぱり恥ずかしいから今度があれば放置しといてくれ。それで、脱がしたワイシャツは洗濯されたのかな」


 「ああ。ワイシャツもパンツも、ちゃんと洗濯機に入れてきたぞ」


 ──────え?



 一階で、母さんが用意してくれた夕食を終える。考えれば昨日は夕食を食べていないので、これが二十四時間以上ぶりの食事だ。お腹が減っていたので、あっという間に食べ終わってしまった。


 もう父も帰って来ている。

 夕食は終えているようで、ソファに座りテレビを見ていた。父は俺が二階から降りてくるのを見て、「身体はもういいのか」とだけ言う。俺が「もう大丈夫」と返すと、軽く頷いてまたテレビを見始めた。


 イグニスは俺についてきて、一緒に夕食を食べ終わった。食卓の椅子に座りながら父とテレビを見ている。


 内容はニュース番組。昨夜十九時ごろ、通りの小道が急に光った後熱風が吹きすさび、超巨大な蜘蛛が出てきたという。

 どこかで聞いたことのある話だ。幸いにも人型のロボットだとか、金髪のゴスロリ少女だとかいった話は出てこない。直接は目撃されていないようだ。


 もし俺があそこにいなかったら────イグニスと契約しなかったら、どうなっていたのだろう。あの大蜘蛛たちは裏路地の巣から外に出て、人を襲い始めたのだろうか。そうであれば、きっと今日流れるニュースは、もっと過激で残酷な内容だったに違いない。

 そう思うと、少し安心する。


 いいや、それにはまだ早い。連日騒ぎになる巨大な蟲の事件では、蜘蛛以外にも百足や蟻といった怪物が目撃されている。俺が倒したのは蜘蛛だけ、ならばまだ街には残りがいる。安心できるものじゃない。


 「イグニス、ちょっといいか」


 席を立ち、イグニスを誰もいない洗面所まで呼ぶ。彼女は何も言わずそれに従う。


 「なんだ修二。この国の風呂は混浴だったか?」


 「違う! 風呂には一人で入れ。それぐらいできるよな?」


 「そうか、修二は裸を見られたくないんだな。でも私はもう全部見てしまったし、それを気にするのは今更じゃないか? 筋肉質な体は確かに一種の美しさがある。だが私は、修二がそうじゃないからといって嫌ったりしない」


 人のコンプレックスを抉るな、慰めるな。筋肉どうこうではなく、無許可に下まで全部見られてしまった側の気持ちも考えて欲しい。


 「そ、そんなことはいいだろ。第一、混浴なんてしたら裸を見られるのは俺だけじゃないんだぞ。そこんところ覚悟して言ってるんだよな」


 見ていいのは、見られる覚悟のあるやつだけだ。偉い人もそんなことを言っていてような言っていなかったような。


 「構わんが。私のプロポーションは完璧だ、恥ずべきところなどない」


 無敵かこいつ? そんなに堂々と言われるとは思わなかった。というか話が逸れすぎだ。


 「風呂の話はもういい……。俺は敵について知りたくてお前を呼んだんだ。蜘蛛以外にも、デカい蟲が街で目撃されてることは知ってるな? そいつらも敵なら、早く倒しに行かないと不味いんじゃないのか?」


 「それはそうなんだがな、私としては修二の体調が心配だ。エネルギーの補給はできたが、それならいいというものでもない。馬を走らせるにしても、エサをたらふく食わせた所で怪我をしていては走れまいて」


 「俺はもう大丈夫だ。昨日は多少喰われそうだったけど、ロボから人間に戻ったら傷が治ってたし」


 「だといいんだがな……」


 歯切れの悪い返事だ。だが、俺は本当になんともない。むしろいつもより調子がいい気さえする。


 「蟲、今日も出ると思うか?」


 「昨日も一昨日も出たんだろ? じゃあ今日も出てくるだろうな」


 「じゃあ行こう! 放っておけば人が殺される! せっかく契約したんだ、手に入れた力は有効に使わないと」


 「……わかった。修二がそう言うなら従おう。今から街に行くんだな?」


 頷き、急いで自分の部屋に戻り部屋着から外着に着替える。

 イグニスは当然のように着替え中の部屋の中までついてこようとするので、扉に鍵をかけ部屋の外に締め出しておく。家の鍵と自転車の鍵も用意した。スマホを探したが、そういえば昨日落としたままだった。


 「よし、出るぞ。あーでも、親になんて言おう」


 「案ずるな。私が散歩に出ると言えば、何の疑問も抱かん」


 実際その通りだった。物騒な夜中に出かけることを、両親は気にも留めなかった。これも記憶の改竄なのだろうか。

 これには少し恐怖すら覚える。イグニスの記憶操作は完璧だ。両親は本当に、イグニスが何年もずっと家にいたかのように扱っている。

 実際には、この家には彼女の部屋はおろか写真すらないのに。


 もしイグニスが敵だったとしたら、俺たちは何の疑問も抱かないまま支配されることだろう。いや、実はイグニスが本当の敵というオチが────。


 「修二? 何をぼけっとしている。行くんだろ?」


 「ああ、そうだな。すまん」


 流石に考えすぎだ。藤音の趣味に毒されたか。

 玄関を閉め鍵をかける。そして、隣から自転車を持ち出し跨る。通学には使ってないが、遊びに行くときは何かと便利だ。


 「そら、後ろに乗れ。腕を俺の腹に回して、落ちないようにしろ」


 「わかった。こうか?」


 自転車の二人乗り、警察に見つかったら補導ものだ。だが今はそれどころではない。人の命が懸かってるかもしれないんだから、大目に見てもらえないだろうか。

 夜の街へと漕ぎ出す。人気は少ないが、代わりに警察が多い。警察も敵と戦うつもりだろうか。警察を避けながらとりあえず駅前まで自転車を走らせる。



 「おおー、速いなー。馬よりも扱いやすそうだし、便利なものだ」


 さっきも馬の話をしてたな。好きなのか?

 それはそうとイグニスの身体が俺の背中に密着する。ほのかに温かいし、こう、柔らかいものが当たっている。これは自転車で正解だったな、賢いぞ俺。


 「さて到着だ。自転車は……仕方ない、敵が出たら近くに置いておくしかないか」


 自転車から降り、手で押してあたりの様子をうかがう。駅前の人々はサラリーマンや若者など、全てがいつも通りにそれぞれの目的のため動いている。

 敵はまだいないようだ。


 「イグニス、お前の超能力でなんか敵の位置とかわからないのか?」


 「別に超能力者じゃないぞ私は。敵がどこにいるかなんてわかるものか」


 やれやれ楽はできないなと思ったその時────近くで悲鳴が聞こえた。


 「行くぞ!」


 自転車も必要ない、すぐそこで何かが起きた気配がする。

 人のざわめきが大きくなり、悲鳴も同時に増える。恐怖は燎原の火が如く人の集団に波及し、大勢が歩きから駆け足、そして走り出していく。


 発生源は隣の通りからだった。逃げ惑う群衆、追いかける蟲の大群。全長一mから二mほどの蟻が、わさわさと大量に湧いてきている。

 俺はすぐさま物陰に隠れ、変身の口上を唱える。どうやらこれを言わないと変身できないらしい。



「──この身、この血を我が神に捧ぐ」


「鋼を纏い、爪を磨き、炉心に火を灯そう」


「我が祈りを以て今、敵を討つ牙を得ん」


「変身──── アルゲンルプス!」



 光が身体を包み、一瞬のうちに変身が完了。物陰から通りに出て、蟻の軍勢と対峙する。警察が避難誘導を行っているようだ。逃げる人々は警察に任せ、俺はこいつらを相手しよう。


 「ビーム・マシンガン!」


 両腕を突き出し、手甲から光弾を連射する。


 手甲には五門のビーム発振器が並んで内蔵されており、場合によって光弾を撃ちだすか光の爪を形成するか選択できる。

 光弾は並列したビーム発振器から一発ずつ順に発射されることで、次弾発射までの間に砲身を冷却し、長時間の高速連射を可能にしているようだ。


 弾幕の雨が地を這う蟻の大群に突き刺さり、撃たれた箇所が地面ごと灼けて線を引いたようになる。だが行進は止まらない。

 蟻を撃ち抜く速度より、こちらに迫りくる速度のほうが速い。両腕部のビームの出力を切り替え、爪を展開する。


 「ビーム・クロー!」


 両手を素早く振り回し、逃げた一般人の後を追おうとする蟻を切り刻む。蟲の群れは俺を優先的に排除する目標としたらしい。蟻がその殺意の矛先を俺に向け、足元からよじのぼってくる。

 それを振り払おうともがくが、吹き飛ばしたそばからまた次の蟻が身体に喰いつく。牙が金属の身体に喰いこむ。痛みはないが、齧られているという嫌な感触はある。


 蟻が全身に集り、軍勢に飲み込まれる。視界が蟻で埋まる。天地がどちらかも定かでなくなる。


 「ええい、うっとおしい……! なら、こいつを喰らえ!」


 脚部、腹部、背部の一部装甲が展開する。本来は廃熱用の機構だが、それを利用し超高熱ガスを噴出させることもできるはずだ。炉心をさらに加熱し身体の温度を上げていく。

 ぶしゅう、とガスが排出され同時に蟻の包囲が解ける。だがまだ足りない。包囲の外側にいた蟻の軍勢の一部が逃げようとする。ここで逃がせばまたどこかで出てきてしまうだろう。そうはさせるか。


 さらに温度を上げ、自分を中心として半球状に熱波を発生させる。転がっていた新聞紙のゴミは燃え上がり、街路樹も焦げて倒れた。ほんの一瞬、熱波が逃げる蟻を追い越し蟻はその集団ごと崩れ落ちていく。

 地面の空気が急激に加熱された影響で、一帯の空気の密度が変化する。熱せられた地面側の空気の密度が低下し、蜃気楼のようなもやまでが出現し始めた。


 「ちょっとやり過ぎたか……? まあ、建造物以外には被害でてないし、いいだろ」


 熱波の範囲内に人間がいれば即死ものだろうが、もちろんそんなことがないよう計算している。人を助けるために出てきて、戦闘の巻き添えで逆に殺してしまうなどとんだ道化だ。


 「危ない! 私まで丸焼きにする気か!」


 物陰からイグニスがひょっこり出てくる。しまった、こいつのことは完全に忘れてた。


 「すまんすまん。大丈夫か?」


 「何とか、な。まあ熱波を浴びた所で私は傷一つ負わないんだが。しかしこれまた盛大にやったな、修二」


 辺りは地獄もかくやという有様だが、それでも勝ちは勝ちだ。敵の気配はない。今夜はこれで終わりだな、と変身を解こうとしたその時────。

 きゃああ、と悲鳴が聞こえる。それも現在位置からすぐのところだ。蟻を逃がしたか、と思ったがすぐにそれは違うと判明する。


 巨大な百足がすぐ向こうの通りで出現した。長い体がのたうっている。

 肉眼では暗さもありよく見えないが、この身体は目も脳も機械化されており、頭部ユニットのサーモグラフィーなどを起動すればそこにいることは明らかだ。


 「イグニスはここで待ってろ!」


 そう言い残すと、俺は走り出した。




 魚のような影が水中を突き進んでいく。

 プールの端まで辿り着くと、その影は梯子に手をかけ水を散らしながら顔を上げる。黒髪の、学生ほどの年の女だ。


 「ふぅー、今の速かったかな」


 浪間市民プールの、静かな屋内施設の中で女は呟いた。

 係員と他の数少ない利用客は蟲の騒動で既に避難している。だというのに女は、特にそれを気にした様子もなく水泳の練習を続けていた。


 「湊、奴らがすぐそこまで来てる。早く仕事をしてくれないか」


 青い礼服を着た派手な男が、女に対し急かす。

 男は成人した若年の風貌をしており、深い空のような色をした長髪が特徴的だ。男は女の悠長な行動に不満があるらしい、苛立たし気に組んだ腕の指を上下させる。


 「あーはいはいうるさいなぁ。やればいいんでしょ。でももうちょっと待ってて、着替えるから」


 女は水の中から上がる。濡れた黒い生地がしっとりと光を反射した。競泳用の本格的な水着だ。この姿で外に出るのは躊躇われる、ということらしい。

 わざとかそうでないのか、ゆっくりと歩いて更衣室まで行く女に男は更に苛立ちを加速させるが、これ以上は何も言わずに女の後をついて行く。




 百足を殺した後も何体か怪物が現れ、その全てを殲滅した。


 警察の誘導で避難が続き、人のいなくなった街で身体の各部の動作を確かめる。──問題ない。稼働率良好。戦闘続行は可能だ。


 「むぐもぐ……」


 「イグニス、こんな時に何やってる? 食べてるのか? 拾い食いはだめだぞ、ペッしなさいペッ」


 「修二、もぐ、私を何だと思ってるんだ。もぐ、これはちゃんと意味のある行為だ。もぐもぐ。うん、美味い」


 イグニスはいつの間にか、パンとかお菓子とかを両手に抱えて食べ始めていた。大方、人のいない店から持ってきたんだろう。


 「エネルギーの補給だ。私じゃないぞ、修二のだ」


 「俺の?」


 「修二のアルゲンルプスは、私の力だと言っただろう? 具体的には私の精神エネルギーだ。これは、私が精神的な充足を得ることで回復する」


 「なるほど。じゃあ、そのエネルギーが切れると昨日みたいになるってことか」


 「そういうことだ、だから気にするな。……それより修二、変身は解くなよ」


 「ああ、分かってる。まだ来るんだな?」


 今夜はどうも様子がおかしい。昨日は大蜘蛛しか出なかったのに、今日は既に蟻の大群に巨大百足、おかわりがたくさん。しかも、まだまだ敵の気配がある。


 「もしかして、俺がイグニスと契約したことと関係があるのか? それとも関係はなく、これは予め決定された敵の攻撃なのか」


 「前者だな、間違いなく。ごくん。今まで好き放題してた餌場に、突如として敵──私たちが現れた。だから警戒してるんだろう」


 「どうすればいい? このまま戦ってもキリがないぞ。本当の敵とやらがいるんじゃないのか?」


 「うーん、はっきり言うとどうしようもないな。だが、敵の手駒も無限じゃない。このまま怪物退治を続ければ、いつかは向こうが弾切れを起こす。多分な」


 イグニスは正直だ。無駄に言葉を飾らず、並べず、誤魔化さない。ありのままの真実を言うが、時にはそれが残酷でもあるし頼もしくもある。気休めは言わないので、戦場のアドバイザーとしては優秀なんだろう。


 地響きがする。何かが、この地面の下を移動している。遠くで、巨大なワームが頭を地面から突き出すのが見えた。


 「修二、敵は避難した民間人を追いかけている。不味いな、スピード勝負になるぞ」


 「上等だ。こっちはまだまだ元気、人間は一人残らず守り切ってみせる。それになんだか楽しくなってきた。ほら、担いで飛んでやるから背中に乗れ」


 「楽しく? なんだ、修二はそういうタイプだったのか」


 イグニスを背負いながら、脚部のスラスターを駆使し跳躍を繰り返す。直線距離の移動ならこれが一番速い。

 ワームは住宅街を突っ切り最寄りの避難場所である公民館を目指している。だが、頭部ユニットの計算ではこちらが先に追いつく。




 時刻は二十三時。月明かりが浪間の街を照らす。


 その男は、公民館の屋根の上に座り込んでいた。公民館は天井がドーム状になっているため他の建物より背が高く、屋根の上からだと街の様子が一望できるからだ。

 彼の真下には、駅前の住宅一帯から逃げ出してきた住人が大勢避難している。浪間で指定されている避難所はいくつかあり、この公民館は駅前から最も近い。


 仮に住宅街の方でこの騒ぎが起こったのなら、避難所は公民館ではなく、より近い市が建てた緊急避難所の方だっただろう。


 「ああ、もう来たのか。速いな」


 男が独り言つ。巨大なワームが公民館を目指して移動しているのを、銀色のロボットが捕らえ戦闘が始まる。金色の光がいくつも弾け、闇を照らす。それはまるで、地に咲く花火のようだった。


 男は興味深そうにその戦闘の推移を窺う。だがこの公民館の上から戦闘区域まではまだ一km以上ある。この暗さで、しかも激しく動く人型ロボットの動きを人間の目が追うことは不可能だ。

 それなのにどういうわけか、この男はロボットの一挙一動を細かに観察し記憶している。


 しばらくの後、ロボットが右腕をワームの体に突き刺す。するとワームの体は円形に弾け飛び、胴体が両断される。貫通した煌めくビームの光が、深い夜の空を裂く。


 「やるねぇ。じゃあ、これはどうかな?」


 男は指を鳴らす。それを合図に、公民館周辺の住宅地から巨大昆虫が何匹も現れる。巨大蜘蛛、巨大蟻、巨大百足……まだ増えるその兵士は、それぞれが公民館に向かい進軍する。


 異なる方向からの同時攻撃。出した兵士の総数は八、あと三分もあれば兵士はそれぞれ公民館にたどり着く。

 銀のロボットは公民館に迫る兵士を各個撃破していかなければならないが、かけられる時間は移動時間を考慮せずとも一匹あたり約二十二秒しかない。


 人間にとっては絶望的な状況と言っていいだろう。だが変身体は諦めず、手近な兵士から殺していく。

 驚くべきことにロボットの動きは兵士を殺すごとに冴えていき、段々と戦闘に要する時間が少なくなっていった。男の目にはさながら、それが獲物を狩る狼のように映った。


 しかしその攻勢も終わる。四体目にして、狼の動きは止まった。

 その変身が解け、獣は人間になる。これまでに十匹近い大型の兵士と、無数の小型兵士を相手にしていることを鑑みれば持った方だろうと男は考える。


 「……君だったのか、正体は。なんにせよ終わりだ狼。正直、ここで君を殺せてほっとするよ」


 男はこれから死にゆく獣であった人間に、健闘を称える拍手を送る。満足そうに立ち上がり去ろうとするが、せっかくだからその最期まで見ておこうと思い踏みとどまる。


 そして、異変に気付いた。


 「これは────そうか、そういうことか。まったく忌々しい」




 あれで三体目。ワームを殺した後に急に現れた八匹の敵の内、半分近くを始末した。逆に言えば、まだ半分以上が残っているわけだが。

 どれか一匹にでも公民館に到達されたら即負けの、最高に分が悪い勝負だ。


 だがやるしかない。俺がやらなければ、この街はまるごと死んでしまう。両親が、クラスメイトがあいつらに殺されるところを想像するだけで、そんな未来は許容できないと心が叫ぶ。


 「イグニス、どうした? さっきからずっと静かだけど」


 「ああ、修二……実はな」


 住宅の屋根を飛び移りながら進むと、四体目の敵が見える。昨日戦った超巨大蜘蛛が道路を直進し、公民館へ向かっている。

 先手を取って仕掛けようと、スラスターを吹かして飛び上がる────はずだった。


 「すまん。エネルギー切れだ」


 スラスターは一瞬で停止し、中途半端な高度のまま落下していく。真っ逆さまだ。


 「マジかよ、それ先に言えって!」


 反射的に背負っていたイグニスを前方に抱えなおし、背中を丸めてなるべく受け身を取りながら道路に衝突する。


 「ぐおおっ!」


 痛みはないが激しい衝撃で視界が揺れる。身体をゆっくりと動かし仰向けになると、美しい夜空が見えた。イグニスは隣で倒れているが、落下のダメージは全てアルゲンルプスが負ったはずだ。

 立ち上がろうとするが、身体が動かない。駆動系に異常はないはず。ということはやはり、深刻なエネルギー不足らしい。


 イグニスも身体を震わせながら起き上がろうとするも、その顔は苦痛に歪んでいた。大粒の汗をかき、あからさまに具合が悪そうだ。


 「イグ、ニス…………」


 自立しようと足を踏ん張る少女だが、その力すら残っていないのか、途中で座り込んでしまう。


 「すまない。少し自分の余力を見誤った。残り五体、いけると思ったんだが」


 「全然いけてないじゃないか……!」


 変身が解け、身体の機械化が元に戻る。変身が解除されると途端に全身を疲労が襲う。

 大蜘蛛が弱った獲物を見つけ、公民館に進む脚を止めて喰らいに近づいてくる。


 これから死ぬというのは、火を見るよりも明らかだ。だが、信じられない。信じたくない。

 俺は、死ぬのか?


 全員守ると言いながら、結局力不足だ。少し力を手にしたぐらいで調子に乗った馬鹿のツケか。


 「……いいや、それは違うぞ修二。キミは……やれるだけのことを……やったんだ」


 絞り出すような声でイグニスが答える。


 「結果としては……滅びだとしても、それでも誰も……キミを責めるまい。だから……自分で自分を、責めないでくれ。本当に、すまない。無理……させたな、修二」


 この人形のような少女は、最期まで俺のことを案じているようだ。お前も死ぬんだぞ? なのに俺のことばかり気に掛ける。


 「なんだよ……。心も読めるなら、そう言えって」


 超巨大蜘蛛が眼前に迫る。俺たちにとってのギロチンとなる牙がぎらりと光る。────これで終わりか。死ぬというのに、浮かぶのは何だか他人事のような感想だった。



 「ランケア・ウェルテクス!」


 超巨大蜘蛛の頸が落ちる。横合いからなにか銃弾のような速度でものが飛んできたことは見えたが、あまりに一瞬のことだったので何が起こったのか分からない。

 同時に暴風が巻き起こり、腕で顔を覆う。一体何があった? まるで竜巻が横を通っていったような、そんな突風だ。


 唖然としていると、真横──イグニスとは反対側に、誰かが立っているのに気付いた。


 地面からその人物を見上げる形になるため正確なところは不明だが、人間でないことはその異形から見て取れる。特徴的なのは、頭部から伸びる長い角のような、もしくは剣のようななにかだ。


 「誰、だ……?」


 その異形は答えない。視線がこちらを向いておらず、どこか違う方を見ている。その目線を追うと、遠くの方から人間が一人歩いてくるのが見える。


 「酷い姿だな、イグニス。同じ誇りある上位種として見ていられない」


 男がすぐそこまで近づいてくるが、もう視界も霞んで容姿が分からない。だがその声は若くも落ち着いていて、どこか気品も感じさせる。


 「その恥をこれ以上晒したくないと望むのなら、ここで楽にしてやってもいいが。どうする」


 物騒な言葉を口にするが、声色から男に敵意はないようだ。来客に対しコーヒーにするか紅茶にするかといった調子で、生きるか死ぬかを選べと言っている。


 「キミ、は……。マーレ、か」


 どうやら互いに知り合いらしい。イグニスが弱弱しい声で反応する。


 「せっかくの提案だが……、遠慮させてもらうよ。私は……まだ、機能している」


 「そうか、ならばいい。だが────」


 どうやら蟲と一緒に殺されずには済んだようだ。男は言葉を続ける。


 「君たちの戦い方には無駄が多すぎる。だから余計にエネルギーを消費し、こんなことになる。地球を救いたいならもっと巧い戦い方をするべきだ。特にイグニス、君は昔からそうだな。流れに乗ってついやりすぎる」


 まさかの説教。


 「イグニス。もし君が奴らに喰われればどうなるか分かるだろ? それは決してあってはならないことだ。少しは無謀という言葉を鑑みて反省するといい。君の驕りが、慢心が全体の危機を招くんだぞ」


 駄目だ、もう聞いていられない。俺は錆びた機械のようにガタつく身体を起こし、男の前に立つ。男は少し驚き、そこにいる全員の注目を浴びる。


 「修二……。いい、よせ」


 「それが君の契約者か? 随分とまあ貧相だ。いくら相性がいいとはいえ、そのような駄犬を飼うのはいささか問題があると私は思うがね」


 怒りで逆に視界がクリアになっていく。

 目の前にいる悪態をつく男は、妙な飾った格好をしていた。まるで物語の貴族が着るような、金色の刺繡が入った深い青色の礼服。同じく青い長髪がなびいている。


 「俺のことは、いい。何とでも言え。確かに俺の戦い方は雑で、お前の言う通りだ。言い訳の余地もない」


 「ほぅ」


 男の目が、蔑む目から興味深いものを見る目になる。


 「助けてもらったことには感謝する。だが、イグニスのことを悪く言うな。こいつだって世界を救うために頑張ってるんだ。第一、こいつのエネルギーを使い切ったのは俺だ。全部俺の責任なんだ。だから、もう言うな」


 男を、残った力で懸命に睨みつける。男はしばらく沈黙し、そして大きく息を吐いた。


 「すまない、少し誤解していたことを詫びよう。どうやら君は駄犬ではなく、相応しい契約者だったようだ」


 意外な言葉に、むしろ混乱する。まさか正直に謝罪されるとは思ってもみなかった。


 「君たちは私たちが来るまでに敵を食い止めてくれた。その健闘がなければ、今頃大勢の人間が死んでいただろう。感謝する。私も言葉が過ぎたな、イグニスも許してくれ」


 「……別に、私は気にしていない」


 イグニスは男から視線を外しそっぽを向く。

 なにか大切なことを忘れている気がする。なんだっけ、とても重要な────。


 「っ! そうだ、敵がいるんだ! ここの蜘蛛はまだ四体目で、まだ敵があと四体、公民館に向かってるんだ!」


 叫んで、走ろうとする。だが身体はもう動かず、走り出そうとした姿勢のまま膝から崩れ落ちる。


 「おっと、駄目だよ動いちゃ」


 倒れる身体を、横からキャッチされる。いつの間にか隣に女性が立っていた。


 「あ、ありがとう……ございます」


 「大丈夫、残りの敵は全部私が片付けたから。もう敵はいない」


 女性にゆっくりと座らされる。黒髪の短髪、着ている制服は浪間高校のものだ。つまりは同じ高校生。だが見覚えはない。


 「自己紹介、まだだね。私は浅間湊。あっちのうるさいのがマーレ」


 「うるさいとはなんだ契約者。君がなかなか動こうとしないから、文句を言うのは当然だ」


 浅間と名乗る女の子は、俺と同じ契約者らしい。俺にとってのイグニスが、彼女はマーレという青髪の男というわけか。

 そういえば、最初に見た異形がいない。あれが彼女の変身した姿のようだ。


 「俺は緋山修二で、こいつはイグニス」


 「そう、緋山君ね。今日はもう遅いから、帰ってゆっくり休んで。そんなんじゃ明日も戦えないよ」


 時刻を確認できるものを探したが、スマホを持っていないし、そう都合よく時計は見つからない。


 「えーっと、今何時、ですか?」


 「ふふ、敬語はいらないよ。見た所同年代でしょ? いいよ素で。今はね、あ、もう日が変わった」


 ということは……つまり、四時間近く戦い続けてきたのか? そりゃこんなに消耗するわけだ。正直滅茶苦茶眠い。敵がいなくなったことで緊張感も途切れ、限界だ。


 「じゃあそういうことだ。我々も帰るとしよう、いくぞ湊」


 マーレと浅間は並んで、誰もいない道路を歩き始める。俺たち二人だけが、この無人の街に残された。


 「帰るぞ修二。私も休んで少し持ち直した。自転車、どこに置いた?」


 「自転車……。あー、いいや。このまま家に帰って、起きたら取りに行く」


 イグニスが立ち上がり、俺に手を差し出す。俺はその手を借りて、よっこらせと立ち上がった。


 そして、この身に再び明日が来ることを喜びながら歩きだす。互いに何も言わなかったが、手は離さなず繋いだままで。

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